「はぁ。気持ちいい」
　そう呟くと、隣で須藤さんがくすりと笑った。
「あ、気持ちよくないですか？」
　満天の星空を眺めながら、温泉につかる。この幸せを須藤さんにも味わってもらいたくて誘ったのに、もしかして嫌だったかな。
　恥ずかしくなって俯く私の気持ちを、すぅっとすくい上げるように優しい須藤さんの声が聞こえてくる。
「気持ちいいよ。確かに、これだとのぼせないし。初めての経験だけど、いいね。足湯も」
「ですよね！」
　嬉しくなって、勢いよく顔を上げて答えると、浴衣姿の須藤さんがにこにこと笑っている。
　私は恥ずかしくなって、また顔を俯かせると、湯の中で足を動かした。
　仄暗い中で、旅館の浴衣姿に着替えた須藤さんは、どこか艶っぽい。
　といっても、浴衣の方が足湯しやすいですよと言ったのは、この私だ。
　本当は、足湯じゃなくて肩までゆったりつかりたかったんだけど、いつ須藤さんが帰ってくるかわからない状況でそれはできなくて、足湯でもいいからここで星空を眺めたいなと思っていたところに、須藤さんが現れたのだ。
「もし、普通に入りたいのなら、ロビーで待つよ」
　私の気持ちを察したようにいきなり須藤さんが言うから、思わず、
「ほぇっ？いやっ、だ、大丈夫です！」
と、変な声を出してしまった。案の定、くすくすと笑い声が漏れ聞こえてくる。
　気付けばさっきから、私はずっと須藤さんに翻弄されっぱなしだ。
　さっきからじゃない。
　会った時から、ずっと。
「…ずるいなあ、須藤さん」
　心の中の呟きだったはずなのに、声に出ていたらしい。え？と須藤さんがびっくりしたように私の顔を見つめている。
「あっ、だって、その。どきどきさせるのがうまいなって。思って」
　言ってから、私は顔を赤らめた。
　何てこと言ってるんだろう、私ってば。
「さっき街に居た時だって、急に手をつなぐし」
　そんなことまで言わなくていいって頭じゃわかってるのに、どうしてか私の口は、頭とは違うことをつらつらと話しだす。
「旅行だって、中止かなって思ったのに、行こうって鞄持っちゃうし」
　そこまで言って、ようやく私の口が止まった。
　止まったのはいいけれど、どうしよう。恥ずかしくて顔が上げられないよ。
　静まり返った中で、湯船に注ぐ水音だけが聞こえてくる。
　足湯なのに、のぼせてないはずなのに、どうして私ってばどきどきしてるんだろう。
　黙りこんでいると、ぽつりと須藤さんが呟いた。
「それを言うなら、新垣さんだって」
　え？と顔を上げると、須藤さんは少し頬を赤くして、話を続けた。
「一部屋しか空いてないって言うのに、それで構わないって言うし。
　さっきだって、足湯じゃなくて普通に一緒に露天に入ろうって言ったのかと思ってドキドキしたよ」
　そう言って、須藤さんはふぅと溜め息をついて空を見上げた。
「…どうものぼせたみたいだ。余計なこと言って。足湯なのに、おかしいな」
　同じこと、思ってる…。
　私が口を開こうとした時、ドアがノックされて、仲居さんが顔を出した。
「あの、お布団敷きに来たのですが、よろしいですか？」
「はい。どうぞ」
　それが合図だとばかりに、須藤さんは露天風呂から上がって、部屋に戻って行った。


　布団は二つ、並べられている。
　ぴったりつけられてないのがせめてもの救いだけど、それでも手を伸ばせば届く距離。
　離した方がいいのかな。
　そう思って須藤さんを見たけれど、須藤さんは何も言わない。
　露天風呂から上がってからずっと、須藤さんは無口だ。
　私が変な事言って、怒っちゃったのかな。
　布団の上で正座して不安に思っていると、「おやすみ」と言って、須藤さんは自分の布団にもぐりこんだ。
「おやすみ、なさい」
　小さな声で私はそう答えると、灯りを消した。
　暗闇になると、余計に須藤さんを感じてしまって、胸がドキドキしている。
　寝がえりを何度かうってみたけれど、眠気は全然襲ってこなかった。
「…もしかして、眠れない？」
　見透かしたように、須藤さんの声が部屋に響いた。
「…はい」
　少しだけ悩んでそう答えると、そうかというため息交じりの声が聞こえてきた。
「少し、話ししようか。そうしたら、だんだん眠くなってくるかもしれないし。あ、面倒だったら、黙るけど」
「いえ」
　とは言ったものの、須藤さんの声は聞こえてこない。
「あの…さっきは、変な事言って、ごめんなさい」
「え？」
　不意を突かれたような声。
「あの、怒ってるんじゃないんですか？私のこと」
　すると、衣擦れの音と同時に深いため息が聞こえてきた。
「それは違うよ。新垣さんのせいじゃなくて、自分の不在なさが腹立たしくて、答えを探してたから、黙りこんでただけで。
　ごめん、気を使わせたね」
　いえと答えると、ふっと夜の空気が和らいだ。
「新垣さんって不思議だよね。
　一緒に居ても、疲れないっていうか、気を遣わなくてすむっていうか」
「それを言うなら須藤さんだって。
　私、人見知りなんですけど、でも一緒に居てもそんな緊張しないし、しゃべれるし。
　安心、します」
　でもドキドキもするけど、とは心の中だけで留めておいた。さっきみたいなことになっちゃ困るから。
　その時、聞き覚えのあるメロディがして、須藤さんが自分の携帯を手にした。そして携帯を開いて、ボタンをいくつか押すと、パタンと閉じて携帯を枕元に置く。
「吾朗。やっと仕事が終わったって」
　寝たのが１１時半過ぎだから、もうとっくに１２時は過ぎてる頃だ。
「大変ですね、営業のお仕事って」
　そう言ってから、私はもしかして、気になったことを口にした。
「もしかして、さっきの着メロって…映画の曲じゃないですか？」
　映画のタイトルを上げると、須藤さんはへぇと声を上げた。
「よく知ってるね。好きなんだ、あの映画。テーマとかも」
　須藤さんが好きって、ちょっと意外だった。あの映画は、ミュージカル風で、同性愛の話が出てくるし、流れる音楽は激しいロック。でも描かれるのは、愛だ。切ないラブストーリーなのだ。
　勝手なイメージだけど、須藤さんが好きそうな映画って、自然物って感じがしていた。
　でも、それは私も同じだ。
　好きな映画で名前を出すと、えっと言われることが多い。
　でも、あれは、とても好きで、大切な映画。
　ＤＶＤも持ってるし、サントラも買った。
　何度見ても、何回聞いても飽きない。
「私も、好きなんです。すっごく…」
　思わずそう言って須藤さんの方を見ると、月明かりの中でも目があったのがわかった。
　どきっとまた私の鼓動が弾む。
「すみませんっ、興奮しちゃって…」
　優しく須藤さんの吐息が漏れる。いいえと言ってるのがわかった。
「あのさ、実は俺の名前、ストウって読むんだよね」
　ふいに言われた言葉に、私は反応できなかった。
　そして、須藤さんの言葉を心の中で繰り返して言って、ようやくその意味を理解した。
「あ、ごめんなさい」
　須藤だから、ずっとスドウさんだと思ってた。
「いいよ。普通は間違えるからね。
　学生の頃はそれでも一生懸命訴えてたけど、会社入ってからはもう諦めた。
　だからさ、名前で呼んでもらってもいいかな」
「名前？」
「希一。俺も、花ちゃんって呼んでいい？
　実は俺の大学の先輩で荒垣さんって人がいて、漢字は違うけど同じ読み方だから、アラガキさんって呼ぶとどうしてもその先輩の顔が思い浮かんじゃって」
　ちなみにその荒垣先輩は、風貌が熊みたいで、あだ名はプーさんって言われてるんだ。
　もちろん陰でだけど、と須藤さんがくすりと笑う。
　つられて私もくすくすと笑い声を上げながら、はいと答えた。
　ストウキイチさん。
　須藤さんの秘密を教えてもらえたような気がして、すごく嬉しかった。


　
「ありがとうございました」
　旅館の人がそう言って入り口で頭を下げていたけれど、須藤さんは私の鞄を持って急いで車にかけ込んだ。
　どうしてかなと思いながら、私は旅館に向かって頭を下げていると、須藤さんが慌ててやってきて、私の手を掴んで車に押し込んだ。
「どうしたんですか？」
「うん。その…渋滞に巻き込まれたくないからね」
　そう言って目が泳いでいたのは、気のせいかな。
　だけど、須藤さんが言ったことは正しくて、高速道路に乗ったと思ったら、すぐに車が動かなくなった。
　昨日の話を覚えてくれてた須藤さんが、帰りのＢＧＭに選んだのは、私も持っているあの映画のサントラだった。二人して、ノリノリで鼻歌を歌う。
　だけど、少しして、ふわーと須藤さんが大きな欠伸をした。
　それも、何度も。
「あの、大丈夫ですか？」
「ああ。平気」
　そうは答えるけれど、須藤さんの横顔には、寝不足ですって書いてあるのがわかる。
　昨日だって、結局寝たのは明け方だった。
　話をしていたら止まらなくなって、気付いたら窓から差し込む光が、月明かりではなく太陽の光になっていたのだ。
　さすがに寝ないとまずいってことで、その後は仮眠したけれど、時間でいえば三時間ほど。
　眠くないわけがない。
　そういってる私も、動かない景色に少し眠気が回ってきていた。
　それに気付いたように須藤さんが言う。
「だけど、花ちゃんは疲れたら寝てもいいからね。俺のことは気にしなくていいから」
　花ちゃん。
　そう言われて一気に目が覚めたけど、
　それでも須藤さんに悪いから、起きなきゃと思って頑張っていたんだけど、
　次に目が開いた時には、家の近くだった。


「ありがとうございました」
　私に鞄を渡して、運転席に戻った須藤さんにそう言うと、こちらこそ、と返事が来た。
「うん、また」
「はい、また」
　須藤さんが車のエンジンを入れる。
　お別れだ。
　明日会社で会えるんだから、そう思うのはおかしなことだと思いながらも、私の胸の中は寂しさでいっぱいになる。
　昨日、家を出た時にはこうなるなんて思ってもみなかったのに。
　たった一泊二日の旅行で、私は急に寂しがり屋になったみたいだ。
　須藤さんは私から視線を逸らして前を向く。
　一歩車から離れたけれど、車が走り出すその時、私は咄嗟に、ドアに飛びついた。
「「あの」」
　アクセルと踏むと思っていた須藤さんは、窓から私に向かってそう言っていた。
　シンクロしたみたいに重なった声。
　なんですか？私がそう言う前に、須藤さんが「どうかした？」と口を開いた。
　なんか同じこと考えてるみたい。
　そう思うと、ふっと力が抜けたみたいになって、私は思ってた言葉を素直に口にすることができた。
「携帯番号、教えてもらってもいいですか？」
「ああ」
　そう言えば教えてなかったね、と言いながら、互いの携帯番号とメアドを交換する。
　須藤希一。
　画面に表示された名前を、笑顔で見つめていると、
「あのさ」
と須藤さんが口を開いた。
「また、誘ってもいいかな」
「はい」
　そう答えると、須藤さんは少し面喰った顔をして、その…と言葉を繋げた。
「今度は、旅行じゃなくて、食事から」
「はい」
「しかもランチじゃなくて、夜」
「はい」
「おまけに六人じゃなくて、二人きりで」
「はい」
　言い残したことはもうなくなったみたいで、大きく頷くと須藤さんは笑顔を浮かべた。
「それじゃ」
「はい」
　一度は止めたエンジンを、須藤さんは再び入れ直す。
「あ、あのっ」
　私も言い残したことがないように、昨日とは違う気持ちで須藤さんに言う。
「おやすみなさい」
　すると須藤さんも、おやすみなさいと答えた。
　車はゆっくりと走り出し、私は見えなくなるまで、ずっと見送っていた。
　その時、昨日暗闇の中で聞こえたのと同じメロディーが鳴る。
　偶然だけど、私は携帯の着信音をあのメロディーにしているのだ。
　着信は、お姉ちゃん。
「無事帰ってきた？花。楽しかった？グループ旅行」
　お姉ちゃんの声は明るい。
　どうやら彼氏と楽しい夜を過ごせたみたいだ。
「うん、あのね」
　この二日間の話をしたら、お姉ちゃんびっくりするかな。
　成長したってほめてくれるかも。
　そう思いながら、私は話し始めた。