チャイムが鳴った。五時間目がはじまる。
　だけど、オレは、教室に戻る気持ちにはなれなかった。
　花岡えみるというアイドルじゃない、生身の彼女が、ついていた嘘を、オレはどう受け止めればいいのかわからなかったから。
　教室に行けば、神楽がいる。千寿がいる。
　あの二人に、隠しごとなんかできない。
　けど、何て言えばいいのか、オレにはわからくて。
　フラフラと階段を下りて、オレは気づけばバスケ部の部室にいた。
　何かから逃げるように、オレはそのドアを開ける。
　ドアが閉まる音を聞いてか、ロッカーの前で何かが動いた。ふらりと立ち上がった姿を見て、オレはちょっと安心する。
「あれ？…中川先輩？」
　中川先輩は、バスケ部三年の先輩だ。すごく真面目で、練習熱心な先輩だって、矢野が話してたことがある。
　だけど、真面目な先輩が、授業中にどうして？
　その時、びくっとして立ち上がった中川先輩の手から、ポロリとバッシュが落ちた。
「あ、先輩ってば、もしかして昼休みも練習してたんすか？」
　そう言ってオレは落ちたバッシュを拾い上げる。
　あれ？でもこれ。…オレのバッシュ？
　オレの声に、中川先輩は目を逸らした。それを見て、オレは直感でバッシュを裏返す。
　胸がドキドキ言っていた。
　神様。
　どうか違うといってください。
　だけど、底には、大きな釘が刺されてあった。中に手を入れると、釘の先がオレの指にちくりと触れた。
　もしかして、前のもそうなの？
　オレの無言の問いかけに、中川先輩も無言で答える。
「…どうしてすか、中川先輩」
　バッシュを握りしめながらオレがそう尋ねると、中川先輩は何故かふっと微笑んで答えた。
「今度の試合で、俺は引退だ。この三年間、一生懸命試合をしてきた。結果、三年目にして、やっとレギュラーになれた。
　ところがだ、お前が来てからの俺はどうだ。つねにお前のサブだ。五つも掛け持ちをしてるお前の、次だ。
　…許せなかった。
　ちゃらんぽらんに練習してるお前が、当たり前の顔をして、試合にレギュラーとして出場してしまうことが」
「でもオレは、相楽部長に頼まれて―」
「部としては強い人間に試合に出てもらったほうがいいんだろう。
　俺も部長なら、そう思うかもしれない。
　お前は確かにバスケも、サッカーも巧い。巧いが、どれも中途半端だ。お前よりも下手な人間の方が、よっぽどバスケを、サッカーを愛してる。そう思わないか。
　そういう人間の方が、試合に出場すべきだと思わないのか。
　下手な人間は、巧くなければ試合に出れないことなんかわかってる。
　けれど、練習すれば、巧くなれる。そう信じて俺たちは練習を続けてる。
だがその一方でどうだ？週一の練習に来るか来ないかのお前が、しらっと試合に出場してる。
　頭では理解できるが、…心がついていかない」
　かみ締めるようにそう言って、首を振る中川先輩に、オレはどうしていいのかわからなくて。思わずその肩に手を伸ばしたら、思い切り払われた。
　そして、オレを睨みつけて言った。
「俺は、お前の実力は認める。
　だが、お前の存在は認めない」
　息が止まるかと思った。
　オレは自然と後ずさりをしていた。
　知らなかった。
　先輩が、オレのことそうやって見てたなんて。
　オレが、先輩のこと、傷つけてたなんて。
「すみませんでした」
　呟くと、驚いたように中川先輩が瞬きをした。
　ごくりと唾を呑む込む。
　ぼうっとした頭のままで、だけど声だけは冷静に伝えていた。
「辞めます。オレ。部活、全部、やめます」



　結局、オレはどこにも居場所がなかった。
　あの時と一緒。
　何も信じられなかった。
　えみちゃんも。
　バスケ部も。
　そう、あの時と同じ。
　街をふらふら、行くあてもなくさまよって。
　だけど、今度は、誰もオレを救ってくれない。
　だって、あの時救ってくれたえみちゃんが、あの天使が、オレを裏切ったのだから。
　絶望のどん底から救ってくれた人に、裏切られる気持ち。
　…神楽も、同じ気持ちだったのかな。
　生まれてきた意味が、なくなった神楽を救ってくれた香苗先生。
　そんな神楽を、裏切った香苗先生。
　無性に神楽に会いたくなって、オレは結局葉月家に戻った。
　チャイムも鳴らさず、ただいまの声もあげずに玄関を開ける。だけど、そこには神楽の靴はない。
　ため息をつくと、何故か紗那がドアの閉まる音を聞いてか、リビングから飛び出してきた。
「蘇王、どこ行ってたのよ。昼休みに屋上行ってから戻ってこないで。心配したんだからねっ」
　ごめん、紗那。
　オレはそれだけ答えて、二階へと上がる。
　何も、言いたくなかった。
　今日のこと、全部。話したくなかったから。
　だけど、紗那はオレの後を追いかける。
「バスケ部の練習もサボって。矢野くん、心配してたよ」
矢野…。
　オレは、矢野のことも思い出した。
だけど、中川先輩のように、矢野のこともオレは傷つけてたのかもしれない。
「辞めたんだ、バスケ部」
　そういうと、紗那の目がまん丸に見開いた。
「え？」
　ってゆか、全部辞める。サッカー部も、陸上部も、全部。
　それだけ言って、階段をあがろうとするオレに、それでも紗那はついてきた。
「蘇王？ちょっと待ってよ！…あんたに話さなきゃならないこと、あるんだから」
　ごめん、紗那。
　オレはそう言って、振り返りもしないで二階に上がる。
「蘇王っ」
「蘇王君っ」
　その時、あの天使のような声がオレを呼んだ。
　思わずオレは足を止める。
　でも、振り返れなかった。
　オレの背中に、えみちゃんの声が響く。
「蘇王君っ、あたしねっ―」
「ごめん。
　…悪いけど、オレ。今は一人になりたいんだ」
　そういって、部屋のドアに手をかける。
「蘇王っ」
　紗那の怒鳴り声が聞こえたけど、オレはそれも無視した。
　ドアが閉まる瞬間、紗那が右近の名前を呟くのが聞こえたけど、オレは何も聞こえなかったフリをして、ベッドになだれこんだ。


　それから暫くして、車の音がして、玄関が開いた。
　何人かの話す気配が下から聞こえてきたけど、オレは何もする気になれなくて。
　そしてまた、少しして、誰かが出て行く音、車が動き出す音がして、静かになった。
　心にぽっかり空いた穴を、埋めることなく天井を見上げると、えみちゃんの笑顔のポスターが目に付いて、オレは思わず寝返りをうつ。だけど、そこにもえみちゃんのポスターがあって、オレは思い切り布団を被った。
　すると、ドタドタという足音がして、乱暴にドアがノックされた。
「蘇王、えみ。マネージャーさんと行っちゃったよ。
　このままだとうちに迷惑かかるからって」
　紗那だった。
　更に布団を被ると、乱暴なノックの後に、いきなりドアが開いて、紗那が殴りこんできた。
「えみ、あんたにお礼言いたかったんだよ。ありがとうって」
　オレは更に更に布団を被ろうとすると、紗那が思いっきり布団を掴んで、ひっぺがした。
「蘇王っっ。えみは―」
　気づいたらオレは、起き上がって、怒鳴りつけていた。
「オレは知らない。えみなんて知らないっ。
オレが知ってるえみるちゃんは、天使のように優しくて、いつも笑ってるえみるちゃんでしかないっ」
　大きく一呼吸する。そうしてオレは後悔した。
　怒鳴りつけたかったのは、紗那じゃないのに。
　うなだれるオレの目の前で紗那がオレをにらみつけると、顔にツバがかかるくらいにオレに怒鳴り返してきた。
「このおバカっ。
　えみるであろうと、あれはえみでしょう？別人なわけないじゃない。ただ名前が違って、服装が違うだけでしょ！
あんたがそんなんだから、えみは出て行くしかなかったんじゃないっ。
　えみは、認めてほしかったんだよっ。
　えみるも、えみも、一人の同じ女の子だって、蘇王に。どうしてわからないの？」
　わからなかった。
　オレは何もかも。
　オレのことを好きだと言ってくれた渡辺の気持ちも。
　オレに意地悪をした中川先輩の気持ちも。
　嘘をついていたえみちゃんの気持ちも。
　その時、開いたドアからいきなり千寿が飛び込んできた。
　いつも以上に怖い顔つきに、紗那が驚いて、尋ねる。
「千寿っ。神楽、見つかったの？」
　え？神楽。どうかしたの？
　もしかして、また家出？
　千寿はオレと紗那の質問に答えることなく、オレの胸倉を掴む上げた。
「おい、蘇王。お前神楽に何を言った」
え？
　目を見開くオレに、千寿がぐいと顔を引き寄せてドスの効いた低い声で言う。
「お前、まさか神楽に結婚に反対するとか言わなかったろうな」
　あ、とオレの目が泳いだ瞬間、千寿の顔が更に険しくなった。
「…言ったよ、この前。だって、やっぱり神楽が―」
「バカ野郎っ」
　え？
「神楽がただ追い込まれるだけだろうっ」
「どうしてだよっ、どうして、オレは神楽の為にっ―」
　オレが思わずそういうと、千寿は荒げた声を抑えてかみ締めるように言った。
「妊娠してるんだ、先生。父さんの子供を、妊娠してる」
　え？
　一瞬、頭の中が真っ白になる。
「お前に言わなかったのは、まだ妊娠が確定じゃなかったからだ」
　紗那がそっと会話に加わる。
「どういう、こと？」
「確かに二人は再会し、付き合いだした。けど、結婚に踏み切ろうとしたのは、父だ。きっかけは、先生の妊娠」
「そんな…」
　小さく、そう紗那が呟いた。
「先生は妊娠を知って、結婚はしなくていいけれど、どうしても生みたいと言ったらしい。父さんは、一人で産むくらいなら結婚しようと言った。…先生からの返事は実はまだないらしい」
『だけど、先生は断る。
　神楽の為に。
　せめてもの、償いとして』
　千寿がそうテレパシーで訴えてきた。
　ごくりとツバを飲み込んだオレから手を離し、千寿は力なく言う。
「お前ならわかるだろう。父の居ない子供の埋めきれない寂しさが。父さんはわかってたから、反対したんだ。だからプロポーズした。
　神楽だって、同じだ。小さい頃の俺たちの寂しさを、あいつはよくわかってた。
　だからあいつは、この結婚に反対すらできない。反対すれば、オレたちのような子供をこの世にまた生み出すことになる」
『あいつは絶対にそういうことはしないし、させない』
「だから言った。神楽にそういう話をするなと」
　こみ上げてきた想いを、押しとどめようとオレは唇をかみ締めた。
「昨日、これ以上隠しておきたくないからと、父さんが電話で話したそうだ」
　あの電話…。
「オレ…」
　千寿は、大きなため息をつくと、それ以上何も言わずに、そっと部屋を出て行った。
　頭を抱えて俯いたオレを見て、紗那も部屋を出て行く。
　一人残されたオレは、どうしていいのかわからなかった。
　どうして、オレってこんなにバカなんだろう。
　神楽のこと、全然わからずに自分の気持ちを押し付けた。
　渡辺だってそうだ。
　中川先輩だって。
　そして、えみるちゃんだって…。
『えみは、認めてほしかったんだよっ。
えみるも、えみも、一人の同じ女の子だって、蘇王に』
　だから、えみちゃんは、あの時オレに聞いたんだ。
『あたしと、花岡えみるって、どっちが必要かな』
　えみちゃんが欲しかったのは、どっちも必要だって言葉だった。
　どっちも彼女であることには変わりなかったから。
　なのに、オレは。
　オレは…。
　その時、ニャーという鳴き声が聞こえて、顔を上げると、ドアの隙間からそっと左近が部屋に顔を出していた。
　何だ？左近。
　遊んで欲しいのか？
　…悪いけど、オレは今落ち込んでいてそれどころじゃないんだ。
　ごめん。
　左近がもう一度ニャーと鳴くと、今度は右近が顔を出した。
「何だよ、右近まで。オレ今―」
「行くぞ」
　オレの言葉を遮って、珍しく右近がそう言ったかと思うと、乱暴にオレの腕を掴む。
　右近？
　戸惑うオレに、右近がテレパシーで言う。
『後悔したく、ないんだろ？』
　小さくオレが頷くと、右近は納得したように、オレの腕を引っぱった。



　そのまま何の会話もしないで、連れてこられたのは大きなホテルの前。
「ここの最上階に、いるらしい」
　右近はそれだけいうと、オレの背中を押しだした。
　何も言わなかったけど、行って来いって応援してくれてるのが、温かな手を通してオレには伝わってきた。
　よしっ。
　気合を入れると、オレはやってきたエレベーターに乗り込んだ。
　インターホンで名前を告げると、暫くして、驚いた表情のえみちゃんが現れた。
「蘇王君…」
「ごめんっ、オレッ」
　とにかく謝ろうとするオレに、えみちゃんは痛々しい笑顔を見せて言った。
「入って。マネージャーは、今はいないから」



　だだっ広いソファーに座ったオレに、温かい紅茶を出すと、オレが話す前にえみちゃんの方が口を開いた。
「全部、わかっちゃったんだね」
　無言でうなづくと、えみちゃんは、そうと呟いて、立ち上がった。
　そして、大きな窓から下の夜景を眺めて話し出した。
「わたしね、小さい頃苛められてたの。だから、いつかわたしを苛めた子たちに復讐したいって思ってた。いつか、復讐して、逆の立場になるんだって。
　そんな時にスカウトされて、アイドルになってぎゃふんといわせてやるんだって、そのまま何の実力もないまま、デビューしたわ。
　でも、何の基礎もないから、結局売れなくて。だけど、親はすごく喜んで、いろんなところからお金かりして、わたしをアイドルで居続けようとさせた。売れないCD出したり、写真集だしたり。それが、週刊誌に書かれてた借金のもと。
　わたしも、初めはくだらない理由でアイドルになったけど、実際歌うようになってから、もっともっと上手に歌いたいって思うようになったの。だから、アイドルを辞めなかった。
　でも、借金で生活できないくらい追い込まれて、もう駄目ってなったときに、今の事務所の社長と出会ったの。
　社長は言ったわ。
　自分に全てを任せれば、やり直せるって。
　わたしは、全部社長の言う通りにした。
　社長の言うとおりの格好をして、社長の言うとおりに話して。そうして、花岡えみるが出来上がったの。
　わたしは大好きな歌を歌えて幸せだった。
　でも、途中で気づいたの。
　アイドル花岡えみるは、岡野えみじゃないんだってことに。
　結局、岡野えみじゃ、復讐できなかったんだってことに。
　そう思ったら、すごく、不安だった。不安で、押しつぶされそうになったときに、眞田さんと出会ったの。
　わたしの話を、ゆっくり聞いてくれた。
　君は、大丈夫だからって。
　僕がいるから、大丈夫だって。
　結婚しようって言って。
　結婚してるなんて知らなかったわ。だから、びっくりしたの。突然、向こうの弁護士から手紙が来たときは。
　色々マネージャーが調べてみると、もともと夫婦仲はよくなくて、眞田さんの奥さんもたくさん借金してて、離婚して慰謝料をとる計画をしてたんだって。それにたまたまわたしがひっかかったってわけ。
　思わず笑ったわ。ああ、やっぱりって。
　やっぱりわたしは、負けの人生なんだって」
　口もとだけ笑うえみちゃんの笑顔は、『花岡えみる』の笑顔とは全然違ってた。
　今まで見てきたえみちゃんとも違う。
　きっと本当に素のえみちゃんだったんだ。
「人間はみっつに分かれるんだって。
　運命に翻弄される人間と、運命を受け入れる人間。
　そして、運命を切り開ける人間。
　蘇王君は受け入れる人。
　だけど、わたしは、切り開きたかった。わたしの運命を、わたしの手で。
　でも。…無理だった。結局、翻弄される人間だった」
　オレは思わず立ち上がった。
「そんなことないっ。運命は誰にだって、平等なはずだよ。
天は人の上に人を作らず、人の下に人を作らず。千寿がそう言ってた」
　初めて聞いた時は、意味がわからなかったけど、つまりは神様はみんな平等につくってくれてるんだって、千寿が教えてくれた。
　くるりとオレの方を振り返って、えみちゃんが首をかしげる。
「本当にそう思うの？
　蘇王君も、神楽君も、千寿君も、三人とも皆平等？」
　それは…。
　オレが答えられない代わりに、えみちゃんが答える。
「蘇王君は気づいてないだけよ。自分は、幸せだってことに」
　母ちゃんもいて、
　親父もいて、
　新しい親父とも仲良くやってる。
　一方で、神楽は一人、孤独だ。
　思わず黙り込むと、えみちゃんはよく見たあの笑顔で言った。
「夢、みたいだって言ってたね、蘇王くん。
　わたしもね、そうだったんだよ」
　そうして、オレの目の前まで、歩いてくると、軽く背伸びをして、オレの頬にキスをした。
「ありがとう蘇王君」
　ぼんやりとした意識の中で、えみちゃんが囁く。
「またコンサート、来てね」
　オレのほっぺたがじんわりと涙にぬれる。
　オレじゃない、えみちゃんの涙。
　それは、別れのキスだった。