すっげー、寝不足。
オレは、ぼーっとしてる頭で、まだ早くて人気のない学校の門をくぐる。
　今日はバスケ部の朝練の日。だから、これから動かなきゃいけないわけだけど、どうも体が重いのは、寝不足のせいだと思う。
　その寝不足の原因は、昨日葉月家にやってきたローマの休日のアン王女ならぬ、えみるちゃんだ。


　偶然から、葉月家の居候になることになった超人気アイドルの花岡えみるちゃんは、やっぱりどこにいても注目の的で、だから何でも問題になった。

　まずは、えみるちゃんの泊まる部屋について。
　初めに口を開いたのは、神楽だ。
「いいじゃん、二階のリビングで。まあ俺の部屋でもいいけど」
　ダメダメダメだっ！
　絶対そんなのダメッ！
「そうよっ、神楽の部屋なんて、襲ってくださいっていってるようなもんじゃないの！」
「おい紗那っ、なんだその言い方はっ。つーか、蘇王まで頷いてんじゃねぇよ」
　悪いが今の紗那の意見、オレも大賛成っっ。
　オレをジロリと睨む神楽の隣で、紗那が妙な笑顔で話す。
「だからね、あたしの部屋にえみが泊まればいいのよ。代わりにあたしが、２階に行くから」
　ん？なんかおかしくないか？
　見透かしたように、千寿が眼鏡を上げて言う。
「お前そんな言い方して、右近の部屋に入るつもりだろう」
「夜這いかよ」
「ちょっと千寿っ！神楽っ！うっうら若き乙女に、ななな何てこと言うのよっ！」
　といいつつ、紗那の本当のことをいわれるとどもる癖が、出てる。
　溜息をついて、千寿が言う。
「部屋が空いてないんだから、誰かが押し出されるしかないな」
「部屋が一番綺麗なのって…」
　みんなの視線は一人に向う。
　荷物も少なくて、簡単に移動できそうな奴といえば…。
「右近？」
　部屋の片隅で、無関係な表情をしていた右近が、少し驚いたように表情を動かしたとき、
「ニャー」
と大きな鳴き声がした。
　右近の飼い猫、左近だ。その左近がフーッと俺たちを威嚇してる。
「…反対だって、左近が」
「そうだな、右近の部屋はもう定員の二名だし」
「つーかさ、普通に紗那の部屋にすべきだろ。普通に」
　もっともなことを、最後に神楽が言って、とりあえず部屋問題は終わった。

　次は、お風呂。
「ありがとう。いいお風呂でした」
　すっぴんのえみるちゃんが、パジャマ姿でリビングに顔を出す。
　石鹸の香りが漂ってきそうなそのさわやかな雰囲気は、テレビと同じだ。
　まともに目が合って、オレはどきどきする。
「ああ、いや。うん」
　そうこうしてるうちに、えみるちゃんは紗那の部屋に戻っていく。
「何どもってんだ、蘇王」
　千寿がぴしゃりと俺に言う。
　だってさぁ…。
　そんなオレの隣で、神楽がぴゅうっと口笛を吹いて言う。
「やっぱいいなぁ。あの紗那のババくせーパジャマでも、着る女が違うとこうも違うのな」
「なんですってぇ!」
　思わず紗那が立ち上がったけど、神楽はさらりとかわした。
「そんじゃ、風呂でもはいっかな」
ちょっと待て、神楽！
「何だよ、蘇王」
　お前はダメっ。
「何でだよ」
「…何でもだよっ」
　えみるちゃんの後のお風呂なんてっ、絶対絶対お前はダメ！！

　とまあ、あれからずっとこんな感じで、えみるちゃんファンのオレとしては、あらゆる魔の手から彼女を守る役目を授かったっつーことで、夜もゆっくり眠れなかったのだ。
　男のオレからいうのもなんだけど、神楽って女にモテるし、神楽自身もそれを知っていて、女の子と遊ぶのは大好きだし、でもなんといっても相手はあのえみるちゃんなのだ。
　純情可憐なえみるちゃんを、神楽の魔の手からは、オレが守ってやらないと！
　それに、右近の為なら何を犠牲にしても構わないっつー紗那も、なかなかのツワモノだしっ。
　そんなわけで、いつも八時間は眠るオレが、今日は二時間も寝てないんだ。
　もちろん、同じ家にあのえみるちゃんが眠っているという緊張感もあったけど…。
大きく欠伸しながら、体育館に行くと、中でストレッチしてた矢野がとびついてきた。
　矢野はクラスメートでもあるし、オレを熱心にバスケ部に誘ってくれた友達だ。
「久しぶりだな、こうやって蘇王と練習するの」
　そっかぁ？
　まあ、最近はサッカー部が試合だったからそっちに参加してたからな。
　その前は、陸上部が試合で、その前は柔道部、その前は…。
「相変わらずすげーよな。蘇王。５つも部をかけもちしてんだから」
　ただ５人の部長がみんな、うちにきてくれって言うから、全部に入ってるってだけだよ。
「しかも、どこの部でもエース級だろう？うちも今度試合だけど、蘇王が出てくれるんなら、鬼に金棒だな」
「おう、頑張ろうな。お互い」
　オレたちがそう握手をしたところで、部長の相楽さんがピーッと笛を鳴らした。
「集合」
　瞬く間に、コートの隅に人が集まってくる。
　そして、誰もが真剣な表情で、じっと相楽さんの言葉に耳を傾けている。どうやら試合の先発メンバーの発表らしい。
「今度の試合のメンバーを発表する。ガードは―」
　次々とスターティングメンバー四名の名前が呼ばれる。
　それにしても、いつもよりみんな気合が入ってるな。
　空気がぴりぴりしてる。
「そりゃそうだよ。特に三年生は引退がかかってるからさ」
　ふーん。そうなんだ。
　オレと矢野が話をしていると、最後の一名の前に、わざとらしく相楽さんが咳払いをした。
「最後、フォワードに火狩蘇王」
　隣で矢野がはしゃいだ声で言う。
「すっげーな、一年でお前だけだぞ、蘇王」
　そうなんだ。
　するとまた相楽さんが咳払いをした。
「頼んだぞ、火狩」
「はい」
　そう返事をした途端、どこからか冷たく刺さるような視線を感じたけど、すぐにオレは矢野たちにもみくちゃにされて、それがどこから向けられたのかわからなかった。



「ただいま」
　練習が終わって帰ってくると、一階のリビングで一人千寿が電話をしていた。
　食卓にはおばさんから町内会の集まりがあるから、晩ごはんを先に食べていいというメモと、ラップで包まれた美味しそうなロールキャベツが二人分置いてある。
　三人分食べたあとがあって、席からすると、千寿と右近、紗那とえみるちゃんみたいだった。右近はいつもと同じで部屋に引きこもったんだろう。
　残ってるのは、オレと神楽の分か。
紗那とえみるちゃんは、わからないけれど、どうやら一階にいるのは、オレと千寿だけみたいだった。
台所で手を洗ってると、千寿の声が自然と聞こえてくる。
　その話し方で、電話の相手がアメリカにいる親父だとわかる。
　千寿は親父と話すとき、いつも敬語だ。それは小さいときから変わらない。
　オレと神楽と千寿は、親父の息子だけど、母親は全員違う。
　親父の奥さんは、神楽の母ちゃんの紅子サンだけど、オレの母ちゃんも千寿の母ちゃんも、いわゆる愛人だ。
　オレは、気づいたときには、自分の家が他の普通の家と違うことは知っていた。母ちゃんがきちんと説明してくれたんだ。もっとも、その意味が何となくわかったのは、小学校一年生の頃、母ちゃんが結婚することになった時だったけど。
　その頃ちょうど千寿の母ちゃんが死んで、千寿が火狩家に引き取られることが決まっていて、親父は母ちゃんにもオレを引き取ると言ってきた。
　でも母ちゃんも新しい親父も、オレのことは引き取りたいと言って、結局オレが決めることになった。
そしてオレは、火狩の家に行くことに決めた。
　理由は、火狩の家で食べたお菓子がすっげーおいしかったってのもあるけど、神楽と千寿と一緒の生活がすっげー楽しそうだったから。
　今でも母ちゃんとは会うし、向こうの家にも行くけど、オレは火狩の家に来たことが大正解だと思ってる。
「それじゃ、失礼します」
　いつもの渋い顔をして、千寿が電話を切る。
「親父、元気だった？」
　ワンテンポ遅れて、千寿は「ああ」と答えた。
　その眉間にばっちり皺をよせている。
　千寿ってば、いっつもそう。
　オレと違って、頭がいいから、いろんなことを考えまくっていて、いつも小難しい顔をしてる。
　でも、今回は、オレもその原因がわかる。
「やっぱり、反対しようかな」
ジロリ、と千寿がオレを睨むように見る。
「だってさ、いくらなんでもひどいよ。それに、神楽がかわいそうだろう？」
　リビングには、オレたちしかいなくて、だけどさっきから千寿は何も言わない。
　オレの声がいっそう響いた。
「だって、香苗先生は神楽の初恋の人なんだぜ。
　神楽が家出してたのを、先生が連れ戻してきて。神楽だって、そんな先生のためにやり直した。先生は、それを知ってたんだ、神楽の気持ち知ってたんだ、なのに親父とっ―」
「蘇王」
　千寿がものすごい顔つきで、オレを睨みつけた。
　そして、ヒートアップしてるオレと、まるで正反対の冷たい表情で淡々と語る。
「神楽に言うなよ。そういうこと」
　絶対に、言うな。
　千寿はそう言って、階段を上がっていった。



　息子のオレがいうのもなんだけど、親父は神楽と一緒でモテるタイプだ。
　神楽の母ちゃん・紅子さん（と呼ばないと、オレたちはいつもグーで頭を叩かれた）と結婚してたときも、その紅子さんが死んでからも、いつもどこかに女の匂いのするタイプだった。
　だけど、あからさまに女の人を家に連れてくることもなかったその親父が、この前再婚すると言ってきた。
　相手は、名倉香苗先生。
　オレたちの中学のときの先生だ。
　ただ、神楽にとっては、それ以上の存在だった。
　中学二年生の時、紅子さんが死んでから、神楽は荒れた。家出を繰り返していたし、喧嘩もいっぱいして、何回も補導された。
　親父も、オレたちですら手出しできない、そんな神楽を連れ戻したのが、香苗先生だった。
　神楽は、先生のことが好きだったから、帰ってきたんだ。
　―でも、先生はそんな神楽を裏切った。

　親父と先生は、神楽を通じて出会い、こっそりと付き合っていた。
　オレたちにそれがばれたとき、二人は別れた。
　そういう道を選んだはずだった。
　なのに、親父は再婚するって言ったんだ。
　神楽は、すごく傷ついてると思う。
　そりゃ大人ぶって、『関係ない』とか言うけど、本当に関係なかったら、再婚の話を聞かされて、家出するはずない。
　戻ってきたのも、偶然オレと街で出会ったからで、そうじゃなかったら戻ってきたかすらオレにはわからない。
　食卓には、一人分だけぽつんと冷たくなったロールキャベツが置いてある。
　神様。
　どうか、神楽がこれ以上家出しませんように。
　まだ帰ってこない神楽のことを、オレは思った。


　
　ひとりでテレビ見ながらご飯を食べてると、えみるちゃんがやってきた。
「おかえりなさい」
「あ…、うん。その、ただいま」
　テレビと同じ笑顔で、同じ声で、えみるちゃんがそういう。
　それはオレが夢見てた光景だ。
　でも、なんでだろう。
　嬉しさよりも、心臓がドキドキいって、痛い。
　話したいのに、話せない。
　自分の中に違う二人がいるみたいで、なんだかすごくもどかしかった。
「仲いいんだね。蘇王君たちって」
　突然言われて、思わず口の中のものを出しそうになったけど、なんとか堪える。
　だって、えみるちゃんの前だ。
　そんな下品なことなんかできないだろ？
「聞いちゃったんだ、紗那から。みんな母親が違うって話」
　ああそれか。
　って言いたかったけど、口の中にものがあってうまくいえなかった。
　そんなオレに気づかないえみるちゃんは、独り言みたいに話を続ける。
「それから、新しいお母さんと神楽君のこと」
　ごっくん。
　一気にオレは口の中のものを飲み込む。
　途端に、器官に何かが詰まって咳き込んだ。
　ウッ、ゲホッゴエホッ。
　くっ苦しっっ。
「大丈夫？蘇王君」
　えみるちゃんがそう言って、背中をさすってくれる。差し出してくれた水を何とか飲んで、一息ついた。
　ふー。
　死ぬかと思った。
「ごめん。今の話、たち聞きするつもりなかったんだけど」
　いや、別に気にしてないよ。
　残りの水を飲み干して、そういうと、
「みんな色んな過去を背負って生きてるんだね」
　えみるちゃんは、ふっと表情をくもらせた。
　それは、今までオレがみたこともない表情だった。
「えみるちゃん？どうかした」
「え？」
「元気、ないから」
　すると、えみるちゃんは頬づえをやめて、にっこりと微笑んだ。それは、テレビと同じ笑顔だった。
「そんなこと、無いよ。そんなこと…」
でも、すぐにその笑顔は、またどんよりくもり顔になって、そうして小さくえみるちゃんが言った。
「ごめんね、蘇王君」
　え？
「幻滅したでしょう。あたしに。テレビと全然、違ってて」
　ああ、いや、でも、その。
うまく答えられなくてそういう言っていると、くすくすとえみるちゃんは笑った。
「正直だね、蘇王君って」
　いや、まあ、それはよくバカがつくくらいっとは言われるけど。
　すると、えみるちゃんはさらに声をあげて笑った。
　あれ？オレっておかしなこと言った？
「ほんと、素直ね」
　あっ。
　もしかして、オレってば、えみるちゃんの言ったこと思いっきり肯定してることになる？
「いやっ、いやいや、マジで、オレ、別に幻滅なんかしてなくて、あのっ、そのっ。ごめんなさいっ、そんなつもりじゃなくて、ただ…」
「ただ？」
　ふいにえみるちゃんが真剣な表情に戻る。
　思わずドキッとして、オレは小さな声で答えた。
「ただ･･･。現実に、ついていってないだけなんだ」
　えみるちゃんがそばにいるっていう現実に。
　オレに笑顔を向けてくれてるっていう現実に。
　まるで映画のように、天使が舞い降りてきた現実に。
　今までずっと、えみるちゃんは、遠い世界の人だったから。
　それを聞いたえみるちゃんはそのまま黙り込むと、しばらくして、そう、とだけ答えると、二階へと上がって行った。
　ひとりリビングに残されたオレには、そのちょっと寂しそうなえみるちゃんの顔が、頭ん中にこびりついて、今日もゆっくりと眠れそうになかった。