次の日の土曜日。
　オレは、横になっていた。
　食欲がないというオレに、紗那の母ちゃんは大袈裟に驚いた。
「あの蘇王君がご飯も食べれないなんて、どうしたの？風邪？
　それとも他の病気かしら？」
　おかげで、オレは掃除や洗濯の手伝いを免れて、こうしてずっとベッドの中にいることになった。
　千寿は、杏とデート（社会科見学って千寿は言い張ってたけど）。
　紗那は、買い物。
　右近は、知らないけど、外に出て、家にはオレ一人だった。
　神楽とは、あの日以来会っていない。
　そう、神楽は。
　また家を出た。
　オレの余計な一言のせいで。



　ベッドに寝転がっていると、えみるちゃんの最新曲の着メロが鳴る。メールが届いたんだ。ぼんやりした頭で、携帯を見ると、矢野と富士川からのメールだった。
　富士川のは単純。
『コンサート、今日の午後七時開演だから、六時には来いよ』
　富士川は、あのえみるちゃんの記事をどう思ったんだろう。
　相変わらずのメールに、オレはそう思った。
　矢野のメールは、ちょっと深刻だった。
『蘇王。部活辞めるとかって噂聞いたけど嘘だよな。
　待ってるから』
　今日は重要な試合の日。
　オレの代わりに出場するのは、たぶん本当にバスケを愛して、一生懸命練習してきた部員に違いない。
　そうじゃなきゃ、いけないんだ。
　ごめん、矢野。
　オレ、もうお前と一緒にバスケできない。
　だって、お前だって。心の中じゃ、オレのこと嫌ってたんだろ？
　でも、それを隠して笑ってた。
オレにはそんな真似、できない。
　できないし、矢野にそんなこと続けさせたくない。
　大きくため息をつくと、ドアの外からニャーという鳴き声と、カリカリとドアを開けようとする音が聞こえる。
　左近？
　ドアを開けると、左近がまたニャーと鳴いた。オレは左近を抱き上げる。
「オレと遊びたいわけ？」
「ニャー」
　そうだよ、と言ってるように左近が鳴く。
　左近はたまにこうしてオレの部屋にやってくる。
そんな時は、そこらへんに転がってるボールとか、タオルを猫じゃらしのように左近の前に揺らして遊ぶんだ。
　だけど、ごめんな。左近。
　今日は全然そんな気分になれない。
　左近が床に転がっていたボールを見つけて、オレに向って転がしたけど、そのボールは虚しくオレの足元で止まる。
　ごめんな、左近。
　オレは左近の頭を撫でると、部屋を出て行った。
　ニャーと寂しそうな左近の鳴き声が、オレの背中に響いた。


　リビングに下りていって、テレビをつける。
　だけど、面白い番組なんかやってなくて、すぐにスイッチを切った。
　そもそも、オレって休みの日は全然家にいない。
　部活だとか、えみるちゃんのイベントとか、友達とかと遊びに行くことがほとんどだったから。
　えみるちゃん…。
　明りの消えたブラウン管に、歌っている彼女が一瞬映ったような気がして、オレは慌てて首を振った。
　忘れなきゃ、もう。
　すると、いきなりドアが開いて、紗那の母ちゃんが顔を出した。
「あら、蘇王君。調子はどうかしら？」
「あ。大丈夫っす、ピンピンしてます、ホラ」
　そう言って、オレは力こぶをつくってみせる。
もともと風邪引いたわけでもないし。
　オレがそう答えると、紗那の母ちゃんは、両手を胸の前で組むと、頭を傾けてにこっと微笑んだ。
　これは紗那の母ちゃんが何かしら頼みごとをするときのお決まりのポーズ。
　よく、紗那がこのポーズをされると答えるんだ。
『よくそういうぶりっ子ポーズできるね、お母さん。
　まるでブリブリアイドルみたいよ』
って。
　そう、あれは、彼女の決めのポーズ…。
　俯いたオレに、紗那の母ちゃんの猫なで声が聞こえた。
「だったら、頼んでいいかしら？お買い物」



　紗那の母ちゃんの買い物は、結構な量だった。
　クリーニングが終わったスカートとセーター、晩ごはんの材料、なくなってしまったトイレットペーパーなどなど。
　やっぱり紗那の母ちゃんだけあって、人使いが荒い。
　両手にいっぱいの荷物を抱えて、オレはのんびりと歩いていた。
　と、誰かがオレにぶつかって、キャッと悲鳴が上がる。
　オレは何とか荷物を落とさないようにバランスを取ると、後ろを振り返った。ぶつかってきたのは女の人で、ぶつかった衝撃でしりもちをついていた。
「大丈夫ですか？」
　思わず荷物を下して、手を何とか差し伸べようとして、オレはハッとする。帽子を目深に被っていて、その人の顔は見えない。胸がドキドキしていた。
「ごめんなさい…ありがとう」
　そう言って、その人が顔を上げた瞬間、オレは息を呑んだ。
　呆然としているオレに気づくことなく、その人は、オレの手を掴むとすくっと立ち上がり、すみませんでしたと謝ると、オレの先を歩き出した。
　残されたオレは、その背中を見つめることなく、オレはその場に立ち尽くして、ただ床を見つめる。
　いるわけ、ないのに。
　こんなところに彼女がいるわけないのに。
　でもオレは、期待して、そして彼女じゃないことに気づいて、がっかりした。
　そして、そんな自分に気づいて、また落ち込んだ。
　だって、忘れなきゃって思ってるのに、
　あれは夢物語だって、そう思おうとしてるのに。
　なのに、実際は、こんなにも彼女のことで頭がいっぱいで。
『ありがとう蘇王君』
　オレはそっと頬に手をあてた。
　乾いた頬と、うっすらとした無精ひげが、今のこの現実をオレに伝える。
　神様。
　あの夢物語の続きを、なんてことは言わないけど、願っていいですか？
　彼女の、幸せを。



　葉月家まであと百メートルのところで、前のほうから大きな声がした。
「あー蘇王っ」
　オレは振り返って、その大小並んだ姿にほんの少し安心する。
「杏」
　声をかけた杏は、トコトコとオレに向って走り出す。その後ろで、保護者のように立っていた千寿が、大荷物を見てため息混じりに答えた。
「買いだしか」
「とか、もろもろ。っわ」
　急に杏がオレの腕を掴む。
　荷物落ちるってば。
　だけど、杏はそんなことお構い無しに言った。
「ねえねえ蘇王、お願いがあるのよ」
何？
　そう聞き返すと、杏は更にオレの腕を引っ張って、耳元で小さな声で言った。
「あのね、逆上がり教えて欲しいの」
「逆上がりぃ？」
　途端に杏は真っ赤な顔になって、オレの腕を叩いた。
「バカッ、大きな声で言わないでよっっ」
　ごめん。
　っつーか、千寿に教えてもらったほうがいいんじゃない？
「千寿？」
　杏が怪訝そうに振り返って千寿を見る。
　千寿のほうも、そんな杏を睨みつつ答える。
「お前の得意科目だろう。体育は」
「あたしもっ、蘇王がいいのっ。千寿ってば、スパルタなんだもん」
「けどさ…」
　オレは断ろうとすると、今度は後ろから声が聞こえてきた。
「蘇王っっ」
「げ、紗那」
　紗那から少し離れたところに、右近もいる。
　紗那はオレを見つけると、一目散に駆け寄ってきた。
「ちょっと、今の『げ』って何よ」
　いや、なんでもない、けど。
「何あんた。買出し頼まれたの？今日の晩ごはんは何？」
　すると、紗那は無理やりオレの持ってる紙袋の中身を覗き込む。
　やめろって、落ちるからさ。
　そう言ってはみたものの、
「いいじゃん。ね、右近」
なんて答えて、紗那は右近に向かって微笑みかける。
　そんな様子を見て、杏がふふふと小学生らしからぬ笑顔を浮かべて言う。
「あれ？二人一緒？ってことはぁ…？」
「デ―」
「なわけないだろ」
「ちょっと千寿。何よその否定の仕方。しかも早すぎるんじゃない？」
「お前こそ、嘘つくな。見苦しい」
「嘘じゃないわよっ、それに見苦しいってどういうコト？」
　すると千寿はふぅと小さくため息をついた。
「どうせ右近の後、追いかけていただけだろうに」
「むっ、何よその言い方っっ」
　思わず紗那は拳を握る。
　千寿ってば、やめとけって。
　だけど、オレの心の中の声を千寿は聞いてるのか聞いてないのか、とにかく続けた。
「気をつけろ、そのままだとストーカーと一緒だ」
「ストーカーって…ちょっと千寿っっ」
　紗那の右ストレートを、千寿が寸前で交わして、そのまま二人の追いかけっこが始まった。
　おーい、家はすぐそこなんだけど。
　ふいに、小さな吐息がもれる。
　振り返ると右近だった。右近はオレに気づくと、迷惑そうな表情を僅かに浮かべて、さっさと葉月家に入って行った。



「ただいま…。あれ？お母さん、どうしたの？この花」
　家について、リビングに飾られた花に気づいて紗那が言うと、紗那の母ちゃんが顔を出して答えた。
「蘇王君ありがとう。助かったわ。
　ついさっきね。えみちゃんがね、事務所の人と一緒にさっき挨拶に来たのよ。それでそのお花頂いたの」
　思わずその場に居た紗那の母ちゃんを抜かした全員が息を飲んだ。
　彼女…が？
　だけど、紗那の母ちゃんはそんなことに気づかずに話を続ける。
「えみちゃんって、アイドルの花岡えみるちゃんだったのね。
　お母さん、全然知らなかったんだけど、さっき写真集とか見せてもらったのよ。えみちゃんって本当にかわいいわね。お母さん、ファンになっちゃった」
　ふふふと笑う紗那の母ちゃんは、本当に嬉しそうで。
　黙りこんでしまったオレたちを無視して、紗那はふとテーブルに置かれた色紙に気づいた。
「お母さん。これは？」
「紗那にプレゼントだって。Ｖ７の…誰のだったかしら？紗那の好きな…」
「…岡山君の、サイン…」
　色紙を握りしめて、紗那はぽつりと答えた。その手に力が入ったことに、紗那の母ちゃんは気づかずに話を続けた。
「皆に、とてもお世話になった。ありがとうって言ってたわ」
　そう言って、紗那の母ちゃんはオレの荷物を引き取ると、キッチンへと姿を消した。
　静まり返ったリビングで、千寿が呟く。
「所詮、夢物語、か」
　それに答える人は誰もいなかった。
　しずかなリビングに、その時ピンポーンとチャイムの音が響く。
「はーい」
　紗那がそう言って、玄関に向う。
　オレは、ただ彼女の残した花を見つめていた。すると、
「ちょっ、ちょっとっっ」
という珍しく紗那の戸惑う声がして、リビングに黒いスーツを着た男の人が顔を出した。
　うーん。どっかで見たような気がする。
　そうぼんやりと思ってると、そいつはいきなりオレの胸倉を掴んだ。
「おい君っ、えみるはどこだ？」
　え？　
　驚いたのは、きっとオレだけじゃない。
　みんなの視線の中で、そいつは答える。
「君が連れ出したんだろう、えみるを。
　ホテルがもぬけの殻だったんだ。昨日、迎えに行くと話したのにっ」
　あ、とオレは小さな声を上げる。
　そうだ、こいつって、彼女のマネージャーなんだ。
　よくイベントで見かけてた。
　え？ちょっと待って。
　ホテルがもぬけの殻って…。
「けど…。事務所の人と一緒にさっき挨拶に来たって―」
　そう答えると、明らかにマネージャーの顔が青ざめた。
「まさかっ。まさか、えみる…」
　頭を抱えてしゃがみ込むマネージャーに、千寿が淡々と尋ねる。
「どうしましたか？」
　男は頭を抱えたままで、苦しそうに尋ねた。
「…今回の雲隠れ中、不審な人物は彼女の周りをうろついていなかったか？」
　それぞれがお互いに顔を見合わせる中で、千寿が答えた。
「多分…いませんでしたが」
「ってゆーか、いっつも貴方が追い回してたんでしょう？」
　何も知らない紗那がケンカ口調でそういうと、マネージャーはそんな紗那に怒鳴り返した。
「当たり前だっ。
　えみるは、今狙われているんだ」
「え？」
　誰もが驚いて、声をあげる。
「ちょうど雲隠れする前日だ。事務所に誘拐予告が来た。
　えみるを、数日中に誘拐するって」
　マネージャーはそれだけ言うと、また頭を抱えて床に座り込んで、ブツブツと何かを呟いている。
　千寿が眼鏡の奥の鋭い目を光らせて尋ねる。
「警察には？」
「実際には起きてないことだから、動くわけには行かないし、有名人だからただのファンからのまやかしじゃないかと相手にされなかった。スキャンダル記事の後始末もあったから、ホテルに缶詰にしたのに、えみるは逃げ出したんだ。
　ようやく見つけたと思ったのに」
　そんなこと…。
　彼女は一言も言わなかった。
　それは、きっと。
　きっと、オレたちに心配をかけないようにという彼女の優しさ。
「犯人に心当たりはないんですか？」
　マネージャーは力なく首を振る。
「確かに熱狂的なファンがいるのも事実だが、今回のは常軌を逸していた」
「常軌を逸していた？」
　確かにコンサートに行くと、オレなんて比じゃないくらい熱の入ったファンはいたけど。
　でも、ジョウキをイッシていたって？
「普通じゃないってことだ。その手紙にはなんて」
　ぽかんとしてるオレに気づいた千寿が手早く答え、マネージャーには質問を浴びせた。
「世界を征服するために、えみるの歌声が必要だ、とか何とか」
　その場に居たみんなが、顔をあわせる。
　そして、紗那が尋ねた。
「名前は？」
「確か、ミドウと」
「御堂？」
　呟きが重なる。
　それって、つまりは…。
　シーンとシリアスな空気の中で、場違いなオレの携帯が突然鳴りだした。
　これも、彼女の曲。
　オレが、一番好きな彼女のデビュー曲。
　着信は、富士川だった。
　能天気な明るい声が、ざわついた向こうから届く。
『やっほう蘇王。どう？来れそう？』
　あ、そうだった。
　オレは携帯から顔を逸らして、マネージャーに聞いた。
「あの…今日は、えみるちゃんコンサートだったんじゃ…」
　一瞬ぽかんとした顔で、マネージャーが答える。
「コンサート？
　一体何のことだ？」
　耳元には、富士川のちょっと熱を帯びてるような声。
『シークレットだっつーのに、すっげぇ人だぜ。
　お前も早く来いよ。
　えみるちゃん、もうすぐ登場だぜ』
　オレは答えることなく携帯をきると、慌ててリビングを出て行った。
「蘇王っ、ちょっとっっ」
　紗那がそういうのが聞こえたけど、説明をする暇なんかなかった。



　御堂の怪しい手紙。
　仕組まれたシークレットライブ。
　連れ去られたえみるちゃん。
　そして、富士川たち、彼女の熱狂的なファン。
　オレは今までにないくらい全速力で走った。
　携帯を握りしめている手が、カッと熱くなる。
　彼女は言った。
――いつか、復讐して、逆の立場になるんだって。
――わたしは、切り開きたかった。わたしの運命を、わたしの手で。
　御堂は、そんな彼女の心の闇に目をつけた。
　だけど、同時に彼女は、叫んでたんだ。
――タスケテ
　バカだ、オレ。
　大バカだ。
　最初から、彼女はＳＯＳ、出してたのに。
　なのにオレは、それに気づけなかった。
――ダレカ、タスケテ。
――アタシヲ、スクッテ
　気づいてたのに、助けようとしなかったんだ。
　彼女の笑顔が本物だと信じて。
　体が熱い熱に包まれる。
　背中の辺りがなんだかむずがゆい。
　ぐっと目を閉じると、体がふわっと軽くなった気がした。
　神様、お願いです。
　最後のチャンス、オレに下さい。
　彼女を助けるチャンスを、オレに。
　そうして、ゆっくりと目を閉じると、そこには彼女と一緒に乗ったミラクルコースターがあった。