「蘇王くん」
　呼ばれて振り返ると、渡辺がいた。
　昼休みだから、昼寝でもしよっかって、屋上にいく途中の階段。
渡辺は少し、遠慮がちに聞いてきた。
「どうだった？週末の予定」
　週末？と頭に思い浮かべたところで、あっとオレは声を出した。
　やっべー。今週の土曜に渡辺からドリームワールドに行こうって誘われてたんだった…。
「…忘れてた、とか？」
　悲しそうな顔をして、渡辺が言う。
　いやっ、えと。
「悪い。あの、土曜試合があるんだ。バスケ部の」
　そういうと、更に渡辺が肩を落として、そう、と答えた。
　その目には、今にもこぼれそうなくらい、涙が溜まっている。
　世の中の多くの男がそうだと思うけど、オレも、女の子の涙って、弱いんだ。
「あのさ、だからさ、あの。日曜日でどうかな。日曜の１１時に、駅前。どう？」
　しかも、渡辺には、この前だって、えみるちゃんを助けるために、映画館に一人で置いてきたし、その後も、迷惑かけっぱなしだったし。
　オレが、慌ててそういうと、下を向いて、泣き出しそうだった渡辺が、顔を上げて、
「ほんとに？蘇王君」
と言った。
　うんうん、ほんとだから。
　マジだから。
　すると、渡辺は、今までの涙が嘘だったみたいに、とたんに笑顔に変わる。
「わかった。じゃあ、日曜の１１時に、駅前ね」
そう言って、弾むように階段を下りていった。
　ふー。よかったぁ。
　泣き出されたら、どうしようかと思った。
　大きく深呼吸をすると、屋上のドアが開いて、神楽と千寿が顔を出した。
「へぇ。モテモテじゃん。蘇王」
「これ以上泣かせるなよ、色男」
　うるさいっ、二人ともっ。
　だいたい、そのにやけた顔っ。
　オレをからかってるだけじゃんかっっ。


「おい、色男」
　ＳＨＲも終わって、これから部活って時に、ふいに千寿がそう言った。
　やめろってば、その呼び方。
「お前に客だ」
　そう言って千寿が指差した先には、よく練習を見に来る同じ一年の女の子たち三人がいた。
「話があるそうだ」
　何だろう、話って。
　オレは矢野に、練習に先に行ってもらうよう伝えて、彼女たちのところに向った。


　連れてこられたのは、体育館裏。
「話って？」
　そう切り出したオレに、一人が言う。
「蘇王君、渡辺絵梨とどういう関係？」
　へ？どういう関係って？
「つきあってるの？渡辺絵梨と」
　へ？つきあってる？
　オウム返しばかりしてるオレに、今度は別の子が言う。
「だって、今日。デートの約束してたじゃない」
　は？デート？
「だから、今度の日曜日って」
　そういわれて、オレはやっと理解した。
　理解した途端に、ほっとして笑顔になる。すると、なぜか彼女たちのほっぺたがちょっと赤くなった。
「つきあってないよ」
　すると、女の子たちは安心したのか、少し笑顔になる。だけど、一人だけ、険しい顔をした子が、さらに聞いてきた。
「じゃあなんで、今度デートするの？」
　すると、笑顔だった子たちまで、同じような険しい表情になる。
　オレ、やっぱり女の子って、笑顔のがいいと思うな。
　えみるちゃんみたいな、純真な笑顔。
　そんなことを思いながら、オレは答える。
「ああ。渡辺には貸しがあるんだ」
　すると、まるでドミノ倒しみたいに、皆がわらわらと笑顔に変わったんだ。
「そうなんだ」
「よかったぁ。安心した」
「蘇王君は、みんなの蘇王君だもんね」
「あたしたち、蘇王君のファンなの」
「今度の試合、頑張ってね」
「応援してるから」
　夕方のスズメみたいに、ピーチクパーチク早口にそう言って、彼女たちは、オレの前から消えてった。
　何だ？今の。
　呆然としてるオレの耳に、ダンダンッとボールの弾む音が聞こえた。
　やっべー。練習だ。
　慌てて表に出ようと角を曲がったとこで、オレの目に飛び込んできたのは、項垂れる渡辺と、隣でその肩を抱く紗那だった。
　あれ？
　紗那っては何やってんの？
　その瞬間、渡辺は紗那の手を振り払うと、突然逆の方向に走り始めた。
　慌てたのは、もちろん紗那で。
「あっ、絵梨っ、待ってよっ。
　蘇王っ、あんたねっ。覚えておきなさいよっ！」
　オレのことを思い切り睨みつけて、そして渡辺の後を追いかけていった。
　覚えておけって。
　オレって、何かしたの？


　その後、急いで着替えると、オレはバスケ部の練習に加わった。
　まだ体を慣らしてて、さてこれから練習って時だった。
　矢野のパスミスで、転がったボールを追いかけて、開け放たれたドアまで走っていたオレに、誰かが声をかけてきた。
「蘇王君」
　ボールを掴んで顔を上げたオレは、思わず大きな声をあげそうになる。
「えっ？えみ―」
　わわわ。
　えみるちゃん、なんて言ったらまずいっ。
　オレは慌ててドアの外に飛び出して、中の様子を伺いながら、えみるちゃんに小さな声で尋ねた。
「どうしたの？」
「来ちゃった」
　いや、来ちゃったって言われても。
　しかも、そんな笑顔されても…。
「やばいよ、ばれるよ」
「大丈夫よ。変装してるし」
　変装、つっても。
　帽子を深く被って、眼鏡してるだけじゃんか。
　そりゃ、ジーパン姿だから、パッと見はばれないかもしれないけどさ。
　でも、少なくとも、オレにはわかる。
　多分、同じく花岡えみるファンの富士川でも。
「ね、部活。いつ終わるの？」
「いつって…。あと二時間はかかるよ」
「二時間か…。ね、終わるの待っててもいい？」
　え？
　いや、まずいよ。
　絶対絶対、誰かに見つかるって！
　だけど、えみるちゃんは、お願いっとでもいうように、両手を合わせて言う。
「行きたいところがあるの。どうしても蘇王君と一緒に行きたいなって思って」
　え？と思った瞬間に、体育館から怒鳴り声が聞こえてきた。
「おい、火狩！」
　やべー。相楽さんだ。
「あ、ちょっと待ってて」
　オレはそういうと、慌てて体育館に戻る。相楽さんは、ちらりとえみるちゃんの方を見て言った。
「誰だ、あれ？」
　う、いや、実は…。
「ちょっと…知り合いで…。
　あの、相楽さん。…今日帰ってもいいっすか？」
「え？」
　相楽さんはびっくりして口をぽかんと開けた。
　確かに、練習はこれからで、しかも、週末には大事な試合が控えてる。
　おまけにオレは、レギュラー選手なのだ。
「明日もちゃんと来ますから。明日は本当だったら陸上部だけど、試合あるし、今はバスケ部優先にしてもらってるんで」
　５つの部を掛け持ちしてるオレは、基本的には一週間に一度だけ、それぞれの部の練習に参加する。
　だけどバスケ部は、大事な試合が近いからって、ここんところは優先にしてもらってるんだ。
　相楽さんは、渋い顔をしながらも、
「まぁ、わかった」
と、答えてくれた。オレは大きく頭を下げ、
「ありがとうございます」
そういうと、一目散に更衣室に向って行った。


　
　えみるちゃんに連れられてきたのは、話題のドリームワールドだった。
　オレは、えみるちゃんに着いていくがままに、彼女が乗りたいと言ったアトラクションに乗った。
　コーヒーカップから、海賊船。メリーゴーランド。
　それから、新しく出来たばっかりで話題のジェットコースタ―「ミラクルコースター」。
　こういうの苦手かな、なんて思ってたんだけど、意外にえみるちゃんは、笑顔でそれを乗りこなした。大きく口を開けて、体中で楽しんでたんだ。
　一通り遊び終わったところで、えみるちゃんは、ミラクルコースターを望む橋までくると、少し駆け出して、突然止まると、沈んでいく夕陽を見ながら言った。
「一度ね、ここに来てみたかったんだ」
　そうして、いきなり、あーっっ、と大声で叫んだ。
　同時にジェットコースターが目の前を駆け抜けて、えみるちゃんの叫びは、その音にかき消されていく。
　そうしてえみるちゃんは、一通り叫び終わると、くるりとオレの方を振り返った。
「こうして、思い切り叫んでみたかったの。
ありがとう、蘇王君」
　夕陽をバックに、えみるちゃんは今まで見たこともないような笑顔でオレにそういった。
「え？」
「すごく、感謝してる」
「いや、オレは…」
　実際何もしてなかったし。
　それに、何よりもオレは戸惑っていた。
　今までに、オレは何度もえみるちゃんの笑顔を見てた。
　テレビでも、雑誌でも、コンサートでも。
　だけど、今みたいな、そう安らかな笑顔は、見たことがなかったんだ。
　誰かの為でもなく、ただ本当に、楽しそうな笑顔って。
　だけど、次の瞬間、えみるちゃんの持っていた携帯が鳴り出した。えみるちゃんはびくっとすると、オレに背を向けて、携帯を鞄から取り出した。
　だけど、出ることもなく、ただ見てるだけで、ずっと携帯は鳴り響いている。
――どうかした？えみるちゃん。
　そう呼ぼうとして、オレは紗那の言葉を思い出す。
『本人がえみって呼んでくれって言ってるんだから、呼んであげればいいじゃん』
　まあ、そうだよな。
「どうかした？えみ…ちゃん」
　オレがそういうと、えみるちゃんは、びくっとして、慌てて携帯を切ると、鞄に入れた。
「ううん。なんでもない」
　肩越しに見えたえみるちゃんの顔が、すこし強張っているように見えたのは、オレの気のせいかな。
　その証拠に、えみるちゃんは振り返って再び笑顔に戻る。
「よかった」
　え？
「やっと、呼んでくれたえみって。
　蘇王君だけ、ずっと『えみるちゃん』って呼んでたから」
　そういうえみるちゃんに、オレはどう答えていいのかわからなくて、思わず黙り込む。だけど、えみるちゃんは、話を続けた。
「あたしね、ずっと蘇王君に聞きたいことがあったの」
　何だろう。
　顔を上げると、えみるちゃんは真剣な表情で、オレを見つめて言った。
「あたしと、花岡えみるって、どっちが必要かな」
　その表情は、オレが今までずっと応援してきた『花岡えみる』にはなかった表情で。
　オレは、なんて答えていいのかわからなかった。
「ごめん。変なこと聞いて」
　だんまりとしてしまった空気を、押し流すようにえみるちゃんがそう言う。
　それでも、オレは何も答えられなくて。
　えみるちゃんが、何を言いたいのかが、わからなくて。
　さらに黙り込むと、あたしね、とえみるちゃんが言った。
「花岡えみるファンの蘇王君に聞いてみたかったの。
　ぶりっこアイドルと、素のあたしと。どっちがいいのかなって。
　たまに、わからなくなるから。
　みんながどっちのあたしを必要としてくれてるのか。
　どっちのあたしの方が、生きる意味があるのか。
　昨日も、それがわからなくなって、今までの自分の笑顔忘れちゃって、それで蘇王君の部屋に行ったの。
　でも、ポスターの中で、笑ってる自分を見て、気づいたの。
　あたしは今まで嘘をついてきたんだって」
「それは、違う！」
　思わずオレがそういうと、えみるちゃんは驚いた表情をして、またまっすぐにオレを見つめた。
「オレは…。
　えみるちゃんの歌に、笑顔に、いつも励まされてきた。辛いときでも、えみるちゃんはいつも笑ってくれたし、それにオレは勇気付けられてきた。それは、本当のこと。ぜったい嘘なんかじゃない」
　きれいな言葉じゃなかったけど、それは本当のことだ。
　それから、これも、本当のこと。
「でも、今日、楽しかった。
　えみちゃんと、一緒に回る遊園地。すっげー楽しかったから。
　多分、花岡えみるちゃんとじゃ、こんなに楽しくなかったと思う」
　花岡えみるちゃんは、少なくとも、大口を開けて笑ったりしない。
　突然、無意味に叫んだりしない。
　今日一緒にいて楽しかった相手は、だから花岡えみるちゃんじゃないのだ。
「答えになってなくて、ごめん。その。オレ…」
　何を言いたいのか、
　そもそも自分が何を言ってるのか、わからなくなって、オレが言葉を詰まらせると、突然えみるちゃんが近づいてきた。
　え？っと思った瞬間、彼女は、唐突にオレに抱きついてきた。
「ありがとう」
　耳元で囁かれたその言葉。
　体に触れている細い体。
　漂ってくる甘い香り。
　オレは、彼女の腰に手を回すことも、
　その柔らかな髪をなでることもできず、
　ただ、そこに立ち尽くしていた。