部屋に戻ってきたところで、大きくため息をついて床に寝ころんだ。
　そうしてさっき見た光景を思い出す。
　まさか、こんなところで榎本部長の浮気旅行を見てしまうとは。
　さっき新垣さんと入った境内の奥で見たのは、部長の姿だった。本当だったらクライアントのトラブル処理で東京に居るはずなのに、家族サービス中だから、その仕事を吾朗に任せた榎本部長は、俺と吾朗の所属する営業二課の部長。仕事より家族を取るなんて、奥さんからしたらいい夫だなと思ったら、隣で腕を組んでいるのは隣の課の高梨さんだった。
　そう、つまりは不倫旅行。
　その部長が、こっちに向かって歩いてきたから、思わず彼女の手を掴んで逃げるようにして、ここに戻ってきてしまった。
　せっかくの浴衣姿は楽しそうだったし、似合っていたし、可愛かったのだけれど、こっちも見つかったら何を言われるかわからない。高梨さんは、噂好きで、しかも話を広げるのがうまい。
　俺は彼女のおかげで、社内の女の子と何股もかけたことにされたことがある。
　もちろん事実無根。
　相談事があるからと食事に誘われて、それを受けたり、
　新しい髪形を気にしていたから、似合ってるよと答えたり、
　素直に答えているだけなのに、どうしてか勘違いされてしまう。
　そのうちに付き合っていないのに付き合っていることになっていたり、
　デートに誘ったことになっていたり。
　若干の女性恐怖症にもなったくらいだった。
　しかし、部長の話、吾朗にしたら怒り狂うだろうなあ。
　勿論言う必然性はないけれど、隠し事をするのは苦手だし、嫌いだ。
　ふぅ、と息を吐いたところで、物音がして顔を向けると、床に正座していた彼女が足を崩していた。そして俺の視線に気付くと、頬を赤らめて恥ずかしそうに視線を伏せた。
「あ、ごめん。寛ぎ過ぎて」
「いえっ、あのっ、そのまま横になっちゃっててください」
　彼女は必死そうに答える。その様子も何だかかわいらしい。
　そういえば、ふと気付く。
　彼女とだと、自分が女性恐怖症になりかけていたことを忘れることができる。
　何て言うか。そう、自然なのだ。
　一緒に居ても、空気みたいに相手を柔らかく感じることができる。
　不思議な子だ。
　本当にそう思う。
　だからって、横になるのは、失礼だよな。
　慌てて起き上った頃、ドアがノックされて、仲居さんが食事を運んできた。
　もう少ししたら、花火大会が始まる。


　夜空に咲いた大輪の花は、お世辞抜きで綺麗だった。
　人混みの中ではなく、夜風が涼しいテラスで、風鈴の涼しい音色をバックに上がる花火が上がるたびに、彼女は小さくだが歓声を上げていた。
　最後に上がった花火の煙が風に流され消えていくのを見ながら、彼女は少し寂しげに呟く。
「綺麗でしたね」
　風が、彼女の首元を通り抜け、おくれ毛を軽く揺らしていた。
　触れてみたいな。
　ふとそんな不埒なことを思って、俺は思わず伸ばした手を頭の上で組み伸びをする。
「そろそろ大浴場行こうか。男湯が一階で女湯が地下、だったよね」
　料理を運んできた女中さんの話では、この旅館は階を分けて男湯と女湯があって、どちらも露天になっているのだそうだ。
　ついでに水風呂でも浴びて、こののぼせた頭を冷やさないと。
　そう考えながら、タオルや浴衣を手にして、最後に机の上に置いてあった鍵に手を伸ばす。
「俺の方が早いだろうから、鍵は俺が持ってくよ」
　すると慌てたように彼女が言った。
「あ、先に行っててください。鍵はフロントに預けておきます」
　女の子だし、色々準備するものがあるんだろう。
「わかった」
　俺はそう答えると、一人で地下に向かった。


　よく考えてみれば、露天風呂付きの部屋なわけで、わざわざ大浴場に行かなくても風呂には入れるのだ。だけど、部屋についてる露天は、テラスの一部に設置されたもので、部屋からは丸見え状態。さすがに彼女の前で入るわけにもいかないし、彼女が入ると言ったら、俺はどこに居ればいいのかわからない。
　改めてそう考えると、二人きりなんだなと気付かされる。
　彼女は、どうして、俺と一緒の部屋でもいいと思ったんだろうか。
　エレベーターの扉が開き、俺は一階の「大浴場はこちら」の案内に従って、たまに旅館の浴衣を着た人たちとすれ違いながら廊下を歩く。
　そろそろかな、と角を曲がろうとしたところで、聞き覚えのある声がした。
「それじゃあ、ロビーで待っててね」
「わかったよ」
　甲高い声は、高梨さんの、低くて渋い声は、部長の声だ。
　嘘だろうと、影に隠れて様子を伺うと、男湯の入り口の前で、部長に手を振る高梨さんが見えた。
　まさか同じ旅館だったとは…。
　と、るんるん気分の高梨さんがスキップでもしそうな勢いでこっちに向かってくるのが見える。
　地下の女湯に行くのだろう。
　このままじゃ、鉢合わせになる。
　俺は慌てて、非常口と書かれたドアにかけ込んだ。


　このまま大浴場に入っても、部長と顔を合わせるだろうし、
　かといって旅館をうろついていても、どこかではち合わせる可能性は高い。
　となると、一番安全なのは、自分たちの部屋ってことになる。
　…戻るかな。
　そう思ったところで、携帯が鳴った。相手は、本当ならここに一緒に来るはずだった市川だ。
「希一？遅くなって悪かったな。やーっと親を実家に帰したよ。
　ちょうど今、東京駅だからこれから新幹線でそっちに向かうよ。ぎりぎり終電には乗れるし。どうよ、盛り上がってる？さっきから吾朗の携帯、繋がらないんだけど、もしかしてあいつ、抜け駆けとかしちゃってるわけ？」
　テンション高めの声の後ろに聞こえてくるのは、雑踏とホームに鳴り響くシグナルの音。
　そういえば、市川には今の状況を話していなかった。
　俺は朝からの状況を説明した。
　話終わったところで、市川がぽつりと呟いた。
「…わかったよ。じゃあな」
　じゃあなって…。
「おい市川？」
　引きとめようとすると市川はさらっと答えた。
「だって、今更俺がそっち行っても、お邪魔なだけだろ」
「そんなこと…ない、けど」
　口ごもったのは、彼女に聞いていないことが気にかかったから。
　だけど市川はそれを肯定と受け取ったのか、はぁという大きなため息の後に、声を荒げて言った。
「あのなぁ希一。いい機会だから言わせてもらうけど。
　お前の気持ちはどうなわけ？」
　俺の気持ち？
「俺が行ってもお邪魔じゃないわけ？つーかそもそもお前は、どう思ってるわけ？新垣さんのこと」
「どうって…」
「好きかどうかってことだよ」
　鼻息荒く言う市川に、おいおいと俺は答える。
「あのなぁ、今日初めて会ったような相手だぞ」
「初めて会った日に、好きになる場合だってある」
　市川は冗談じゃないと言うように断言する。
「お前が万物に優しいのはわかってるけど、女はそれを好意と誤解するんだ。
　前のあの子だってそうだっただろ？もう懲りただろ？
　いくら新垣さんが旅行に行きたいと思っていたとしても、それがお前に気付けたとしても、それに付き合う義理はお前にはないんだよっ」
　いい加減勉強しろ、この野郎と言われて、俺は思わず項垂れた。
　確かに市川の言う通りだ。
　相談事があるからと、何度か二人だけで食事をした。見たい映画があるとかで、誘われて付き合った。
　兄のプレゼントを選んでほしいと、休日のデパートにも付き合ったりもした。
　ある時、食事をしたことを見切られた同僚に、付き合ってるのかと聞かれ、相手のいる前で付き合っていないと笑いながら答えた。当然同じように笑ってくれていると思った相手は、突然泣き始めた。相手は、俺と付き合っているつもりでいたらしい。
　運悪く、その場面を高梨さんが見ていて、俺は彼女を遊んで捨てた男だと思われたのだ。
　それからしばらくの間、一部の女性社員から、俺は冷たくあしらわれていた。
　吾朗からは、だからお前は脇が甘いんだと叱られた。
　思いだして項垂れた俺に、市川が、だけどと話を続けた。
「だけど、お前が新垣さんのことが好きだって言うなら、話は別だ」
「俺は…」
　そう言ってはみたけれど、次の言葉が出てこなかった。
　少なくとも、嫌いではない。むしろ、好感は持っている。
　一緒に居て空気みたいで、楽になれる相手。
　だけどそれが、好きという気持ちかと聞かれると、答えはすんなり出てこなかった。
　市川は、俺を慰めるような口調になって、優しく言う。
「すぐに答えを見つけなくてもいい。
　お前はお前のペースがあるからな。焦って下手な答えを出すな。
　けど、新垣さんのこと傷つけたりしたら、俺も吾朗も許さないからな。
　くっそぉ、俺だって目をつけてたんだぜ。あの子のこと」
　俺が返事に迷っている間に、市川は、グッドラックと言い残して電話を切った。


　俺は彼女のことが好きなのか、どうなのか。
　そんな風にして彼女のことを考えながら部屋の前に気付いたら立っていた。
　ポケットを探って、鍵はフロントに預けると言っていた彼女の言葉を思い出す。フロントのある一階に戻ろうと思ったところで、部屋の中から物音が聞こえた気がした。
　もしかして、とドアノブをひねると、ドアは簡単に開いた。
　灯りもそのままの部屋に、けれど彼女はいなかった。
　どうしたんだろう。
　そう思ったところで、窓ガラス越しにテラスに居る彼女が見えた。
　彼女は浴衣姿のままで、テラスにある露天風呂に手を入れている。どうやら湯加減を見ているらしい。
「新垣さん？」
　窓ガラスをノックしてテラスに出ると、驚いた彼女は立ちあがっていた。
「どうしたの？」
「ごめんなさい。実は…大浴場って苦手で。あの、須藤さんは？」
　言われて、彼女が大浴場に行かなくてよかったと気付く。
　今頃、女湯には高梨さんがいる。彼女は知らないかもしれないけれど、社内通の高梨さんが知らない女子社員などいないはずだ。
「あ、えと。俺も、実は苦手で」
　何となく部長たちの話を彼女に話したくない気持ちになって俺はそう答えた。
　不倫とか、浮気とか、彼女はそういう話は、噂話と同じくらいに苦手そうに思えたから。
　俺の言葉を聞いて、彼女は再びしゃがむとお湯に手をくぐらせながら言った。
「だったら、入りませんか？一緒に」