「よっ、どうよ。新生活は？」
　ばしっと葛城がおれの背中を叩いた瞬間、痛みがはしって、おれは思わず出してしまいそうになった悲鳴をこらえ、ついでに涙も我慢して、思いっきり葛城をにらんだ。
　なんてことすんだっ。
　平田がおれのシャツを後ろからまくしあげた。うひゃあとサネ君の声があがる。
「こりゃそーとーやられたか」
　サネ君！
　放課後の天文部は、おれの話に興味津々ないつもの面々が集まっていた。
　恥ずかしさで、慌ててシャツは下ろしたけど、その瞬間に今度は葛城に手首を捕まれた。
「どうだった？昨日のハードナイトは？忍チャン」
　手首にはうっすらだけど、ロープの痕が残ってる。昨日ロープを外しながら、そういや桜子先生がつぶやいてたっけ。
「ひゃー、久々だから、ちょっと嬉しくなってやりすぎちゃったかなぁ」
　やりすぎとかの問題じゃないでしょう！
　おかげでおれは、昨晩痛みの余りに眠れなかったのだ。
「なんかお前、楽しそうだな」
　楽しかないよ、なんなら変わってくれ、平田。…何、嫌そうな顔してるんだよ。
「で、どうよ。かわいい子たくさんいるわけ？」
葛城はどこか楽しそうだ。
　話しかけたら正体ばれるから、話なんかしてないよ。第一お前じゃないんだから。
　あ、そういえば。
「おれの知り合いがいて、そいつにはすぐばれましだけど、それってカウントされないよね、サネ君」
「なんて子だ？」
「沢村晶。小学校の同級生なんです」
「桜子の舎弟か」
　そんなことも知ってるのか、サネ君は。
「つうことで、桜子さんにもばれましたから」
「なんだと？」
　む。知ってたくせに。しかも、桜子さんにばれてどうなるかまで、予想してたくせに
「ま、これでイーブンだろ」
　どう考えても、おれのが不利と思うんだけどなあ。
「そんなことより、どういう関係なんですか？サネ君と桜子さんは」
「いわゆる幼なじみってやつだ」
　サネ君はそれだけいうと、教室から出ていこうとした。そんなサネ君に珍しく葛城が突っ込む。
「俺もちょこっと興味あるんだよな、そこんとこ。もしや男と女の関係？」
「うーん」
サネ君は足を止めると、ドアに手をかけながら、こっちを振り返りつつ笑顔で言った。
「ま。お前らも酒には気をつけろ」
　わかったような。わからなかったような。
　サネ君はさっさと教室を出ていってしまった。ふーんといいながら、葛城は俺を振り仰いだ。
「で、どうなの」
「何がだよ」
「清廉の寮って、個室じゃないだろ」
　なんでお前ってばそんなことまで知ってるわけ？
　俺はそこで晶の計らいでもって、屋根裏部屋に移動したことを話した。
「ふーん。サワムラアキラねえ」
　なんだよ。
「お前に気があるんじゃねえの？面倒見よすぎ。普通、追い出すだろ」
「冗談。あいつは、意外にそういう意味じゃ姉御肌なんだ。
　それに、俺は小さい頃どんだけあいつに泣かされたことか。だいたい女恐怖症になったのだって、晶のせいなんだぞ」
　当時、晶はおれより背が高くて、空手なんかしてたもんだから、ケンカをしてもいつもおれが涙を流すことになった。
　あいつの決めのセリフはこうだ。
「女のあたしに負けるなんて、あんたなんか男じゃないわ。この駄目人間」
　今だったら、お前の方が女じゃないと言い返すとこだけど、当時の幼かったおれは、その言葉を間に受けて、言われるたびにああそうか、おれは駄目人間なんだと思うようになってしまったのだ。
　いや、今でも時々思ったりもするけど。
　しかも晶ファンだったうちの母ちゃんも、泣いて帰って来たおれを慰めるどころか、
「あんたもいい加減晶ちゃんに勝ちなさい。男でしょ」
と怒鳴りつけ、おれは、
『女って恐い生き物なんだ』
と思うようになってしまったのだ。
　ああ、ほんと。美森ちゃんとは大違い。
　葛城は話を聞きながらふーん、なんて相槌を打っていたけれど、ふいにニヤっと笑った。
　う、やな予感。
「で、その美森チャンってのはかわいいのか？」
「おっおまえには関係ないだろ！」
　予感的中だ。俺が背中を向けようとしたのに、葛城にまだ痛む手首をつかまれて、俺は逃げられなくなった。
「甘いなぁ、忍チャン。白状しろよ、その美森ちゃんってのに恋したんだろ」
　なにを言ってー。
「美森ちゃんってとこだけ、お前の目がハートになってるぜ、鏡でも見れば？」
　げっ、ほんと？
慌てて窓ガラスを見ると、ククッと笑う葛城が映った。
「冗談に決まってるだろ？楽しい奴」
　こっこやつ…。いつか、天誅が下るに違いない…。



　麻雀も断って（てか、そんなお金無かった）、寮の近くの公園のトイレで女子の制服に着替えてたおれは、門限前に寮に戻り、食事をし、ほかの女の子達が入った後のお風呂に入り、でもってようやく部屋に戻ってきたところだった。
　パジャマはズボンでいいし、髪はタオルで部屋まで隠してたし、今の状態がほとんど素のおれといってもいい状態だった。初めは恐怖に慄いていたおれだけど、意外と暮らしているとそんなに女の子ってのを意識しないですむ。むしろ、おれよりも男っぽい女の子が多い気がする。晶を筆頭に。
　ふう、今日も疲れた。けど、あと六日間の辛抱。
ベッドになだれ込みながら、一息ついたときだった。
　窓ガラスをノックする音がして、体を起こすとそこには葛城が立っていたんだ。
「よっ」
「かっ、かつらー」
　叫びそうになったおれの口を、あいつは窓を開けて伸ばしてきた手でふさぐ。
「お前さ、俺が忍び込んでるんだから、大声出すなよ。しかも男の声で。誰か来たらどーすんだ」
　よっとか言いながら、葛城は部屋の中に入る。
　っつーか、その前に来るなっての。
「だって、楽しそうなんだもん、忍チャン。かわいい女の子に囲まれて」
　からかうなよっ。
葛城は、目をギラギラさせながら、おどけてその顔を近づけて、おれの両手首をつかむ。しかもぎゅっと。
　だから痛いっつーの。だいたい顔も近づけんなよっ。
「それに、お前のことが心配で心配で夜も眠れなー」
　その時、キイという音がして、ドアがゆっくりと開いた。その向こうには、びっくりして更に目が大きくなった美森チャンがいた。
美森チャンはおれと葛城を交互に見ると、ぱっと顔を赤らめて言った。
「ごっごめんなさいっ、邪魔して」
「みっ美森ちゃっー」
　ドアを勢いよく閉めて、階段を駆け下りる美森ちゃんをおれが追いかけようとすると、葛城がつぶやいた。
「なるほど、確かにかわいいな」
　うっせーよ。誤解されただろ、おれをおまえのことっ。
「ばーか、今のお前は女だろうが」
　うっ。
そして床に転がっていたかつらをつかむと、こっちに向かって放り投げた。
「忍チャン。とりあえずは俺のこと内緒にしてくれって頼んでくれる？ばれたら、俺、お前の正体もここの寮母に訴えるよん」
　このっ、ちゃっかりもの！



　ドアをノックするとすぐに、美森ちゃんが顔を出した。おれはかつらを確認しながら、部屋に入れてもらって、説明をしようとした。
「あの、美森ちゃん。今のは−」
「いいんです、いろいろ、あるんでしょうから。第一、東光は共学ですもの。恋人くらい当たり前なんでしょう、きっと」
　やっぱし誤解してるよ。　　
「あ、えーっと、それは」
　ちょっと答えに困ってると、美森ちゃんは、おれの手をいきなりつかむと、真剣な顔で言った。
「でも、ここの寮母さんはすごく厳しい方だから、気をつけたほうがいいわ、忍さん」
　おれは、手をつかまれた驚きから、
　そして、その手の柔らかさにドキドキして、
「あ、ありがとう…」
というのが、精一杯だった。




「草薙、お客さん」
　帰りがけに下駄箱でそう言われたおれが顔を上げると、そこには晶が立っていた。
「誰？」
　一緒にいた平田がそう聞いてきた。
「例の沢村晶だよ。幼なじみの」
「へえ、かわいいな」
葛城まで顔を出してきた。
　どこが。
　晶の顔は、いかにも「怒ってる」のがわかるくらいに、おれをにらみつけていた。　　　　　
おれは葛城たちに先に行っててもらった。
　いやな話に決まってる。
やってきたおれを、晶ははじめジロジロと見てから、言った。
「なんだ、学校にはきちんと男の恰好で行ってるんだ」
　当たり前だっ。女装はバツゲームなんだからっ。
ところで、と晶は、表情を引き締めた。
「昨日、寮にあんたの彼氏が忍び込んだんだって？」
　彼氏じゃないだろっ。友達。
　まさか、美森ちゃんが話すなんて…・。
「美森を責めないでよ。あたしが聞き出したんだし」
心を読んだように晶が言った。
「美森は、忍チャンには素敵な彼氏がいて、いいな、まで言ってたから」
　だから、彼氏じゃないんだけど。しかも葛城が素敵？
「どっち？」
晶はちょっと先でこっちの様子をうかがっている葛城と平田を目で指した。
　背の高い方。
「葛城真人。ごめん。もう来させないからさ」
カツラギマサト、と晶は小さく反芻すると、大げさに頭を抱えた。
「あの、神藤井さんの子分ね」
　似たようなこと、お前も言われてたけど。サネ君に。
「最悪。もう、美森ってば…」
　え？なんで美森ちゃんが？
おれがその言葉を確かめようとすると、晶は落としていた視線をおれに向けなおして、言いきった。
「いい？2度とあの寮には近づけないでね」



「だから、来ないでくれっていったじゃないですか」
お風呂から帰ってくると、何故かベッドでくつろぐサネ君の姿があった。
「だって、葛城は駄目らしいからさ。代わりに俺が陣中見舞い」
　陣中見舞いって、こんなことさせてんのはあんたたちでしょうがっ。
　おれは手にしていたかつらを投げた。
「とにかく、帰ってくださいよ。こんなことしてばれたら、全部サネくんたちのせいだからな」
「まあまあ、落ち着け夏目」
　その時、ふいにドアがノックされた。
「忍くーん？いる？」
　桜子先生だ。
途端にサネ君は、本棚の影に隠れた。
「すぐに帰せ」
　はいはい、わかりましたよ。もう。
　こっちだって、一昨日の痛みから、あまし桜子先生には近づかないほうが身の為って思ってるんだから。
ドアを薄く開けると、桜子先生がにっこりと笑っていた。
「何ですか？」
「うん、ちょっと」
それだけいうと、有無を言わせぬ速さで、ドアを抉じ開けて、中に入り込んできた。
　あの、外で話ませんか？
「廊下で話せる話かしら？忍くん。それとも、部屋に来る？」
にっこりと微笑む姿は、本当に艶やかなんだけど、おれはもうびびってしまって、とにかく首だけ横に振った。
「ちょっとー。聞きたいことがあってね。ん？」
桜子先生は、なぜか急に鼻をくんくんし始めると、突然腰に手を当てて言った。
「出てきなさいよ、実朝」
一呼吸おいて、サネ君は静かに現れた。
「久しぶり、桜子」
「相変わらずね。ウルトラマリンの香水。つけすぎよ。男のくせに」
「桜子も相変わらず偉そうだな、あ、でもちょっとしわが増えたか」
　サッサネ君。余計なことは言わないほうがいんでないかい？
　桜子先生、髪が今にもおっ立ちそうだぞ。
桜子先生が、今にもサネ君につかみかかろうとしたとき、サネ君はさらりとその手をかわして窓を開けた。
「俺のかわいい生徒を、いじめたら、何するかわかんないよ、桜子チャン」
　そう言い残すと、サネ君はひらりと窓を飛び越えて、消えていった。
慌てておれが、窓に近づくと、木を上手に降りていくサネ君が見えた。
　その向こうには、こっちを見上げる葛城の姿も。
「許さない、あの男っ」
　そしておれの後ろからは、お岩さんも真っ青のおどろおどろしい声が低く響いた。