次の日もバスケ部の朝練はあった。
　バッシュ履いて、ヒモをぎゅっと結んで、オレは気合を入れる。
　うしっ、今日も頑張るぞ！
　でも、そう思って起き上がった途端に、オレは大きな声を上げた。
「ってぇっっ」
　何だコレ。
　親指にちくりとした痛みがはしる。
　慌ててバッシュを脱ぐと、親指の裏から血がにじみ出ていて、少し腫れ上がっていた。
バッシュの裏を見ると、小さな釘が、打ち込まれている。
釘…。
どうして？
「どうした、火狩」
　床に座り込んだまま、バッシュとにらめっこしていると、相楽さんがそう声をかけてきた。
「何でも、ないっす…」
　昨日は何もなかったし、どっかで、オレってば釘を踏んづけたのかもなぁ。
　気をつけようっと。
　釘を抜いて、ゴミ箱に投げる。
「おーい、蘇王っ。来いよっ」
　コートでは矢野がボールを持ってオレを呼んでいた。
「おうっ、すぐ行くっ」
　そうオレが答えたとき、またあの突き刺すような視線を感じた。
　誰だ？
　でも、その視線はほんの数秒だけで、すぐにその緊張感はなくなった。
　何だろう。
　そう思ったけど、すぐに練習が始まると、オレは全部を忘れて、バスケに集中した。



「あててて…」
　トイレに行こうと勢いよく立ち上がったところで、親指が痛んだ。
　ちょっと顔をしかめただけなのに、高未が
「蘇王君、もしかして怪我したの？」
と聞き返してくる。
「いんや。実はさ―」
　オレはそのまま今朝のことを話した。
　こういうことはよくあるし、大したことじゃないよ。
　そう思ってたオレだけど、高未はそうは思わなかった。
「もしかして、御堂の仕業じゃない？
　だって、覚醒してないのって、蘇王君だけでしょう？」
　そりゃそうだけど、でももう一人いるんだろ？
　見つかってもない相手が。
　そのために、榊たちが、今も探しに出ているのだ。
「そうよ。だから、シャドーが次に狙ってくるのは、蘇王君なのよ」
　シャドーというのは、天使になるために、倒さなければならない自分の分身のようなもの、らしい。
　しかもやっかいなことに、シャドー自身は、分身ではなく本物、つまりオレに成り代わろうとしていて、オレを狙っているという。
　そのシャドーの親玉が、御堂なのだ。
「でも、オレの周りに怪しいやつ、いないよ」
　神楽のときも、右近のときも、そして千寿のときも。
　シャドーは、見知らぬヤツだった。
「ってかそれって、蘇王が間抜けだからじゃないの？」
　なんだと？紗那。
「だって、蘇王ってば、鈍感じゃん。あんたが気づいてないだけじゃない？」
「それは確かに、無きにしも非ず」
　おいっ千寿までっ。
　ゲラゲラ笑う神楽の隣で、でも、と高未が真面目な顔で言った。
「でもね、紗那。蘇王君。
残念ながら、怪しい人が、シャドーとはかぎらないのよ」
「え？」
　いきなり高未がそういう。
　どういうこと？
　オレたちが高未を見つめると、
「榊ってば話してないのね」
と溜息交じりの返事が聞こえた。
「シャドーは、自分の知ってる人に乗り移ることもあるってこと」
「まじかよ？」
　声をあげたのは神楽だ。
「ええ」
　しずかに高未はうなづいた後、ぽつりと、
「貴羽のシャドーは、弟だったそうよ」
と言った。
　貴羽もオレたちの仲間で、天使に覚醒した一人だ。
　どことなく、人を近づけないような雰囲気があって、オレは苦手だったりするんだけど、神楽は結構気に入ってるみたい。
　だけど、弟がシャドーになったってことは、貴羽が覚醒してるってことは、貴羽は弟を倒したということになるんじゃ…。
「キツいな」
　千寿がそう呟いた。
　高未は、そうね、と呟いて、大きく深呼吸をする。
「どんな人間にも、シャドーになってしまうような、暗くて卑しくて、惨めな部分を持っているってことよ」
　それでも高未は顔をあげて、重たくなった空気を少しでも軽くするように、明るい声を出して言った。
「とにかく、蘇王君は、身辺には十分注意すること。わかったわね」
　と言ってもなぁ･･･。
「あ。忘れてた」
　小さくそう呟くと、みんながテーブルに身を乗り出してオレの顔を覗きこんだ。
「何？どうかしたの？蘇王」
「やっぱりいたのか、不審者が」
「気をつけろ、そいつがシャドーに違いない」
　いやいや。そうじゃなくて。
「オレ、トイレ行こうとしてたんだった」
　その途中で高未につかまったんだったよ。
　あぶねーあぶねー。
　大きな溜息が聞こえたけど、オレはそのままリビングを出た。


　トイレのドアに手を伸ばしたところで、ふいに誰かの気配を感じて、オレは顔を上げた。
ちょうどお風呂場の前のところで、湯上りで、頭にタオルを巻いたえみるちゃんがいる。
「えみるちゃん？」
　だけどえみるちゃんの顔は険しくて、まるで冷たい人形のようで、そんなえみるちゃんにオレはどきっとした。
　どうしたんだろう？
　あ、まさかっ！
「えみるちゃん…。もしかして、今の話…」
　聞いちゃったとか？
　げげっ、まずい。
　オレはいろんなことを頭の中で考えた。
　天使であるという意味、覚醒すること、シャドーという存在。
　でも、どれもうまく言葉にできなくて、言い訳すらできなかった。
　こんなとき、千寿なら、うまい具合に言い訳するし、
　神楽だったら、うまい具合に話をそらせるのに。
　戸惑っていると、えみるちゃんがふいに呟いた。
「そうかもしれない。どんな人にも、暗くて卑しくて、惨めなものを持ってるって」
　それは今までみたことがない、えみるちゃんの表情だった。
　えみるちゃん？
「どうか…、した？」
　大丈夫？というようにオレが聞くと、えみるちゃんはいつもの笑顔に戻って、
「ごめん、蘇王君。なんでもない」
と答えた。



　昼休みの屋上。
いつものように紗那が持ってきてくれた三人分の弁当を広げて、オレは思わず声をあげた。
「うわっ、うまそーっ。
　すっげーな、おばさん。天才だよ」
　から揚げに、卵焼きに、タコ足ウインナー。
　神楽の母ちゃんの紅子さんは、お菓子の達人だったけど、紗那の母ちゃんは、料理の鉄人だ。
　オレたちが紗那の家に居候してるってことは、実は学校には内緒にしてるから、いつもお昼の時間は、こうして屋上に集まって、配給のように渡される紗那の母ちゃんお手製の弁当を待ってる。
　いっただっきまーすっ。
　から揚げを箸でつかもうとしたときに、紗那が突然言った。
「残念でした、今日はえみお手製のお弁当でーすっ」
　から揚げまであと３センチ。
オレは思わず箸を止めた。
　えみるちゃんの、てっ、てっ、手作りだぁ？
　そんなオレの隣から、神楽が手を出す。
「へぇー。料理上手なんだな。
　でも、実際はまずかったりして―」
　おい待てっ、神楽っ。
　だけど、神楽はオレの止める手をよけて、卵焼きを取ると、ぱくっと食べた。
　ああっ。
　えみるちゃんの手作りがっっ。
　みんなが見守る前中で、神楽はもぐもぐと口を動かして、ぽつりと呟いた。
「…うまい」
　その真面目な顔に、つられるようにオレも千寿も弁当に手を出した。
　オレは、から揚げを食べる。
　･･･確かに、うまい。
　びっくりしているオレたちを見て、紗那はまるで自分がつくったように、えへんと胸をはって答えた。
「すごいんだよ、えみってば。掃除や洗濯も上手なんだって。お母さん、手伝ってくれて助かるって言ってた」
　ほえーと感心するオレの隣で、千寿が真面目腐った顔で言う。
「いい嫁になれるな」
　うん、本当に。
　お嫁さんにしたいナンバー１だ。
　オレは、もう一度、から揚げの味をかみしめた。なんだか急に、心臓がバクバクしてきたのは、気のせいかなぁ。
　神楽はそんなオレに気づくことなく、ニヤリと笑うと、紗那に向って、
「おばさんも、紗那よりもよっぽどいい娘になると思ってんじゃねぇか？」
と言う。
「うるっさいわねっ、神楽！」
　そしていつものごとく、追いかけっこが始まる。
「相変わらずだな、あいつら」
　ぽつりと千寿が呟いていたけど、オレは小さく、あぁとしか答えられなかった。



　一通り、神楽を追いかけた紗那が屋上から出て行った。
　弁当を食べつくしたオレたちは、神楽を真ん中に川の字に寝っころがって、綺麗な青空を見ていた。
　そういえば、こんな風にして寝てるのなんて、いつぶりだろう。
　小学生の頃かな。
　紅子さんがいた頃は、オレたちはいつもこういう風にして寝ていた。いつも一緒で、毎晩遅くまでオレたちはくだらない話をして、過ごした。翌日みんなして見事に寝坊をして、紅子さんに怒られても、それが、すごく、楽しかったんだ。
　あの頃と変わらないように、蘇王、と神楽がオレの名前を呼ぶ。
「オレ、昔お前に聞いたよな。花岡えみるって、そんなにいい女かって」
「え？ああ」
　そういえば、そんなこと、あったなぁ。
　オレが部屋でえみるちゃんのＣＤ聞いてたときに、ふらりとやってきた神楽が、本当に呆れたように言ったんだ。
「あれ、無し」
「へ？」
　横にいる神楽を見ると、大きく深呼吸をして空を見たままで答えた。
「あいつ来てから、聞いてみたんだ。花岡えみるの歌。Be naturalってやつ。結構いいなと思ってさ」
　それは、えみるちゃん初のバラードだ。
　報われない片思いの相手を思い続ける曲で、初めてえみるちゃんが作詞をした曲。
　でも、ＣＤはイマイチ売れなくて、結局彼女にとって、最初で最後の作詞の曲に今のところなってしまってる。
　まーだけど、と神楽は笑った。
「他のは全然イケてないけど」
「何だよっ、それっ」
　立ち上がって掴みかかるように言うと、神楽も体を半分起こした。でも、別に怒ってる顔じゃなくて、笑顔で答えた。
「まーまー、落ち着けよ、蘇王。だからさ、オレたち一人の女を取り合わずにすんでるんじゃん。
　お前は、アイドル好きで、千寿はロリコンで、オレは？まあ、マダムキラーだから？」
　すると、神楽の向こう側で、千寿の鋭い声が聞こえてきた。
「人のことロリコンというな」
「だって本当なんだからしゃーねぇだろう、千寿」
「俺は、杏のことを女としてみたことは一度もない」
「ほぉー。今のセリフ、あのガキに聞かせてもいいのかよ」
　うっ、と思わず千寿が言葉を詰まらせる。
　そして苦々しそうに神楽をにらみつけた。そんな千寿に、神楽はゲラゲラと笑い声を上げる。
「あーおもしれっ」
「くそっ神楽。覚えてろよ」
「まあまあ、千寿。落ち着けって」
「黙れ、蘇王」
　屋上に、オレたちの明るい笑い声が久々に響き渡った。



　その日も、バスケ部の練習で、オレはＳＨＲが終わった瞬間、矢野と一緒に教室を飛び出した。
　今日は、練習前の部室の掃除当番なんだっ。
「待って、蘇王君」
　呼ばれて振り返ると、渡辺が立っている。
　どうした？渡辺。
「うん。あのね。･･･この前、ドリームワールドに、新しいジェットコースター出来たんだって」
　ドリームワールドは、近所の遊園地だ。
　へえ、新しいジェットコースター。なんか楽しそうだなぁ。
「それでね。今度。今度、蘇王君と一緒に行けたらなあと思って。
　この前の映画も、結局一緒に見れなかったし。どうかな、来週の土曜日とか」
　来週の土曜？
　うーん、どこかのクラブの練習が入ってたような気がするけど･･･。どうだったかな。
「おい蘇王っ。早く行こうぜっ」
　少し先を走っていた矢野が、オレに声をかける。
　あ、そうだった。
「ごめん、渡辺。予定きいてから、返事する。でもいい？」
　渡辺は、ちょっとびっくりした表情をしてから、少し赤くなった顔で、うん、と答えてくれた。



　その日の練習では、何事もなかった。
　やっぱり、この前のことも、別にシャドーが狙ってるわけじゃないんじゃないか。
　もともと能天気なオレは、そんな風に思いはじめていた。
　バスケの練習で、遅くに帰ってくると、神楽と千寿がご飯を食べていて、紗那もリビングでテレビと見ているところだった。
　いただきまーすと言って、今日の夕飯のハンバーグをオレは食べる。
　練習がハードだったから、すっげー腹が減っていて、オレは何も言わずにご飯を口の中に放り込んでいた。
「へぇ、ドリームワールドに、新しいジェットコースターが出来たんだ」
　ソファーでニュースを見ていた紗那がふとテレビを見てそう言った。
　あれ？
　そういや、同じこと、今日誰かに言われたような。
「どうかしたか？蘇王」
　ふとご飯を食べる手を止めたオレに、千寿がそう話しかけた。
　何か今日、誰かが紗那と同じこと言ってたような気がしてさ。
　すると紗那が振り返って、オレをにらむ。
「誰かじゃなくて、絵梨でしょ？蘇王」
　あ、そっか。渡辺か。
　忘れてた、やっべー。
「まったく、あんたってばね。いい加減にしなさいよっ」
　紗那は立ち上がると、オレの前に仁王立ちになって鼻息を荒くする。
「今日言われたでしょ？放課後の廊下でっっ」
　そうそう、思い出した。
　来週の土曜とか言われたんだ。
「すーおーっ」
　紗那が拳を震わせて、まさにオレに振り下ろそうとしたとき、
「おい」
と涼しい声がリビングに響いた。
「あ、右近」
　顔を出してきたのは、まさしく右近で、オレのその一声に、紗那はぴたっと動きを止めると、すっげー笑顔になってふりかえる。
「どうしたの？右近」
「風呂、空いた」
「わかった。すぐに入るっっ」
　そしてそのままウキウキしたステップで、紗那はリビングを出て行った。
　ふー、助かった。
　サンキュー、右近。
　大きく深呼吸をすると、隣で千寿が呆れたように言った。
「お前さ、気づいていないのか？」
　え？何が。
「渡辺のことだよ」
　渡辺？
　気づいていないって何か？
　何か、変わったところあったっけ？
「そうじゃない…」
　千寿の溜息に続くように、神楽が手を止めた。
「お前ってホント、女心をわかってねぇよな」
　え？
「ま、そっか。
ダメだ、千寿。
　今の蘇王には、えみしか見てねぇから」
　オレが話の意味を知る前に、神楽はそういうと、千寿も腕組みをして、深くうなづく。
「なるほど」
そんなことないっ。
えみるちゃんの話じゃなくて、今のは何の話をしてんだよ、千寿ってば。
　だけど、千寿はそんなオレを無視して二人して会話を続ける。
「だが、そのわりに、あまり会話しない上に、顔すらあわせない」
　だーからっ、えみるちゃんは関係ねぇだろっ。
　今は、渡辺の話をしているわけでさ。
　神楽なんかは、オレに持っていたフォークを突きつけて言った。
「意識しすぎちゃってさ、お前ダメなんだろう。
　まったく、小学生の初恋じゃあるまいし」
　違う！
　そう言いたかったけど、なぜだかオレは一言も返せなくて。
　代わりに千寿が、
「…お前がそういうか」
と小さく呟いていた。