ああ、神様。
　こんなに幸せな日があってもいいのでしょうか。

　オレは、遊園地からの帰り道、ステップ・スキップ・ランランランと、歩いていた。
　えみちゃんは、遊園地から出た途端に、また携帯が鳴って、結局その後寄るところがあるとかで、オレは一人で帰ってきたのだ。
　だけど、たぶんこれでよかったんだと思う。　
　これ以上、えみちゃんと一緒にいたら、オレはとろけてしまいそうだったから。
「ただいま♪」
と大きな声を出そうとした俺の耳に、リビングから紗那たちの声が聞こえてきた。
　中をこっそりのぞくと、紗那以外に、高未とそれから久しぶりの貴羽もいる。
　高未はいつもの通り、自信たっぷりに言っていた。
「私の勘からすると、近いうちに必ず、シャドーは蘇王君を直接狙ってくるはずよ。
　今までみたいに間接的じゃなくてね」
　げげ。っつーか、オレですか。話の中心。
　しかも、シャドー話。
　声出してなくてよかったぁ。
　見つかったら最後、こってりしぼられるに違いない。
「けど、千寿も言ってたけど、シャドーと思うような人は、蘇王に近づいてないってさ」
　いいぞ、紗那。
　その調子！　
　ひっそりこっそりしのび足で、リビングから遠ざかろうとしたオレに、その時貴羽の声が響いた。
「花岡えみるよ」
「え？」
　はい？
　思わず足を止めたオレと、声をあげた紗那を代表して、高未が貴羽に聞き返す。
「どうしたのよ、貴羽。突然」
「他にいる？最近になって、急に蘇王君に近づいてきた人物」
　つまり、えみちゃんがオレのシャドーってこと？！
　冗談だろっ。
　えみちゃんは、シャドーっつうか、逆に天使だっつーの。
　紗那も信じられないって顔して貴羽に言っている。
「でも、えみってすっごいいい子だよ。本物は、あの花岡えみるみたいに、ぶりぶりじゃないし」
　そうだ！いいぞっ、紗那っ。
　ぶりっこってのが、余計だけど、この際許すっ。
　だけど、貴羽は冷静に答える。
「だから、そういうことなのよ」
　白い顔がいつにも増して青白く感じたのは、オレだけだろうか。
　はらでも壊したのかな。
「…どういう意味？貴羽」
　高未が貴羽の真剣さに負けて、真面目な顔して聞き返してる。
　いやいや、別に真面目な顔しなくても、えみちゃんがシャドーだなんてことあり得ないっしょ。
「花岡えみるとして、十分世間を騙してきたような人間よ。だったら、彼女がシャドーであっても、おかしくないわ」
　黙りこんだのは高未だった。
　ただ一人、紗那だけがオレの同士として、言い返す。
「そんなことないっ。えみはいい子だもんっ」
　だけど、貴羽はそういった紗那を鼻で笑って答えた。
「あなたは知らないのよ。所詮、人間はそういうものだってこと」
「「違うっ」」
　オレと紗那の声が重なり合う。
「蘇王」
と紗那が、思わずリビングに殴りこんだオレを見て言った。
　オレは貴羽の目の前に立って言った。
「えみちゃんだって、ずっと悩んできたんだ。花岡えみるちゃんとして、自分に嘘をついてること、ずっと悩んでたんだ」
　貴羽はずっと俯いていた。
　許さないぞっ、オレは。
　えみちゃんも、花岡えみるちゃんも、悪く言うやつは、いくら「仲間」だとしても、許さないっ。
　にらみ合うこと数十秒。
「蘇王君っ」
　高未が今にも噛み付きそうなオレの前に立ちふさがった。
　そして、くるりとオレに背を向けると、反対側に立っていた貴羽の肩に手を置いて優しく声をかける。
「貴羽、どうしたの？何があったの？貴羽らしくないわ、今の発言。そりゃ本人と会ってないからかもしれないけど、それにしても、冷たいんじゃないの」
　それでも貴羽は何も言わずにうなだれていた。
　そして、
「…ごめんなさい。帰るわ、私」
というと、それ以上何も言わずに、リビングから出て行ってしまったのだ。
　玄関が閉まる音を聞いて、ため息と同時に高未が答える。
「ごめんね、蘇王君。紗那。
　あの子も、色々あるのよ。
　それに、貴羽も苛立ってるんだと思う。最後の天使は見つからないし、それに…」
　高未がじっとオレを見つめる。
　え？オレ？
　高未はいくらか責めるような目をオレに向けた。
「ね、蘇王君。覚醒する気ないの？」
　いや、そういうわけじゃないんだけど。
　よくわかってないだけで。
　答えないことが、オレの気持ちだと思ったのか、高未は話を続ける。
「最近よく事件が起きるじゃない。人が人の心を失ってしまったような、残忍な事件。
榊はね、これも御堂たちの仕業じゃないかって言ってるの。現に、御堂たちは、着々と力をつけているし、勢力を拡大してるわ。
　早く御堂たちを倒すためにも、蘇王君が覚醒して天使になって、最後の天使をみんなで見つけて、神様からの指令を受けて、この世界を貴方たちが救わないとだめなのよ」
　高未は目を輝かせて、そう答える。
　高未って、そうなんだ。
　覚醒することに、すごく使命感に燃えてるっつーか。
　そう、一生懸命なのだ。
　オレとは正反対。
「真剣に考えてみて、覚醒のこと」
　曖昧にうなづいたオレに、高未が真剣な表情で言った。
「蘇王君に、日本の、ううん、世界の平和がかかってるかもしれないのよ」



　思えばオレは、何かに一生懸命になったことがない。
　部活だって、５つかけもちしてるけど、それはどれにも打ち込んでないってことだし、
　千寿みたいに、学ぶことが好きなわけでもなく、
　神楽みたいに、女の子との恋愛ゲームが好きなわけでもない。
　そう趣味がないのだ。
　あえて言うなら、『花岡えみる』ちゃんが好きってだけ。
　えみちゃんは、あの後すぐに家に帰ってきた。高未が疑いの目で見るせいか、つい何時間か前のあの笑顔はなく、俯きがちに、居候してる紗那の部屋にさっさと戻って行った。
　もちろんそれを見て、高未の疑いはますます大きくなったみたいで。
「気を抜いちゃ駄目よ、蘇王君。
　シャドーは、蘇王君が気を抜くときを狙ってるんだから」
と言い残して帰っていった。
　一応高未の話を、オレはえみちゃんがお風呂に入ってる時間をねらって神楽たちに話した。右近は例によって、自分の部屋に引きこもった。紗那は、用事があるとかで、家を出て行って、ここには俺たち火狩家三兄弟がいるだけだった。
「つまり、高未も貴羽も、えみがシャドーだと疑ってるってことか」
　オレのわかりづらい説明が終わると、最後はお決まりのように千寿が話をそう一言でまとめた。
　首の後ろで腕を組んだ神楽が、背伸びをしながら答える。
「けどさ、貴羽の説が正しかったとしたら、とっくに蘇王に手をかけてもいいんじゃないの？もう一週間経ってるぜ」
　そう！そうだよな、神楽っ。
　やっぱり、えみちゃんがシャドーなわけないよなっ。
　だけど、大きくうなづいたオレの正面で、千寿がため息をつきながら答えた。
「時期を見てる」
え？
「入れ替わるならば、蘇王のエネルギーができるだけシャドー側に傾かねばならん。その時を、見てるんだとしたら―」
「やめろよ、千寿。そういうこというの。
　オレは、えみちゃんは絶対にシャドーじゃないと思う」
　思わずオレが言い返すと、眼鏡の奥で、キラリと瞳を光らせて、千寿が聞き返す。
「理由は？」
　う。
　理由…。
　そんなもん、ない。
「つーかさ、『えみちゃん』なんて呼んでるってことは、何かあったわけ？蘇王」
　う。
　神楽ってば鋭い！
　けど、あの遊園地は二人だけの秘密なのだ。
「な、んでもない…デス」
　神楽がはらを抱えて笑い出す。
「蘇王、そんなに嘘つくのが下手だったら、浮気なんかできねぇぞ」
　んなことできなくっていい！
「もしかして、紗那の機嫌が悪いのは、それと関係してるのか？」
「お前、さっき怒鳴られまくってたもんな」
　そうなんだ。
　紗那は、高未が帰った途端に、オレを怒鳴りつけたんだ。
「蘇王っ。あんたどういうつもりよっ。
　絵梨のこと泣かしてっ」
　胸倉掴まれて、あわや平手打ちか、ってタイミングで、運よく右近が通りかかったから助かったものの、あれが千寿や神楽だったら、間違いなく紗那はオレを殴っていたと思う。
　どうして、同じ女だっつーのに、あいつってばえみちゃんとは全然違って、がさつなんだろう。
「渡辺ともなんかあったんだろ。お前」
　どうやら二人にもあの話は聞こえてたらしい。
　千寿と神楽のニヤニヤした目に囲まれて、俺は全部話すことにした。



　話し終わると、神楽が言った。
「お前はさ、どうしたいわけ？」
　どうって？
「どっちと付き合いたいわけ？えみか、渡辺か」
　え？
　っつーか、別に二人ともそんなんじゃないだろ。
　渡辺は、友達だし、
　えみちゃんは…、きっと。オレのこと、そんな風に思ってるんじゃないと思う。
　彼女にとって、オレは…。　
　悲しいけど、『花岡えみるファン』の一人なんだから。
「だったら、どっちともデートするのもやめろ。えみとデートすれば、お前が辛いだけだし、渡辺とデートすると、渡辺が傷つく」
　そういうこと、お前が言うかっ。
　神楽に思わずそういうと、
「お前は神楽よりもっと性質が悪い」
と千寿に言われた。
　マジ?！
　それはかなりショックかも。
「…おい、蘇王。どういうことだよ」
「まあ落ち着け、神楽。
　こういうことはしたくなかったが。止む無しだ。これ以上紗那の機嫌悪くなっても迷惑だしな。
　蘇王。お前は、本当に渡辺はお前のこと何とも思ってないと思うんだな？」
　うん。
　…違うの？もしかして。
　神楽が頭を抱えて大げさに言った。
「初めて気づいたか、このニブちん」
　だって、俺。
　好きだとか、付き合ってくれとか、言われたことないぜ？
「言われなくても、デートに誘われてるんだから、気づいてやれよ。少しは」
　あ。
「ＯＫもらって、有頂天なのに、付き合ってないなんて宣言されちゃ、そりゃ渡辺じゃなくても、へこむだろ」
　俺…。
「俺、渡辺に謝るよ。今日のことっ」
「待てって、蘇王」
　立ち上がった俺を、神楽が引き止める。
「お前にその気がないなら、そんなことするな」
「何でだよっ」
　だって、俺。渡辺のこと傷つけたんだぜ。
「謝ったところで、お前は渡辺と付き合うのかよ」
　それは…。
　黙りこむ俺に、千寿が言った。
「だったら、変に優しくするな。逆に傷が深くなるだけだ」
　俺が俯くと同時に、ドアが開いて、えみちゃんが風呂が空いたと伝えに顔を出した。


　ため息をついて、ベッドに転がる。
　目の前には、えみちゃん、もとい『花岡えみる』の笑顔のポスターがある。
『お前はさ、どうしたいわけ？
どっちと付き合いたいわけ？えみか、渡辺か』
　渡辺は…、悪いけど、そういう対象じゃない。
　ほんと、悪いけど。
　えみちゃんは…。
『だったら、どっちともデートするのもやめろ。えみとデートすれば、お前が辛いだけだし、渡辺とデートすると、渡辺が傷つく』
　ポスターの笑顔を見つめる。
　いつもウキウキしてたはずなのに、どうしてだろう。
　オレの胸はきゅぅっと痛くなる。
　今日のことだって、あの時は幸せでいっぱいだったのに、今思い出すと、おんなじで胸が痛くなる。
　あー、もう。
　オレってば、どうしたんだよ？
　どうして、自分の気持ちがわからないんだよ？
　イライラして、下に下りていくと、受話器を下した神楽がいた。
　神楽？　
　電話、誰？
　だけど、神楽は俯いたまま答えない。　
「もしかして、父さん？」
　そう言って、やっと神楽は答える。　
「…なんでもない」
　そう言って、オレにまで背を向ける。背中に漂う、寂しさが、オレにもじんわりと伝わってきた。
　そう思ったら、気づいたらオレは神楽に言っていた。
「オレ、やっぱり反対だよ。
　だって、あの時二人は別れるって言ったんだ。オレたちに約束したんだ。
　なのにどうして今更付き合い始めてるんだよ。
　それだけならまだしもっ、結婚なんて。
　オレ、お前の為にも反対する。
　父さんに電話して、やめろって言ってやる！」
　受話器を取り上げると、横からそれを神楽が取り上げた。
「やめろっ、蘇王」
　冷めた声。
「もう…。いい、からさ」
　小さく、少し、震えるような声。
　オレは、こんな神楽を一度しか見たことがなかった。
　こんなに、弱い神楽を。
　あの時以来。
　黙りこむオレに、神楽はすっと顔を上げると、無理やりな笑顔を作って答えた。
「あの二人がどうなろうと、オレには関係ない」



　次の日。
　昼休みになって、紗那がオレにこういった。
「蘇王、屋上に行ってくれる？」
え？
「絵梨がね、話あるんだって」
　紗那は少しばかり表情を曇らせてそう言った。


　屋上に行くと、渡辺はすでに立っていて、俺に気づくと、少しだけ笑った。
「ごめんね、蘇王君。呼び出して」
「話って？」
　白々しくオレはそう答える。
　だけど、昨日の千寿の話で渡辺が何を言いたいのか、わかっていた。
　――告白。
　だけど、オレ。
　どう答えたらいい？
　渡辺は、俯いたオレに無理やりな笑顔を作って聞いてきた。
「昨日、バスケ部に来た人って、もしかして花岡えみる？」
　え？
　えみちゃんのこと？
「ごめん。このところ紗那の様子もおかしいし、昨日の夜紗那呼び出して、聞いちゃった。全部」
　ああ、だから紗那のヤツ。浮かない表情してたのか。
「悪いけど、誰にも言わないでくれないか。このこと」
「言わないよ。言わないけど…。彼女、花岡えみるが逃げ出した理由、聞いた？」
　混乱する頭で、オレは一生懸命思い出して答える。
「仕事が、忙しくて、それで―。
　何？これ」
　出されたのは週刊誌。
　表紙の大きな見出しを見て、オレは思わず目を見開く。そんなオレを確認してから、渡辺は言った。
「今日発売の週刊誌。
　蘇王君。
　あたし、ずっと蘇王君のこと好きだった。もちろん、蘇王君はそんな風にあたしのこと見てくれてないってのも、知ってた。
　だけど、あたし。やっぱり蘇王君が好き」
「オレ…」
　言葉が出てこなかった。
　渡辺の告白も、ごめん。ちゃんと聞こえてなかった。
　オレの全てが、週刊誌に見せられてたんだ。
　それに気づいたのか、渡辺はその週刊誌をオレに手渡した。
「だから、騙されないで欲しいの。
　あたしは、蘇王君が誰のファンでも構わない。
　でもね、アイドルはあくまでもアイドルなの。
　生身の人間じゃないの。
　そしてこれが、本当の彼女なのよ」



『天然ぶりっこアイドル・花岡えみるの真実！
　全ては計算だった』
　そう見出しに書かれた記事は、トップニュースとして取り上げられていた。
　記事はみっつのことを中心に書かれていた。
　ひとつめは、えみちゃんの抱える借金のこと。
　花岡えみるとしてデビューする前、えみちゃんは本名の「岡えみ子」としてデビューをした。でも、まったくの泣かず飛ばずの状態。ＣＤを自費出版として出 したが、全く売れず、当然その費用の回収もできないままにいたところ、今の事務所の社長に拾われた。そうして彼女が抱えた借金は、今の事務所の社長が肩代 わりをしたのだけれど、今もって彼女はその半分もまた支払えていないという。
　ふたつめは、年齢詐称。
　公表してるのは、１７歳だけど、本当は二十歳。洒落たバーでカクテルを飲む彼女の写真と一緒に記事が載っていた。
　そしてもう一つは、いわゆるスキャンダルだった。
　彼女は、一年ほど前に番組で共演したアーティストの眞田直純と、半年前からお互いの家を行き来する仲になった。ただ問題は、眞田は実は結婚をしていて、その奥さんがえみるちゃんの存在を知り、彼女を訴えるといい始めたことだった。
　借金返済の為に、社長の入れるスケジュールはますますタイトになり、恋人の奥さんからも精神的にも追い詰められたえみるちゃんは、そうして失踪した。
　それが、週刊誌に書かれた真実だった。