手を洗いながらほっと一安心の溜め息をつく。
　サービスエリアの時に行っておけばよかったものの、須藤さんを待たせすぎちゃ悪い気がして、大行列のトイレには並べなかった。
　途中どこかで休憩するかなとも思ったけど、意外とスムーズに旅館まで来ちゃうし、
　ついたらついたでそれどころじゃなかったし。
　だけど、ようやく一息つけたって感じ。
　ふぅと息を吐いたところで、鞄の中の携帯が鳴った。
　着信は、典ちゃん。
「無事帰ってきた？花」
　鼻をずるずるさせながら、典ちゃんがそう言う。きっと心配してくれていたんだろう。
　そういえば、典ちゃんには断っていいって言われてたんだった。それなのに、私は今、旅行中。
「あのね…」
と、私は典ちゃんに説明した。
　最初は、え？とか嘘？とかマジ？とか言ってた典ちゃんだったけど、旅館で無事に部屋が取れたところまで話すと、典ちゃんは無言になった。
「典ちゃん？」
　聞こえてるのかな、もしかして倒れちゃったりしてないよね、と名前を呼ぶと、まるで地獄の底から這い上がってきたような低い声が轟いた。
「…まさか、花に取られるとは…」
「取られるって何を？」
「須藤さん！なんかもう、ラブラブって感じじゃん！」
「え？そんなことないよ、別に―」
「一緒に温泉行って、同じ部屋で泊まるってのに、ラブラブじゃないわけないでしょう！」
「違うって。どうしてそうなっちゃったかは、説明した通りで―」
「だから花が誘って、須藤さんがOKしたってことでしょう？」
　そういうわけじゃないって言い返すと、典ちゃんが鼓膜が破れるほどの大声で叫んだ。
「あんたがそういうつもりじゃなくても、一般的にはそういうことなの！」
　叫んだことで落ち着いたのか、溜息と同時に典ちゃんが呟いた。
「天然なのはわかってたけど、ここまでとは…」
　そうしてわざとらしいくらいの溜め息の後に、典ちゃんは気持ちを決めたのか、諭すように私に言った。
「いい？花がその気じゃなくても、須藤さんの方はその気ってこと。だからもしも、そういうことになっても、多少は仕方ないと思いなさい」
「そういうことって？」
「男女の関係ってこと！」
「男女の関係って…」
　そこまで言って、私は気付いた。顔が熱くなるのがわかる。
「やーっっと気付いた？まあ、人見知りの花がそこまでついて行ったってことは、須藤さんのこと嫌いじゃないんでしょう。出会って一日目か。けど、奥手のあんたには、そのくらいの荒療治が必要なのかもしれない。でもね、肩を抱かれたり、それ以上のことをされて、どうしてもダメだって時は？」
「時は？」
　典ちゃんは声をひそめて言った。
「アソコ蹴って、逃げ出しなさい」
「アソコって？」
「股間よ、股間。男の急所」
　そ…っか。
「って典ちゃん、須藤さんはそんな人じゃないってば！」
「いい人だけど、でも男の人なんだから、ちょっとは警戒しなさいよ、花。
　それに須藤さんって、ああ見えて実は遊び人だって話も聞いたことあるし。あれ？誰だっけ。そうそう高梨さんが言ってたのか」
　高梨さんって営業一課の？
　でも、それどういうこと？
　そう聞き返す前に、
「それじゃ花、頑張ってね」
と言って、典ちゃんは派手なくしゃみをしてから電話を切った。
　須藤さんが遊び人？
　そう言う人には見えなかったけど。
　携帯を鞄にしまって部屋に入ったけど、須藤さんは見当たらなかった。
　どこに居るんだろうと思っていると、テラスに出ていた須藤さんと目が合う。呼ばれているような気がして、私もテラスへと出てみることにした。
　テラスには、何と露天風呂までついている。
　もしかして、ここって高いのかな？
　須藤さんが軽く手まねきをする。並んで立つと、心地よい風が吹いてきた。
「気持ちいい風ですね」
　眼下に広がる青い海が、少し離れたところに見える。
「花火、ここからも見れるって。海岸は人混みがひどいから、お部屋から見た方がいいって仲居さんが」
　カラーリングもしていない黒髪を風に吹かれながら、須藤さんがそう答えて空を見上げる。
「夕食まで時間あるし、街に出店が出てるみたいだから、少し出てみようか」
　出店と聞くと、何だか気持ちがわくわくし始めた。
「はい」
　じゃあ行こうか、となったところで、私はかかとに靴ずれができてしまったことを思い出した。
　絆創膏を貼らないと、せっかく下ろしたばかりの靴なのに、気持ちがハッピーにならない。
「新垣さん？どうかした？」
　テーブルに置いてあった部屋のカギを拾い上げて、部屋を出て行こうとした須藤さんがふと気付いて声をかけてくれる。
　何となく彼のいる前で絆創膏を貼るのが恥ずかしくて、
「あ、あの、エントランスでちょっと待っててもらえますか？
　荷物とか、色々整理したくて」
と、ごにょごにょ言い訳がましくいう私に、須藤さんは素直に「わかった」と答えると、鍵をテーブルに、部屋を先に出て行った。


「すみません遅くなって」
　声をかけると、須藤さんが立ち上がって、私の方を振り返る。
　それから、しばし動きを止めた。
　やっぱり、この格好に気付いてるよね。
「旅館で無料レンタルやってて」
　鞄を探したのだけれど、絆創膏が見つからず、仕方なく旅館の人に相談したら、下駄ならかかとの靴ずれは気にならないし、せっかくだから着て行きませんかと聞かれて、言われるがまま浴衣を着ることになった。　
　おまけで髪もアップにしてもらったけど…。
「おかしいですか？」
　あまりにまじまじと見られるので、そう聞くと、須藤さんはにっこりと笑って答える。
「ううん。似合ってるよ。かわいい」
　か、かわいいって！
　その言葉にドキドキしている私を置いて、須藤さんはそれじゃあ行こうと歩き始めた。
　ハッと気付いて慌ててその後を追いかける私に、旅館の人が行ってらっしゃいと声をかけた。



　海岸へと続く道は、すごく混雑していた。
　道路を走る車は大渋滞でさっきから全然動いていないし、その道路にも溢れかえった人たちが歩き出している。
「すごい人ですね」
「ほんと」
　須藤さんはその中をすいすいと泳ぐように歩いて行く。
　一方の私はというと、彼について行くのが精いっぱい。
　おまけに、慣れない下駄に、前から歩いてくる人たちにもぶつかってしまう。
「す、すみません」
　謝りながら歩いていると、ふと肩を抱き寄せられた。顔を上げると、須藤さんだった。
「すぐそこの境内に出店があるから、そこでちょっと休憩しよう」
　間近で見上げる須藤さんは思いのほか、大きくて。
　肩を掴んでいる手も、その大きさを浴衣越しに感じてしまう。
　ああ、男の人、なんだなって。
　もちろん会社にも男の人はいるし、偶然体が触れることもあったけど、免疫のない私はそういうのがちょっと苦手だった。
　でも、須藤さんにはそう言うのがない。
　さりげなくて、すごく自然。
　なのに、ドキドキする。
　混雑した通りを抜けたところで、すっと肩に置かれていた手が離れる。
　人混みから私が取り残されないようにしてくれてたんだとはわかっているのに、それが少し寂しく感じるのは、どうしてだろう。
「せっかくだから、何か軽く食べようか」
　夕食は旅館でと決まっている。それまでの軽い腹ごなし。
「あ、綿あめだ」
　大好物の綿あめを見つけて声を上げると、
「食べたい？」
と須藤さんが聞いてきた。
「はい！」
　元気にそう答えると、須藤さんは財布を出して、綿あめを一つ買ってきてくれた。
「どうぞ」
「ありがとうございます」
　会社に入ってからは、初めてだと、思い切り口を開けて綿あめを頬張る。
　綿あめは、泡のように口の中で溶けていく。
　残されたのは、甘さだけ。
　もう一口、と大きく口を開いたところで、じっと見つめる須藤さんの視線に気付いた。
　思わず、口を閉じてから、目を伏せがちに答える。
「すみません、子供で」
　もう二十歳を越えてるのに、まだまだガキで。
　お姉ちゃんにも言われる。
　だから、恋人ができないって。
「いいと思うよ」
　須藤さんの声に、思わず私は顔を上げる。
「新垣さんらしくて、素直で、かわいらしくて」
　そうして須藤さんは、ね、と小首を傾げた。
　ドキッと心臓が飛び跳ねたような気がした。
　それって、どういう意味ですか？
　そう聞こうとした時、須藤さんが綿あめで汚れている私の手を急に掴んだ。
「あのっ」
　気付けばその表情がさっきまでの柔らかいものと違っている。
　真剣なまなざし。
「そろそろ戻ろうか」
　須藤さんは小声で囁くように私に言うと、私の返事も聞かずに、手を引っ張ったまま、元来た道を戻っていった。