どこかに消えてしまった神楽は、そのまま家にも帰ってこなかった。
　リビングであたしが一人テレビを見ていると、ふいに片付けをしていた千寿が言った。
「お前はたまにいいことも言うが、だいたいは問題なことを言うな」
　何よそれ。褒めてるの？けなしてるの？
「どっちでもある」
　わっけわかんないこと言わないでよね、千寿。
　ぷいと無視をして、テレビを見つづけようとしたあたしに、その時蘇王が呟いた。
「あいつ、やっぱまだ引きずってるのかな。…名倉先生のこと」
　名倉先生？
「蘇王」
「あ…」
蘇王がものすごくばつの悪そうな顔をした。あたしが、誰？って聞く前に、千寿が話してくれた。
「俺たちの中学の担任。それに、神楽の初恋の相手だ」
　初恋が中学の先生？
「まあ初恋ってよりは、初めて本気で好きになった女性と言った方がいいな」
　歳は、当時２４歳。大学卒業したて。
　神楽たちは１４歳。中学２年生の終わり頃だ。
千寿が話し出したことで、蘇王も口を開いた。
「その頃神楽、すっげー荒れててさ。家になんか全然寄り付きもしなかった。だから俺たち慣れてんだ。あいつの家出。すごかったよな、あの頃の神楽。ほんと、よく切れるナイフみたいな鋭さがあって、親父も俺たちも、何もできなかった」
「ただ一人、神楽ときちんと向き合ったのが、あの人だった」
　蘇王のちょっと悔しそうな横顔と、千寿の低い声があたしの心に残る。
　そして、あの時の神楽の鋭い視線。
「名倉先生のおかげで、神楽は家にも戻ってくるようになったし、学校にも行くようになった。高校も、来てるだろ？きちんと。警察につかまるようなこともしないでさ」
　信じられない。
　神楽の過去。
　そこから今の神楽に、あの女ったらしの神楽にどうして変わってしまったわけ？
　でもあたしは、千寿たちの表情から、今の二人がどうなったのか、だいたいわかってきていた。
　神楽は、失恋をしたのだ。
「それで、名倉先生は？年上だからって諦めたの？」
「まさか。神楽に限ってそんなことねぇよ」
　それじゃ結婚してたの？
「独身だったし、美人だったけど、その頃は恋人もいなかった」
　ふられたんだ。
「…結果的にはそうなるのかな」
　蘇王は困った表情でそう答えた。
　まあ、そうだろうな。
　いくら神楽とはいっても、相手にとってはただの生徒に過ぎなかったってこと。
　２４歳の大人の女性にとっては、１４歳の少年は、少年でしかないもの。
　だけど、言葉を濁した蘇王とは違って、千寿の言葉は鮮烈だった。
「神楽は、真剣に惚れていた。けれど、名倉先生は、神楽のことを相談していくうちに。火狩恭介と男女の関係になった」
「火狩恭介って−」
　あたしの問うような視線に、千寿は答えてくれなかった。代わりに、蘇王が決定的に言った。
「…アメリカにいる親父だよ」
　それで。
　それで、神楽はおじさんにたてつくのか。
　それで、三人は誰一人としておじさんについていかなかったのか。
「…ひどい」
　あたしは、そうとしか言えなかった。
　そんなあたしに、千寿は皮肉たっぷりに言う。
「恋とはどうしようもないと言ってたのは誰だったか？紗那」
　あ…。
　そして神楽は、そんなあたしの言葉をじっと聞いていた。
重苦しい雰囲気に、千寿の渇いた声ですら、明るく聞こえた。
「ま、二人ともいい大人なんだから、別れるか、俺たちに隠しつづけるか、きちんと話すかすればいいものを、中途半端に隠しつづけようとして、神楽にばれてしまった」
「信じていた人間に裏切られて、神楽は恋に臆病になったってわけ」
　…あたし…。
　小さく呟いた一言も、千寿は見逃さなかった。
「謝るなよ、神楽に。お前が謝れば、それに傷つけば、神楽は傷が癒えてなかったことを実感するだけだ」
　つまりは、何も知らなかったように、振舞えってことなのね。
浴室のドアが開く音がした。お母さんがお風呂から出てきたんだ。
　それを合図にするように、蘇王のバカ明るい声がリビングに響く。
「つーわけで、神楽は傷を癒すために、今晩も外泊」
「わかったら、紗那。二度とこのことで神楽を傷つけるなよ」
同時にタオルを頭にまいたお母さんが現れて、あたしたちにお風呂に入るよう言った。



　ちゃぽん。
　恋するって。
　ちゃぽん。
　人を好きになるって、むずかしい。
　ちゃぽん…。
　信じてた人と、自分の親が恋に落ちていた。
　多分、二人は神楽の思いを知っていただろうし。
　だから、神楽には言えなかった。
　でも、別れることもできなかった。
　きっと。本当に好きだったから。
　あたしは思い出さずにはいられない。
　おじさんからの電話を拒否し続けていた神楽を。
　愛人の子って意味がわかるか、とあたしに言った神楽を。
「あーもぉー！」
　頭がぐちゃぐちゃになりそうになって、あたしはお風呂を勢いよく出た。
　悩んでもわからないことも人生にはある。
　そんなときは、考えてもしょうがないものっ。
　パジャマに着替え、あたしは二階に上がっていった。あとの二人にお風呂が空いたことを知らせるため。
　でも、二階のドアを前にして、あたしは中から聞こえてきた会話に立ち止まった。
　中では、蘇王が千寿に話しかけていた。
「千寿。どうして、名倉先生のこと紗那に話したんだ？神楽にばれたら、あいつ怒り狂うぜ。最近、千寿の考えてることが、オレのおバカな頭じゃわからないよ。妙に紗那の計画に乗り気だったしさ。ほら、神楽に告白させて振るって無謀な計画」
　無謀だぁ？
　思わずドアを西部劇ばりに開けたくなったけど、大きく聞こえた千寿の溜息で、あたしはその手を止めた。
「…少しでも気がまぎれるかと思ってな。失敗したが」
　そしてまた大きな溜息。なぁ、という蘇王の心配そうな声がまた聞こえる。
「何か俺に隠し事してるだろ、千寿」
　そして千寿の沈黙。
「話せよ」
　また沈黙。
「千寿」
　大きな千寿の溜息と、中を歩く音だけが聞こえた。
　あたしも聞きたいっ。
　ドアに思いっきり耳をつけたけど、話は手短に終わったみたいで、蘇王の呟きだけが響いた。
「…まじ…かよ。それ、神楽には−」
「折りを見て、俺から話す」
　聞きたかった。何がこれから神楽に起こるのか。
　でも、あたしなんかが聞けないような雰囲気が、部屋の外にも伝わってきていた。