次の日の朝、あたしはまた早起きをして、いつものバス停に立っていた。
　昨日の神楽とのケンカの勢いで、秋山君とつきあうなんて言っちゃったこと、あたしは後悔していた。
　勢いで言ったこと、じゃない。
　あたしの気持ちが秋山君にまだないことを、もっと言えば、あの人が気になっているのに、つきあうなんて言ってしまったから。
　この気持ちが、例えにしたくはないけれど、蘇王の花岡えみるに対するファンの気持ちと一緒で、ただの憧れなのか、それとも恋なのか。
　あたしにはわからなかった。
　それでも、何故かこうして出会ったバス停に出会った時間にやってきてしまってる自分がいた。
　気付けば、もうバスを何台も見送っていて、遅刻は決定。
　それでも、やっぱり彼は来なかった。
　本当に偶然だったのかもしれない。
　ここで出会ったのも、街で見かけたのも、パーティーで助けてくれたのも。
　もう、2度と、会えないかもしれない。
「ふぅ」
　溜息を一つついて、学校まで歩き出そうと思ったときだった。
「あの…」
　柔らかな女の人の声がして、あたしが振りかえると、見覚えのなんとなくある古風なセーラー服の女子生徒が立っていた。
　その人の目は、大きく、長い睫に縁取られていて、秀でた額が、理知的に見せていたけれど、やわらかそうな胸まである髪と、色白のきめこまかい肌にほんのりと紅い頬が人の温かみを感じさせていた。明らかに、綺麗な人、だ。大人っぽいから3年生くらいかもしれない。
「葉月紗那さん…？」
　あたしは頷く。
　あ、そうだ。この制服って、お嬢様学校で有名な聖マリアンヌじゃん。
　と思ったときだった。
「彼のこと…、待ってるの？」
　彼…。
　それが誰を指すのか、そんなこと言わなくてもわかった。
「待ってるのね」
　2度目の言い方は、あたしのイエスを思っての肯定的な言い方だった。
「知ってるんですか？」
　彼女はふんわりと微笑むと、長い髪が風に舞った。それは、あたしにはとってもよく知っているという答えに思えた。
「教えてください、彼、名前は何て？学校は？歳は？どこに住んでるんですか？どうしてあたしを−」
　どうしてあたしを見てるんですか。
そう聞く前に、彼女はまたふふふと柔らかに微笑むと、はっきりと言う。
「彼は来ないわ」
　そうしてまたふふふと笑う。
　何だか、悔しい。
　ってゆーか、この人。彼の何なんだろう。
　もしかして、彼女？
「彼に惹かれたのね。彼の、外見に」
　どきっとして、あたしは、あ…としか言えなかった。完全に負けているあたしに、彼女は続けて言う。
「それは恋とは言わないわ。忘れなさい」
　しっとりと、でも諭すような言い方に、女の勘がはたらく。
　ライバル。
　恋人かもしれないけど、そうじゃないかもしれないけど、きっとこの人は彼のことが好きなんだ。
「そんなことをあなたに−」
「彼はね、そういう外側で判断されることが1番嫌いなの」
　あなたに言われたくないわ、という前に、彼女が言葉を遮った。
「その方があなたのため。彼はおそらくあなたの前に姿を現さない」
　多分、恋人だ、と言われるよりもショックな言葉だった。
　もう2度と、会えないの？
その時、バスがやってきて、彼女は埃を避けるようにあたしに背を向けた。
「…どうして、どうして彼は、あたしを見てたんですか？
　どうして、助けてくれたんですか？」
バスがブレーキ音を立てながら停車する。ドアが開いたとき、彼女はあたしに悲しそうな目を向けた。
「それは、彼にもわからないことよ」
　それじゃ答えになってないと思ったとき、クラクションが鳴った。運転手さんが早く乗れと言っているのだ。
「あの…」
　埃のせいだったのかもしれない。
　彼女は、その時、一筋の涙を流していた。
「もし、彼がまたあなたの前に現れたら、伝えて。怒りや憎しみに身を任せてはだめ。奴らはその時、最大の力を発揮するの。静かに、心穏やかに、天に手をかざして、と」
　ドアが閉まり、バスが動き出す。
　あたしは小さくなっていく彼女を見つめながら、その涙の意味を思った。



　遅刻して学校に行くと、当然だけど先生が怒った。千寿と蘇王は、ちょっと遠目から心配そうに見ていた。神楽は、あたしに見向きもしてなかった。絵梨は、先生に遅刻の言い訳もしないあたしを心配してくれていた。けれど、誰の声も、あたしには聞こえてこなかった。
　あたしはずっと考えていた。
　この気持ちが、恋なのか、ただの憧れなのか。
　今朝の女の人が言うように、ただかっこいいから惹かれてるだけ？
　でも、かっこいいだけなら、それこそ神楽だって、認めたくないけどかっこいい部類になる。
　だけど、あんな女ッたらし、あたしは好きになってない。
　なんでだろ？
　なんであの人だけ、絶対にこの人なんだって思うんだろ？
　何で？
あたしはそこまで考えて、大きく溜息をついて、伸びをした。
　やーめたっ。
　いろんなことに理由をつけるのは、もういい。
　だって、あたしらしくないもんねっ。
　そうそう、なすがまま。それがあたしよっ。
「ミス葉月。随分と楽しそうね。楽しいついでに教科書を読んでもらいましょう。今あなたが持っている国語の教科書を、今は英語の時間だから、英訳してもらいましょうか」
　今は、授業中。だった…。




「ああ、紗那ちゃん？土曜日って空いてるかな」
その夜秋山君から電話があった。
　土曜日…。空いてる…。
「うん、いいよ」
　断る理由はもうないのだ。
　彼女が恋人であってもなくても、彼はもうあたしの前に現れない。
　そう言われたんだもの。
「それじゃ映画でも見に行こう。待ち合わせは６時に駅ビルで」
それからあたしたちは他愛もない話をした。今日学校であった出来事とか、噂話、などなど。秋山君は、会話が途切れそうになると、必ず次の話をふってくれた。
　いい人なのに。なのに…。
「そう言えばさ」
　またも途切れた会話をつなぐように、秋山君が言う。
「この前のパーティーで変な男いただろう？」
　変な？それって、神楽のこと？
「ほら、青いシャツ着てた奴。背が高くて、けっこうかっこいい感じの」
　すぐにピンと来た。
　彼だ。
　でも、変てどういうこと？
「変っていうかさ、恐いていうか。ナイフ持ってたんだよね。サバイバルナイフみたいで折りたたみのやつを、ポケットにさ」
　え？
「それもひっそりと隠し持つみたいにさ」
　それって、それって…。
　彼が、犯人だってこと？
　あたしを狙い、助けた犯人だってこと？
「怪しいよな。しかも今日、また変なところで見かけちゃったんだよね。同じ奴を」
「どこでっっ？！」
思わず出した大声に、秋山君はびっくりしたみたいだった。
「どこって、東町の工事中のビル、だけど」
そのビルは、工事途中に親会社が倒産して、壊しかけの状態で放棄されている建物だった。中には浮浪者が暮らしているとかいう噂もある。
　秋山君はまた別の話題に変えようとしたけど、あたしは宿題があるからと電話を切った。
　会いに行かなきゃいけない。
　あたしは、一人で決心をした。



　東町のビルは、今や幽霊ビルとも噂されるほど荒れ果ていた。それでも、所々に「工事中」とか「上方注意」とかの看板があって、奥にはトラクターのようなものさえ見えた。
　何でここに彼が。
　そもそもどうして、あたしを。
　考えれば考えるほど謎がたくさんだったけど、それも全部、今日で解決する気がしていた。それは、あたしの気持ちも含めて。
　壊れた柵から、建物の中に入ると、何だかすごく陰湿な雰囲気がしていた。
　さすがに夜には来れないからと、学校が終わると慌てて来たのに、それでも薄暗い。
　誰かについてきてもらうんだったかも。
　蘇王。…今日はバスケ部だったか。
　千寿。…図書館で勉強か。
　神楽。…そういえばこのところ口きいてない。
　結局、あたしの神楽に告白させよう、そして思いっきり振ろう計画は、失敗してしまった。そのやりとりを聞いていた千寿も、今までの珍しい応援っぷりをやめてしまっていた。
「あのー。誰かいませんかぁー？」
そこら中にある水溜りに、ぽちゃんと水が落ちる音が聞こえるだけで、廃墟の中で呼びかけても、誰も反応せず。ただあたしの声が響くだけ。
「すみませーん」
　浮浪者すらいない。
　建物の中に入るのは、恐い。
　でも、もしかしたら…、そこには彼がいるかもしれない。
　ええい、悩んだ時は、やってみるべしっ。
あたしが、そう思い、大きく一歩踏み込んだ時だった。
　ガタンッと大きな音が上からして、あたしが見上げると、何故か上から鉄柱のようなものが落ちてきている。
　げ、嘘でしょっ！
　逃げなきゃって思うけど、こういう時って何で足って動かなくなるの？
　あたし、あたし、ここで死ぬの？
「紗那っ」
　鋭い叫び声と、強く引っ張られた腕。
　あたしは次の瞬間、水溜りに突っ伏すようにして転がっていた。
「このバカ野郎っ」
　起きあがった途端に、頭の上から怒鳴られた。
「…神楽」
　水溜りの泥で顔を汚した神楽だが、そんなことはおかまいなしにあたしを怒鳴りつけた。
「一人で勝手に行動すんなっつってんだろっ」
　あたしの腕には、神楽の手の跡が少し残っていた。それだけ強い力で助けてくれたってこと。
「まったく、何をしてるんだ。こんなところで」
神楽の後ろには、腕組をしてる千寿も、ジャージ姿の蘇王もいた。
「昨日の遅刻のわけも言わず、どうしてここに一人でやってきたんだ」
　あたしは黙っていた。
　つい一昨日だ。こうやって千寿に怒られたの。
「あの男だろ？」
ふいに神楽が口を開いた。
　驚いた顔のあたしを無視し、神楽は頬の泥水を拭いながら言う。
「テレパシー。今、お前の腕掴んだから」
　ふうと、千寿が溜息をついた。蘇王は手にしていたタオルを、神楽に投げた。
「俺たちの忠告も聞かず、お前はかっこいーだけの男と追いかけて。このザマ。くだらねーんだよ」
その言い方は、まるで蔑むような言い方だった。
「…だって、だって」
　神楽は面倒臭そうに、なんだとあたしの顔を見る。
「だって、好きなんだもん」
　固まった場の雰囲気を、あたしが１番感じていた。
「だって、好きなんだもん。会いたいんだもん。追いかけてちゃうんだもん。仕方ないじゃん」
　みるみるうちに、千寿の顔が、氷固まっていくのをあたしは見ていた。
　でも、あたしは止められない。
　この気持ちがわかったんだもの。止められるわけない。
「どうしようもないんだもん。いけないってわかってても、会いたいんだもん。悪い？」
静まりかえった中で、神楽のハスキーな声が響く。
「悪りぃに決まってるだろ。こうして俺たちに迷惑をかけてんじゃん」
「そんなの頼んでないもん」
「なんだとぉ？」
　掴みかかろうとした神楽を、蘇王が抑える。
「よせよ、神楽」
　でも、蘇王にも、そしてどこか諦め顔の千寿にも、あたしと神楽のケンカは止められない。
「上っ面だけで好きになったくせに、いばるなよ。どうせくだらねー奴だぜ。そういうのにかぎって」
「あんたのこと言ってるの？」
「なぁにぃ？」
　神楽は蘇王の腕から逃れようと必死になっていた。あたしは、そんな神楽にむしろ近寄って、叫んだ。
「あんたになんかわかんないわよ、恋する気持ちなんてもの。
　だってあんたにっ、女の子をものとしか思ってない神楽なんかに、とやかく言われたくないのっ」
　呆然としてる神楽と蘇王に代わって、千寿はあたしを止めようとした。
「おい紗那。やめ−」
「だって、そうでしょ？逃げてるもの。本当の恋愛から。あんた、ほんとに人を好きになったことないでしょ？」
　その瞬間、すぅーっと神楽の顔色が変わった。
　それまでは真っ赤な顔で怒っていたのに、白くなったのだ。白い、というよりは無表情かもしれない。
「…離せよ」
そして、ジタバタするのをやめると、一言蘇王にそう言って、そのままあたしたちの前を去っていった。
　そのあと１番大きなため息をついたのは、千寿だった。