「ふーっ」
　大きく深呼吸をして、オレは額の汗をＴシャツで拭う。
　今日のバスケ部の朝練は休みだ。
　だけど、矢野から誘われて、オレたちは自主練することにした。
　他に朝練をしてる部活もなくて、体育館にはオレと矢野二人だけだった。
　矢野は意外と真面目で、それにすごくバスケをすることが好きなんだ。
　一段落ついたところで、矢野が、
「オレ、ちょっと顔洗ってくるわ」
と言って、体育館を出て行った。
　オレはひとり、体育館にぽつんと残されて、大きく伸びをして、一息つく。


　えみるちゃんがやってきてから、もう一週間が経った。
　はじめは本当に、お客様って感じだったけど、今ではすっかり馴染んで、まるで葉月家の一員のようだった。
「ほら、紗那。朝ごはんよ」
「えぇー。太るから食べたくないよー」
「何言ってんの！食べなきゃダメよ」
「…はーい」
なんて会話を紗那と食卓でしているかと思えば、
「神楽君も、いつまで寝てるの？遅刻するわよ」
なんて一階から二階で寝てる神楽に向って大声上げていたり、
「はい、千寿くん。いつもの日経新聞。日経平均、すこしは戻ってきたみたいね」
なんて千寿とコウショウな会話をしたり、
「右近君。これ左近に上げて。いつもお昼ごろにすりよってきて、餌ねだられるから」
と右近にキャットフードを渡したり。
　まるでごくごく普通の人のように、そこにいた。
　だからなのか、こっちも、まるでごく普通の人のように、話をしてたんだ。
　そう、このオレをのぞいて。
「蘇王君っ」
　朝練で、一足早く家を出て行くオレを、えみるちゃんはそう玄関で引き止めた。
「試合、土曜日なんだって？がんばってね」
　だけれども、オレは、
「あ…、はい…」
なんて言葉を詰まらせながら、答えることしか出来なくて、挙句の果てには、
「そっそれっ、じゃっ、いっ行って来ます！」
とまあ、実際彼女の前から逃げ出すことしかできなかった。
　どうしてか、えみるちゃんと向かい合うと、オレはすっごく嬉しくて幸せな気持ちになるくせに、すごく恥かしくなって、まともに彼女の瞳を見ることができない。
　あー、もー、何でなんだろ。
　自分で自分がわからない。
　一体、どうしたってんだっ。
　ええい、畜生！
　オレは気合を入れると、勢いよくゴールに向ってドリブルを始めた。
　こうなったら、ダンクでも決めてやるっっ。
　誰もいない体育館に、ダンダンとリズムよく床を鳴らして、俺は全速力でコートを駆け抜けた。
　いけーっ。
　ボールをつかみ、大きく踏み込んでジャンプをしようとした時。
　突然ガタガタッという音がして、オレの目の前に何かが現れた。
　よく見ると、それはバスケットボールの入ったカゴだった。
「うっっ、わぁっ」
　まさしく飛び上がろうとした瞬間で、オレは利き足の右足をカゴにひっかける。
　やっべっ。
ものすごい音がしてカゴが倒れる。そしてボールが派手にコートを転がった。
「あぶなかった…」
オレはそんな景色を、バスケットゴールの横から眺めていた。
　ひゃー、危なかった。
　危うく足を捻るところだったぜ。
　慌てて例のパワーでもって、そのままゴールにまで飛び上がれたからよかったけど、普通の人間だったら、カゴと一緒に派手に転んでたなあぁ。
　ふぅ、と溜息をついていると、
「うわっ、どうしたんだよっ。蘇王っっ」
と戻ってきた矢野が、転がるボールと、はるかに高い場所にあるリングに座り込んでいるオレを見て、矢野が叫んだ。



『どうみても狙われてるとしか思えん』
　眼鏡の奥で千寿は目を光らせて、そう言う。
　一時間目の最中。
　そっかなぁ。
　たまたまだよ。
たまたま、カゴがコートに流れてきて、
そこでたまたまシュートをしようとしてたオレがいて。
『誰もいない体育館でか？』
　そりゃそうだけどぉ…。
『お前は油断しすぎなんだ。もっと用心しろ。御堂は必ずお前のことを狙ってるはずだ』
　そうかなぁ。
『だいたいお前は呑気すぎる。おまけにかなりの鈍感だ。いい加減気づけ』
　何をだよ。
『そのくらい自分で考えろ』
　チェッ。
　あ〜、なになに？
　授業中にこんな話をしたらばれるって？
　大丈夫。
　だって、千寿ってばオレにテレパシーで話しかけてるんだもん。
　どうやら天使ってのは覚醒すると、例のパワーが何倍にもなるらしい。
だから実際にしゃべってるのは、覚醒してないオレだけ−。
「こら火狩蘇王っ」
　うわっはい！
　呼ばれて思わず立ち上がると、黒板の前で、担任の石田がオレのことをにらみつけていた。
　バカ、と小さく小声で千寿は呟き、何事もなかったように、オレからすっと視線を逸らした。
「何一人でぶつくさ言ってんだ！しばらく廊下で立ってろ！！」
　前のほうでは、うなだれたオレを見て、紗那までもがクスクス笑ってる。
　そりゃねーだろ、千寿…。



　やっと鬼の石田の授業とお説教が終わって、オレは自分の席で溜息をついた。
「蘇王のバーカッ」
　紗那がそうからかおうとしてたけど、オレはまるで相手にする気無し。
　千寿ってば、最近いっつもそうなんだよな。
　オレのこと、鈍感、鈍感って。
　まあ敏感じゃないのは、認めるけど、言われるほど鈍感でもないとオレは思うんだけど…。
　そのとき、オレの肩を誰かがポンッと叩いた。
「蘇王っ」
　現れたのは、隣のクラスの富士川だった。
　富士川も、オレと同じでえみるちゃんの大ファン。お互いに情報交換する仲だ。
「ちょっと耳貸せよ」
　言われたオレが、素直に顔を近づけると、富士川は小声で耳打ちした。
「すっげーニュース！知ってっか。今、えみるちゃ−」
「ええっえっ？！」
　突然大声を上げたオレを、富士川は睨みつける。
「騒ぐなよ、蘇王。第一、まだ何も言ってないのに」
　だってお前がえみるちゃんは今、なんていうからさ。
　…てっきり、えみるちゃんがオレと一つ屋根の下で暮らしてることがばれたのかと思ってさ。
　だけど、そういうわけにもいかず、オレはすまん、とあやまった。
　富士川は、耳をさすりながら話し出した。
「最近、えみるちゃんをテレビで見ないと思わないか？」
「う…ん。そうだな。確かに」
　そういわれれば、ずっと葉月家にいて仕事してないわけだから、そうなるはずだ。
　でも、毎日顔をあわせているせいか、あまりそうは思わなかった。
「実は、昨日のヒットステージにも出る予定だったんだけど、急にキャンセルになったらしい」
　ヒットステージは、話題の歌を生放送している番組だ。
　キャンセルってまあ、そうだろうなぁ。
　だってその時間、えみるちゃんは葉月家で、洗物をしてたわけだから。
　富士川は神妙そうな顔で話を続ける。
「でな？オレが聞いた話なんだけど、どうやらえみるちゃんは入院したらしいんだ」
「ええ？」
「だからお前声がでかいって」
　わ、わりぃ。
　だって、えみるちゃんってば入院してたのか、なんて思っちまったから。
　すると、遠くのほうから
『馬鹿』
とつめたい声が頭に響いた。千寿だ。また例のテレパシーを使ってる。
『タレントが失踪したなんて、事務所が言えるわけないだろう。とりあえず、そう言って急遽出られなくなったことを説明してるんだ』
　あ、そっか。
　千寿ってば、頭いい。
　すると、頭の中にまで、千寿の深い溜息が聞こえてきた。
「大丈夫かなぁ、えみるちゃん。
どこの病院かわかればなぁ、オレ絶対っ忍び込んでお見舞いに行くのに」
　そ、そう、だなぁ。
　しどろもどろに答えると、富士川は妙にオレをまじまじと見つめだした。
「何か、お前ノリ悪くねぇ？」
　そ、そんなこた、ないよ。
「…まあいいけど。で、お前、土曜空いてる？」
　土曜？
　残念っ、バスケ部の試合で行けないや。
　けど、どうして？
　すると、富士川は、さらにオレの耳元に顔を近づけた。
「ここだけの話。…ドリームワールドに新しいアトラクションが出来ただろう？」
ああ。
　そういえば、その話、この前も聞いた。
　すっげぇ話題なんだなぁ。
「で、それを記念して、えみるちゃんがシークレットライブをやるんだ」
「えええっ」
　思わず大声を上げると、クラス中がシーンと静まり返って、全員がオレを見ていた。
「だからっ、声がでかすぎだってば」
ご、ごめん。
土曜日に、えみるちゃんのライブぅ？
でも、今えみるちゃんは、逃げ出して、葉月家にいるってのに？
「オレの親戚があそこで働いててさ、何とかチケット取れそうだからさ。
お前も行くかと思ったけど、バスケの試合じゃしょうがねぇか。
　ま、ライブは夜の7時からだから、来れたら来いよ」
　富士川はニヤリと笑ってそういった。



　バスケの練習を終えて、腹をすかせて葉月家に戻ってくると、いつにもましていい匂いだ。
「あら、蘇王君。お帰りなさい。晩ごはん、今日はすき焼きにしたから、早く着替えて下りてらっしゃい」
　そういうおばさんの手元には、美味しそうな鍋がある。
　すっげーうまそう！！
　すぐ下りてくるから、待ってて！！
　オレは練習の疲れも忘れて、自分の部屋を目指す。
　ここ最近、大好物ばっかりなのは、日ごろのオレの行いがいいおかげ？
　神楽も千寿もまだ帰ってきてないし、さっさとオレが肉全部たいらげちゃおーっと。
　スキップしながら階段を上ると、オレの部屋のドアが少しだけ開いてる。
　誰だ？
　神楽？
　千寿？
　それとも…？
　そっとドアをのぞきこむと、ちょうど中からえみるちゃんの声が聞こえてきたところだった。
「…終わったことでしょう。もう」
　凛とした声。
　でも、どこか悲しそうだった。
「さよなら」
　携帯を切ったえみるちゃんが振り返るタイミングと、オレが顔を上げるタイミングがちょうど合って、オレたちは見事に顔をあわせた。
「蘇王君…」
「えみるちゃん…」
　あんまりにもびっくりした顔をえみるちゃんがしたから、オレは思わず自分の部屋なのに、ごめんなさいと頭を下げて出て行きそうになった。オレなんかが聞いちゃいけないような話だと思ったから。
だけど、その前に、えみるちゃんが頭を下げる。
「ごめんなさい。勝手に部屋に入って」
「いや…」
　そして、お互い黙り込む。
　もちろん、オレだって気の利くセリフの一つでもって思う。
　でも、何もいえなかった。
　いえないままに、逆にえみるちゃんから口を開いた。
「本当にすごくファンなのね、蘇王君って。花岡えみるの。
だってこれ、デビューしたての頃のでしょう」
　えみるちゃんが指したポスターは、まさしくデビュー曲のポスターで、オレは小さく頷いた。それが合図になったように、オレは自分の部屋に、ひっそりと入る。
うん、と答えると、「どうして？」とえみるちゃんが聞き返してきた。
「どうして？花岡えみるのファンになったの？」
　どうしてって･･･。
　本人に聞かれるなんて思ってもなかった。
　でも、その理由は、オレにとっても忘れられないことだったから、ゆっくりゆっくり、その話をすることにした。

それは昔。
　太陽は、実は西から昇っていた。
　そう言われたのと同じくらい、びっくりすることがあって。
今まで信じてきたものを、すべて裏切られた気持ちになった。
どこにも居場所はなくて、
でもどこにも行きたくなくて、
どうしていいかわからなかったから、
ただ街を歩いてた。フラフラと。
何も聞こえてこなかった。
何も見たくなかった。
それは何も考えたくなかったから。
でもそんなオレを止める声が聞こえた。
それは、歌声で、テレビから流れてきていて。
　澄んだ歌声と、
　明るい笑顔。
　それが、デビューしたての花岡えみるちゃんだった。
「それでオレ、頑張ろうって思ったんだ」
　小さなことからでもいいから、信じてみればいいんじゃないかって。
　それは、彼女を応援することからはじめても、いいんじゃないかって。
　それからオレは、彼女のデビュー曲を買った。
　彼女が載っている雑誌も買った。
　彼女を知ろうとすればするほど、彼女の人気も上がった。
　それは彼女の笑顔に、オレみたいに勇気付けられるヤツも多かったということで、そんなことにオレは意味もなく嬉しく思えたんだ。
　一通り話し終わると、えみるちゃんは深刻そうな顔をしてオレの名前を呼んだ。
「蘇王君…」
　そうして、何かを決めたように顔をあげて、オレを見つめた。
「あのね、わたし−」
「蘇王っ、ご飯できたよ！！」
　えみるちゃんが何かを言いかけたと同時に、ノックもなくドアが開いて、紗那が大声を上げて部屋に入ってきた。
「あれ？えみ？」
　だけど、えみるちゃんを見つけて、びっくりした表情で、彼女とオレを順番に見つめた。
「え…。えぇっとぉ…」
　言葉をなくした紗那に、えみるちゃんが笑顔でその場の雰囲気を和ませた。
「ご飯できたんだ。じゃ、下に行って早く食べないとっ。ね、紗那」
「う…うん…」
　そういってえみるちゃんは紗那の背中を押して、ドアに向って歩き出した。
ただ、オレとすれ違う時に、
「ごめんね、なんでもないから」
という言葉を残して。



　その日のすき焼きの味を、オレは覚えてない。
『なんでもない』
　えみるちゃんはそういったけど、でもあの時の真剣なえみるちゃんの顔を思い出すと、なんでもないはずがなくて。
　だけど、食卓でご飯を食べてるときのえみるちゃんは、今までのえみるちゃんと同じで笑顔で、気配り上手で。
　だからオレは戸惑っていた。
　どっちのえみるちゃんを信じたらいいかわからなくて。
「はぁー」
　どっぷり深い溜息を、オレは泡だらけの食器を前にしてついた。
　今日は、オレが皿洗い当番。
　目の前には皿の山。
　だけど全然、オレの皿洗いは進んでいかない…。
そうこうしてると、紗那がお皿を持って台所にやってきた。
「どう？蘇王。今日のすき焼きおいしかった？」
　あー、うん。
「お母さん張り切って作ったんだよ」
　あー、うん。
「何よ。今日の蘇王ってば、変なの」
　あー、うん。
　それを聞いた紗那は、大きく溜息をつくと、流しっぱなしだった水を止めて、オレの顔をのぞきこんだ。
「ね、蘇王。なんてえみのこと、えみるちゃんって呼ぶの？」
　なんでって…。
　だって、えみるちゃんはえみるちゃんだろう。
「そうだけどさ、本人がえみって呼んでくれって言ってるんだから、呼んであげればいいじゃん」
　そりゃ、そうかもしれないけど…。
　すると紗那は、
「まったく蘇王ってば、本当にバカね」
　と言った。思わずムッとしたオレが、
「何がだよ」
と聞くと、あっかんべーと舌を出して、
「なんでもないわよ。お休み」
と台所を出て行った。


　オレのことを鈍感だという神楽と千寿。
　バカって言う紗那。
　意味深なえみるちゃん。
　天使に覚醒しろという高未。
　再婚しようとする親父。
　見知らぬ誰かの嫌がらせ。
　オレの小さな脳みそじゃ抱えきれないくらいの悩み事が、一気に押し寄せてきてる。
　パンク寸前。
　神様、オレを助けてください。