「遅刻したーっ、遅刻っ」
　次の日の朝、あたしはそう叫んで家を出ていこうとした。
「朝っぱらからギャーギャーうるせぇなぁっ。だいたい遅刻する時間じゃねぇだろ？」
玄関には神楽が先にいて、ちょうど靴を履いてるとこだった。
　あたしは今日、日直なのよっ。
神楽を押し分けるようにして玄関を出ようとしたところで、あたしはふと気がついた。
　忘れたっ、現国の教科書っ。
そこでまたくるっと振りかえるのと、靴を履き終わった神楽が、玄関の鏡に映った自分の顔を見ているのが同時になった。でもって、運の悪いことに、あたしはそこでつまづいてしまった。
　もしあの時、つまづかなかったら。
　もしあの時、神楽がこっちを見ていたら。
　そもそもあの時、忘れ物をしてなかったら。
　だいたい、遅刻してなかったら、あんなことにはならなかったのに…。
「ワッ」
と声を立てて、あたしは前につんのめる形になった。転ぶと思ったけど、そこには幸か不幸か神楽が横を向いて立っていた。手が必死に神楽の肩を掴んだ。で も、体重は支えきれなくて、あたしはそのまま神楽に倒れ掛かった。神楽も神経は鏡の中の自分にあったから、あたしを受け止める準備はしてなくて、あたしは まともに神楽にぶつかった。
　そう、神楽のほっぺたに、あたしの唇が…。
　げっ。
神楽の見ていた鏡には、確かに神楽のほっぺたにキスしてるあたしが映ってる。
　もちろん、あたしは慌てて神楽から離れたの。だって、まるであたしから神楽にキスしたみたいだったから。
　これはあくまでも不慮の事故なのよっ。
　つかまっていた肩からも手を離すと、神楽が驚いた顔でこっちを見た。
「あ…」
　何か言わなきゃ…。
「いって、きます」
え？という顔を神楽がして、あたしはそのまま急いで玄関を出ていった。逃げ出したって方が正しいかもしれない。
　だって、どうして、あんなことになっちゃうわけ？
　え？
　あれって、あたしの、今度こそは大事な人とって思ってたセカンドキス？
　信じられない…。信じたくないっ。
　なんであんなコマシとっ。
　二度もキスしたなんてっ。
バス停まで爆走したあたしは、おかげでバスに乗り遅れることはなかったけど、でもあの胸のドキドキと、心拍数のドキドキが一緒になって、何が何だかわからなくなっていた。
　でも、あいつのほっぺた、つるんとしてて柔らかかった…。
　唇と一緒で…っ？
　何考えてんのよっ、あたしはっ。
　あいつのこと、好きみたいなこと思わないでよっ。
その時、あたしはバスの中で、自分に向けられた強い視線を感じた。それは睨んでるとか、怖いとか、そうゆんじゃない、弓矢で鋳抜かれるような強い視線。
　顔を上げて、外を見ると、バス停のところにすごい美少年が立っていたの。
　紺色に、袖口と襟が白いラインで縁取られた学ランを着て、朝の心地よい風に吹かれて立っていた彼は、じっとその澄んだ切れ長の綺麗な瞳で、ただあたしだ けを見ている。澄んでいるって言っても、神楽とは違っていて、神楽はただ明るい色なんだけど、彼は青みがかかった黒で、神秘的で、どこか影があった。風に 靡く黒髪に、きめの整ったくすみのない陶器のような肌。高く上をツンと向いた鼻に、薄くて、でも艶のある唇。すっとほっそりした顎のライン。
　まるで、白馬の王子様みたい。
　でも、その時、無情にもバスのクラクションが鳴り響いて、ドアは閉められた。彼はのろうとしてたのに、バスは満員だったの。
　いいじゃないの、一人くらいっ。
でもバスは出発してしまった。ガラスを一枚隔ててすれ違う瞬間に、あたしは彼が確かにあたしを見つめていることを知った。
　だって、顔をずっとこっちに向けてたんだもん。
　あたしはいっそう胸がドキドキしてることに気付いた。



「ほれ、紗那の弁当」
昼休みに屋上に行くと、そう言って蘇王がお弁当を渡してくれた。その隣には千寿がいて、また神楽だけがいない。遅刻して急いで家を飛び出したあたしは、あ の不慮の事故で、現国の教科書を忘れただけじゃなく、お弁当も忘れてしまっていた。蘇王はお母さんに頼まれて持ってきてくれたのだ。
　朝ご飯も食べれなかったから、もうお腹ぺこぺこなのよっ。
　ありがとねっ。
「しっかし、紗那もよくやれるよな」
　え？何が？
「朝っぱらからキス」
あたしは大口開けて食べようとしていたから揚げを、ボトッと床に落としてしまった。
　なっ…なななっ。
「あーあ、もったいねぇ」
　もったいないじゃないわよっ、蘇王っ。
　何で、どうしてあんたが知ってるのよっ。
「だってオレたち見てたもんな、千寿」
そう言って蘇王が千寿を見ると、千寿も満足そうに頷いた。
　だって、二人はいつも朝練でしょ…？
「今日は休み。だからお前の弁当も持ってきてやれたんじゃん」
　うっ…。
　でもねっ、違うのっ。
　あれはただのっ…。
その時ずっと黙っていた千寿が口を開いた。
「おかげで神楽はお前のことばかり見てるぞ。お前の作戦も成功したってわけだ」
　へ？
「なんだ、作戦なのか。つまんねぇの」
　作戦…。
　そうっ、そうなのよっ。
　これもあいつを告白させるための作戦なのよっ。
「そうそう、作戦、作戦」
何度も呟いて、あたしは溜息をつきたくなった。
　そんなんで、あたしの唇をあいつに奪われたなんて思いたくない…。
　でも、神楽があたしのことばかり見てるって？
「紗那、気付いてないのか？そう言えば、外ばかり見てたもんな、でもって先生に怒られてやんの」
　うるさいわねっ、余計なこと思い出さないでよっ、蘇王。
「ふーん、あいつもただの馬鹿な男ってわけね」
　なんて言ってみたけど、どこか虚しい…。
すると蘇王は感心したように頬杖をついて言った。
「紗那と神楽って、やっぱり似てんのな」
　何が？
「同じセリフ、神楽も言ってたぜ」
　それって…同レベルってこと？
　ってゆーか、神楽はどうしたのよ。
「さあな。保健室の先生に慰めてもらってんじゃねぇの？失恋の痛みを」
「失恋？」
「ホラ、あいつさ。家出した時に宛があるとか言ってたじゃん。年上の女。なんかホテル誘うくせに、いざってなると拒まれてついに昨日のデートで、神楽おいてきぼりにして消えたんだってさ。だから、昨日はあんなに早く帰って来たんだよ」
　ほぉ、神楽が失恋っ。
「ま、あいつの失恋って言っても、１日経てば忘れて、もう次に行ってるから、あんま意味ないけど」
　フッフッフ。
　からかってやる。
　あの、いつも自信ありげな神楽の失恋をっ。
「紗那、やめろ。その笑い方は気持ちが悪い」
　ええいっ、黙ってなさい、千寿。



「紗―那っ。どうしたの？ぼんやりして」
お弁当を食べ終わって教室に戻ると、絵梨がやってきた。
　実を言うと、あたしの頭の中は、神楽のことなんかすっかり忘れていて、ずっとあの美少年のことでいっぱいだったの。先生に怒られたのも、あの人のこと考えていたから。
「わかった、秋山君だっけ？東高の人。あの人のこと考えてるんでしょ？」
　秋山君…？ああ、そういえば今日映画の約束してるんだった。
秋山君の名前を聞きつけたクラスメートの女の子たちが、あたしの回りに集まってきた。
「ねえ、秋山君って昨日紗那に話しかけてきた人？」
「あの人かっこよかったよね」
「紗那とどうゆう関係？」
一気に質問攻めだ。
「告白されたんだって、紗那」
横で絵梨がそう言って、途端に女の子たちはキャーキャー騒ぎ出す。
「ねぇねぇ、お友達紹介してって頼んでよ」
「天下の東高生が彼氏なんてかっこいい」
「いいな。紗那」
　ちょっと待ってよ、あたしはつきあうなんて言ってないよ。
すると女の子たちは今度は静かになった。
「だってあれだけかっこよくて、頭もいいのに？」
「もったいないよ」
その中の一人が、大きな声で言った。
「もしかして紗那、好きな人いるとか？」
　ほえ？
「そっか、だから今日はあんなに物思いにふけってたんだ」
　ちッ違うって…。
と言いつつも、あたしはあの美少年のことを思い出してしまった。
　でもって、顔が真っ赤になったのを見て、彼女たちは声を合わせて言った。
「本当にいるんだ、好きな人っ」
　違うってばっ。
あたしは何度もそう言ったけど、その声は彼女たちの騒ぐ声にかき消されていった。



「紺に白のラインの入った学ラン？」
帰り道、あたしは絵梨にそう聞いた。あの人にもう一度会ってみたいと思ったの。
「…うーん。見たことないけど」
　そうっかぁ…。
「でも、その美少年は紗那のバスに乗ろうとしたんでしょ？だったら近所なんじゃない？」
　生まれてからずっとこの町に住んでるけど、今まで見たことないし、第一いても、近所でも評判の美少年になってるはずよ。
「引っ越してきたとか」
　今のところ聞いたことないんだよね。
うーんとうなってから、絵梨は言った。
「とにかく、お兄ちゃんに聞いてみるね」
絵梨のお兄ちゃんは学校の生徒会長もしてる関係で、顔が広い。もしかしたら、あの人も学校も、名前もすぐにわかるかもしれない。
「それより、ほら。待ち合わせに遅れるよ。秋山君、待ってるんでしょ？急いだら？」
　そうだった。映画館に四時半。もうその時間になる。
あたしは絵梨にさよならを言うと、慌てて走り出した。