「ここは？」
　バイクが止まったところで、彼女がそう言った。
「居候している家。とりあえず、治療しよう。怪我してるから」
　オレとぶつかった時の傷かはわからないけど、彼女の左手には擦り傷ができて血が滲んでいた。彼女は、ちょっと悩んだ後で、ありがとうと答えた。
「そんじゃな。蘇王」
　いきなりエンジン音をあげたかと思うと、神楽がそう言って、手を上げる。
「神楽…」
　どこ行くんだよ。
　ここにいればいいじゃん。
　言いたいことは山のようにあったけど、どれもオレは言うことができなくて。
　にやりと笑って、ヘルメットを被ろうとしたところで、道の向こうから紗那の母親で、オレたちの管理人であるおばさんが神楽に気づいて声を上げた。
「お帰り、蘇王君。お友達かしら？
あら。神楽君っ」
「げ、おばさん―」
　おばさんは、神楽に駆け寄ってくると逃げようとした神楽の腕をむんずと捕まえた。
「お帰りなさい、やっと帰ってきたのね！どうだった？旅行。楽しかった？
　でも疲れてたでしょう。
　私、神楽くんが帰ってくるの待ってたのよっ。
　さ、入って入って！」
　そうしてバイクからひきずり降ろされた神楽は、そのまま葉月家に入っていった。



　葉月家は、ちょっと前に二世帯住宅に立て直したばかりだそうだ。
　でも紗那のじいちゃんが死んだことをきっかけに、おやじさんが海外赴任になったりして、最近は紗那とおばさんの二人暮らしになっていた。
　そうして空き部屋になった二階に、オレたち火狩家と、右近が居候してる。
「うぷ」
　二階のリビングにいると、今にも吐き出しそうな顔をして神楽が顔を出した。
「どうした、神楽」
「甘ったるいケーキ、腹いっぱい食べさせられた…」
「昨日のシフォンケーキだろう。いいな、まだ余ってたんだ」
　オレがまだ食べたいっていったら、おばさんもう無いなんていってたくせにっ。
　すると神楽は、
「だったらお前も来いよ。俺、甘いもの苦手なんだからさ」
と答えて、またうぷっと言った。
　けど、おばさんは神楽に食べてもらいたかったんだぜ。
そういうと、神楽は困った顔をして、ぷいっとそっぽを向いた。
　そのすねた表情が、懐かしくて、オレは笑顔で言った。
「おかえり、神楽」
　立ち上がろうとしてた神楽は、さらに困ったような顔をして、最後には諦めたようにソファに座った。
「そんなことより、蘇王。さっきの女誰だよ。もしかして、お前の彼女？」
「違うよ。そんなんじゃなくてさ」
　オレは彼女との偶然の出会いを説明した。
　ちなみに今、彼女はオレの部屋。
　洋服に血がついちゃったから、洗って乾くまでの間、何か着るものを借りたいといわれて、オレはＴシャツを渡して部屋を明け渡したんだ。
「ふーん。謎の女か」
　オレの話を聞き終わって、神楽はそう言った。
「お前気づいてないかもしれねぇけど、あの女相当上物だぞ」
　ジョウモノ？
　どういう意味だ？
　そう聞いたけど、神楽はにやりと笑って、
「まあいい。せいぜい騙されないようにな」
と答えるだけ。
　騙されるってどういうことだよ？
　オレがそう聞こうとしたところで、ドンドンと階段を力強く上ってくる足音が聞こえてきた。
「蘇王っ、どこにいるの？」
　げ、紗那だ。
反射的に慌てて机の下に体を隠すと、同じように神楽も隠れている。
　神楽？と言おうとすると、思いっきり静かにジロッと睨まれた。
「黙ってろよ、蘇王。あいつに帰ってるのがばれたら、また何言われるかわかんねぇからな」
　けど、一つ屋根の下で暮らすわけだから、いつまでも隠すことなんかできないぜ？
　そう言おうと口を開こうとしたところで、神楽の手がオレの口を塞ぐ。
　次の瞬間、
「蘇王っ！！」
という紗那の怒鳴り声が響いた。けど、
「あれ？ここじゃないの？
　たしかに話し声が聞こえたのになぁ」
という溜息に似た声がして、ドアがバタンと閉まる。
　ふー、助かった。
　神楽と顔をあわせて、一緒に溜息をつく。
　紗那が怒ると、ほんとこえぇーんだよな。
なんて安心したのも束の間、
「ちょっと蘇王っ。戻ってることは玄関にある靴でわかってるんだからねっ。部屋に隠れようったって、このあたしがゆるさないんだからっ」
って、廊下からそう聞こえてきた紗那の声に、慌てて机の下から飛び出した。
「やば」
　今、オレの部屋には怪我の治療してる彼女がいるんだった。
　凶暴女の紗那のことだから、彼女に何するかわからないっ。
　ちょっと待てっ、紗那っ。
　廊下に飛び出すと、ドアの開いたオレの部屋から、
「はっ…、はっはっ―」
という謎の紗那の声が聞こえてくる。
　まてっ、紗那っっ。
　彼女は悪くないっ。
　それからオレが部屋に駆けつけて彼女の無事を確認するのと、
　サングラスを取った彼女がオレの方に顔を向けるのとだいたい同時に、
「花岡えみるっ！本物？」
と、紗那が家中に響き渡るくらいの大声で叫んだ。



　こういう時の紗那って、つえーと思う。
「どうして？」
　オレも神楽も聞きづらくて言えなかった言葉を、紗那はすんなりと口にしちゃうんだから。
　彼女は…花岡えみるちゃんは、出されたコーヒーを一口飲むと、決心したように顔を上げた。
「このところ仕事が忙しくて、休みも無くて、たまの休日に外に出れば、周りの人に追いかけられたり、プライベートも無くて。…何もかも嫌になってしまって。
　急に、普通の生活に戻りたくなって、気づいたら仕事を抜け出してて。
　追いかけてきてたのは、…事務所の人たち。あたしを仕事場に連れ戻そうとして、追いかけてきたの。
　ごめんなさい」
　えみるちゃんはそう言って深々と頭を下げた。
　言われてみれば、確かにえみるちゃんはこの頃仕事をがんばっていた。
　新しいアルバムも出して、コンサートツアーもはじめて。
　それからテレビ番組にも出て、雑誌のインタビューにも引っ張りだこだ。
　ふっくらとしていたはずの頬も、少しばかりやせ細ってしまったように見える。
　そりゃファンとしては、彼女の新曲が聴けたり、テレビや雑誌でたくさん見れるのは嬉しい。
　でも、その気持ちが、彼女をこんなにまで疲れさせてるんだったら…。
　どうしたらいいんだろう。
　オレの少ない脳みそじゃ、いい案が思い浮かばなくて、大きく溜息をついたとき、ふいに紗那が言った。
「ね、だったら、しばらくここにいれば？」
「へ？」
「おい」
　オレと神楽が止めるのも聞かず、紗那は続ける。
「見ての通り、居候もたくさんいるし、それでも家は窮屈じゃないし。
　お母さんには、あたしの友達がしばらく泊まりたいってことにしておくからさ、ね。
　少しくらいお休みもらって、普通の人に戻ってみればいいじゃん」
　そうして紗那は強引に話を進める。
　こうなったら、オレも神楽も、えみるちゃんの答えを待つしかなかった。
　そして、決意をしたように、えみるちゃんが顔を上げる。
「ありがとう、紗那さん」
　ってことはつまり…。
「いやねぇ、紗那って言ってよ。もう」
　ついていけないオレの前で、まるで二人は昔からの友達のように笑い合っている。
　ってことは、えみるちゃんが、この家に居候するってこと？
　隣の神楽が、あのバカと小さく呟いている前で、気づけばえみるちゃんも
「わたしもえみって呼んで、紗那。本名なの」
と紗那と強く握手を交わしていた。



　その夜、おばさんがいつものごとく友達と長電話をしはじめ、えみるちゃんがお風呂に入っているのを待ってから、俺たちは事の始まりを千寿たちに説明した。
　集まったのは、紗那と、天使であり居候の神楽と千寿と俺。それから、千寿の恋人（っていうと千寿はすっげぇ怒るけど）である杏、あと、俺たち天使のリーダー桐原榊の恋人の浅生高未。
　何で高未がいるかっつーと、榊たちは天使である西原貴羽と一緒に、残る一人の天使を探しに奔走していて、会議に加われないからその代理ということらしい。
　けど、実際のところ高未は暇だから遊びに来てるんだと千寿が前に言っていた。
「信じられんな」
　まず千寿がそう言った。
「あたしもね、初めは幻覚かと思ったのよ。なんせあの蘇王の部屋だからさ、周りが花岡えみるのポスターだらけじゃない」
　なんだと？紗那。
「えみもびっくりしたんじゃない？」
　むぅ…。
　それはまだ本人から聞いてないからわからないけど…。
「ま、全部が本当なんだから、それでいいじゃない」
「…高未。お前適当すぎるぞ」
　千寿がそう突っ込むとなりで、神楽が溜息ついて言った。
「まるで映画みたいだな」
　その言葉に、杏が付け加える。
「『ローマの休日』だね」
　『ローマの休日』？
　名前は聞いたことあるけど、どんな話？
　？を頭ん中にたくさん浮かべてるオレを無視して、高未がふーんと呟いて話を続ける。
「それにしても、本当に可愛いのね、花岡えみるって。
　全然テレビと違うじゃない。サバサバしてる感じで。あたし、今の彼女の方が好きだなあ」
　実際眼鏡をかけて、ラフな格好になったえみるちゃんを見ても、誰もが『アイドル・花岡えみる』とはすぐに見抜けなかった。
　ミーハーな紗那のおばさんでさえ、
「友達のえみ。大学生で、今学校は休み中なんだって。で、両親が旅行に行ってる間、うちに泊めてもいい？」
という紗那の話をそのまま素直に信じてＯＫしたくらいだ。
　ちなみに大学生としたのは千寿の案で、実際この家にずっといることになれば、おばさんが学校のことを心配するだろうからってことらしい。
　えみるちゃんは、本当はオレたちと同じ16歳だけど、もう大人の世界で働いてるせいか、えみるちゃんはテレビで見るよりもしっかりしていたし、おばさんは大学生ってことまで素直にそのまま信じてくれた。
「これからは、えみって呼んであげてよ。本名なんだって」
　本当の友達のように紗那が嬉しそうにそう言うのを、
「紗那。あまりそれを言うな」
と千寿が諭した。
「どうして？だって、そう言ってたのよ。本人が」
「花岡えみるは、年齢だけ公表してるが、本名や私生活は一切マスコミに話していない。いくら彼女が言ったとはいえ、それはこの家の中だけのことだ。今回のことはもとより、彼女の私生活についても一切漏らすな」
「何よ、千寿の意地悪っ。
　っていうか、そんなことまで知ってるなんて…、まさか千寿まで花岡えみるファン？」
「ほんとっ？」
　まるで恋人の浮気を知ったかのように、杏が千寿をにらみつける。
　千寿が頭を抱えて答えた。
「違う。蘇王から聞いただけだ」
「本当なの？蘇王」
　杏ににらまれて、オレは慌てて頷いた。杏の後ろでは、焦る千寿の様子を見て、高未が笑いを堪えて肩をふるわせてる。
　うーん、ガキとは言え、女って怖い…。
「そうだよ。
　それから、このことは絶対に秘密だから。事務所とかマスコミにばれたら、絶対連れ戻されるから」
　オレがそう言ったところで、ふと気づいたように神楽が紗那に言う。
「ってかさ、何でお前彼女をかくまうことに決めたの？」
「だって、いいやつじゃん。えみって」
「いいやつってなぁ」
　千寿が呆れた声を上げたけど、紗那はまったく無視して話を続ける。
「それにね、あたしファンなの。V7の岡山君！」
　はぁ？
「関係ねぇじゃん」
「同感」
　オレと神楽、千寿がそれぞれ言うと、紗那はなぜか首を振った。
「だって、もしかしたら友達かもしれないじゃん。サインくれないかなーって」
　…。
　オレたちは勿論、他の奴等も思わず黙り込んだのは、言うまでも無い。
「かわらねぇな、紗那の自己中」
「ほんとほんと」
「右近に報告しておくか」
　右近は例のごとく、食事が終わってすぐに自分の部屋に引きこもっている。
　ちなみに右近は信じられないことに、えみるちゃんのことを全く知らなかったらしい。
　ちなみに紗那は、右近に目下片思い中だ。
　といっても、ほとんど玉砕に近くて、紗那本人だけがふられてないと言い張ってるくらいだから、千寿曰く、
「太陽が西から昇るほうが可能性が高い」
らしい。
　さっきのお返しとばかりに、わざと立ち上がった千寿に、紗那は必死に言う。
「ちょっと、やめてよねっ。岡山君はただのファンなんだからっ」
　ふーん。
　俺たちがニヤニヤしてると、紗那は真っ赤な顔していきなり怒鳴り散らした。
「うるさいわねっ、あんたたちっ。
　千寿はさっさと杏を家に送り届けないと、警察に訴えられるわよっ！
　それから神楽は、家出中のトイレ掃除っやっといてっ！
　それより何より蘇王！あんた今日絶対に絵梨に電話しなさいよっ。
　あんた、絵梨のこと、映画館においてきぼりにしたでしょ！」
　あ、やべ。
　すっかり忘れてた。
　そう素直に言った途端、紗那のスリッパがオレの頭に叩きつけられた。



　紗那に教えられた携帯番号に電話すると、数コールで、はい、という声が聞こえてきた。
「渡辺、ごめんな。今日」
「ううん。あたしは大丈夫だよ。蘇王君こそ、大丈夫だった？」
　オレ？
「だって、ホラ。変な人に追いかけられてたじゃない」
　えみるちゃんの顔がぱっと思い浮かんだけど、オレは慌ててそのそれをかき消した。
　だって、絶対に秘密だもんな。
「ああ？あ、ダイジョーブダイジョーブ！
　ノープログラムってやつだな、うん」
　そういったところで、部屋の隅にいた千寿から、
「お前、そりゃノープロブレムだろう？」
というつっこみがはいる。
　オレって英語の成績、赤点スレスレだからなぁ。
「とにかく埋め合わせ、今度絶対すっから、ほんとごめんな」
　危ない危ない。
　あまり話していると、えみるちゃんのことまで話ちゃいそうだ。
「ううん。それじゃ、また学校でね」
　渡辺がそう答えて、電話を切る。
「渡辺絵梨？」
　千寿が新聞の上から顔を出した聞いてきた。
　そ。今日映画見に行く予定だったんだ、実は。
「なるほどね、紗那の策略か」
　策略？
「いや、何でも無い」
　話をふったくせに、千寿は自分だけ理解して、話をきる。
　オレがじっとその顔を見ていると、千寿はくすりと笑って、
「まあ、いいじゃないか。
　お前の大好きな花岡えみるが一つ屋根の下にいるんだし、
　神楽も無事帰ってきたわけだし」
と答えた。
　まあ、そうだけど。
　千寿はそれだけ言うと、再び新聞を読み始めた。