とりあえず、俺は校門のあたりにテレポートをした。
　手には、いったん戻った葉月家でみつけた俺の竹刀を持って。
　校門に人はいなかったが、突然現れた俺の姿に、居合わせた野良猫がびっくりして毛を逆立てて俺を威嚇していた。
　辺りを見回すと、どうも杏はいないようだった。
「杏っ？いるのか？」
　試しにそう叫んだが、聞こえてくるのは、木々の葉が風に揺られて奏でる音だけ。
　いないのか？
　そう思った瞬間、俺の中で、何かがゾクッと背筋を滑り落ちる気がした。
　なんだ、この妙な、嫌な予感は。
　見上げる校舎からは、七時近いせいもあってか、ほとんど人の声はしない。
　だがその中で、微かにだが物音がして、俺は校門の中に入っていった。
　とそのとき、また俺の脳裏に低音が響く。
『シアイ、カイシ』
　その瞬間、再び気持ちの悪い予感があった。
　何かが、いる。
　その気配は、どうも道場の方から感じられた。
　そういえば、県大会が近いから、八時まで部活動延長要請を出し、特別稽古をしていた。
「杏」
　俺はそう呟いて、道場へと駆けていった。
　

　明らかに、悪い空気のようなものは、道場を覆っていた。
　慌てて駆け込むと、入り口に数人の部員たちがばたばたと倒れている。
「おいっ、どうしたんだっ」
　そう叫んでいるそばから、吹き飛ばされるかのように、塚越が飛んできて、玄関の壁にぶつかる。
「おいっ、塚越っ」
　壁をずるずると這うように滑り落ちると、ぱたりと塚越は床に倒れた。
　慌てて駆け寄ると、塚越は俺に気づいて、掠れた声で言った。
「せ、千寿…。ついに、来た」
「何が？」
　ごくり、と塚越が唾を飲み込むのがわかる。
「道場…荒らし」
　俺は思わず塚越の肩を握り緊めた。塚越は、小さな声だが、おそらく出せる限りの声で話す。
「つえぇよ、あいつ。皆戦ったんだけど、歯が立たない。
…みんなやられた」
そのとき、俺は道場から聞こえてくる甲高い気合に気づいた。
「あれは？」
　女子部員は今日は練習ではないし、第一あんな甲高い声を出す部員はいないはずだった。
　塚越は、あぁ、と小さく呟く。
「お前、と、関係が、ない、らしい、小学生。なぜか、道場に、来たんだ。今日。
　それで、剣道、教えてくれって」
「杏がっ？」
　俺は思わずそう叫ぶ。
　そして、塚越に待ってろと告げ、持っていた竹刀を袋から取り出すと、一目散に道場に駆け込んでいった。



「杏っ」
　道場には暗雲が立ち込めているようだった。
　ライトはすべて落ち、月明かりの中に、杏はいた。
　竹刀を握り緊めたその先には、黒い胴衣を着た、そいつがいた。
　来た。
　直感的にそう感じた。
　そして俺は、すぐに、それが誰なのかわかった。
　それは、ずっと俺が探していた相手。
「千寿っ」
　杏が俺に気づき、こっちを向く。
　そして、ゆっくりと、道場荒らしである俺のシャドーがこちらを振り返った。
「やっと来たか、火狩千寿」
　その声は、以前街で聞いたのと同じ声で、そう告げた。
　そして、面の奥でにやりと笑うのだけがわかった。
「お前が、シャドーか」
「ああ。早く会いたかったぞ」
　俺もだ、と言いたいのを堪え、俺は更に声を張り上げる。
　その前に、確かめなければならないことがある。
　安東が疑った意味を。
「他校で道場荒ししてるってのも、お前か」
　シャドーは不気味だった。
　面の奥は全く見えず、胴衣と防具に囲まれて、その体すら存在するのかわからなかった。
　そして俺の気分を、ひどく苛立たせた。
　再び低い声が、俺と、シャドーと杏しかいない道場に響く。
「そうだ。今度の大会では、俺が優勝する為にな」
「どこの生徒だ。お前に名前など、ないはずだろう」
　それとも、右近のシャドーのように、誰かの名前を使っていたのだろうか。
　だが、そこでシャドーは再びにやりと笑った。
「決まっている。
　御影高校の火狩千寿だ」
「ふざけるな。
　俺は俺として出場する。
　だいたい、正々堂々と大会で戦えばいい。こんな風な卑怯な手を使わずに」
「だが、こうでもしないと、俺は、お前は、また県大会で三位。優勝はできない」
　そのとき俺は、気づいた。
　今まで道場荒らしにあっていたのは、県下でも強豪といわれる高校ばかりだ。しかも、そこのエースばかりが、必ず怪我を負わされている。
「だったら、塚越たちまで襲うことはないだろう」
「あの顧問に、あんな態度をして、お前は出場できるとでも思ってるのか？」
　まるで何もかも見透かしたように、シャドーはそう言った。
　確かに、今日の俺の態度で、顧問は俺を追い出した。だとすれば、試合に出場するメンバーから外される可能性だってある。出場したいと顧問に頭を下げるのは、俺のプライドが傷つく。
　ならば、顧問が俺を出場させなければならない状態にすればいい。
　他の部員を負傷させて。
　…用意周到だ。
　俺は小さく舌打ちをした。
　するとシャドーは笑いながら言った。
「お前だって知ってるんだろう？安東がいるかぎり、優勝はできないということ」
「貴様っ」
　言い当てられた俺は、思わずそう怒鳴りつけると、再び冷静な声が道場に響く。
「気づきたくなかった深層心理を言われた人間は、それを認めるのではなく、むしろ逆上する」
　シャドーがそう言った。
「お前はそう考えなかったか？杏が中学生に言い返したとき」
　言い当てられて、俺は唖然として黙り込んだ。
　フッフッフと笑い声とも、吐息とも取れないシャドーの声が響く。
「俺はお前のシャドーだ。考えてることは一緒なのだ」
　焦るな、叫ぶな。
　俺はできるだけ声を抑えて言った。
「ふざけるな」
　だがシャドーは、今度は楽しそうに高笑いをして、言った。
「理論で正当防衛をしないと、不安でしかたない、気の弱い野郎」
「…なんだと」
「お前の考えは、何でもわかる。俺とお前は一心同体だからな」
「違うっ」
「だったら、試してみようか？どっちが『火狩千寿』か」
　シャドーはそういうと、ゆっくりと俺に向かって竹刀を向けた。その竹刀が、ゆっくりと光を帯びたものに変わる。
　バシャンという音がドミノ倒しのように響き、道場のドアがすべて閉められる。
　そして、シャドーは呟いた。
「シアイ、カイシ」



　竹刀を構えると、にやりとシャドーが笑うのがわかった。
　互いに間を取り、隙を探す。
　その為に、時に竹刀の先で相手の竹刀を叩く。
　だが、いくらそうやって威嚇しても、シャドーの竹刀はぶれなかった。
『えらく強かった』
『俺も戦ったんだけど、歯が立たなくて』
　そういっている安東の言葉を思い出す。
　俺が、勝てなかった安東。その安東に、歯が立たなかったと言わしめたシャドー。
　勝てるんだろうか？俺は。
　その瞬間、シャドーの竹刀が動いた。
　面だ。
　となれば、抜き胴。
　だが、そうする余裕もないほどに、シャドーの動きはすばやく、俺はシャドーの竹刀から身を守るのが精一杯だった。しかも、何とかつばぜり合いに持ち込んだものの、俺の手は震えているというのに、シャドーはびくりともしていない。
「自信がなくなったか？」
　間近で見ても、不思議と口以外は霧がかかっているかのように暗く、見えなかった。
　その表情が、俺を更に苛立たせる。
「ふざけるな。俺はお前を倒す。
　倒して、覚醒し、天使になる」
「愚か者が。覚醒の意味をまだ理解していないようだな。
　そんなヤツに、私は倒せまい」
　シャドーはそういったかと思うと、思い切り俺を突き押した。
くそっ。
　俺は力の限り、踏ん張る。
　だが、シャドーの竹刀が再び光り、次の瞬間竹刀が真っ二つに割れ、、俺は思いきり道場の壁に背中を打ち付けていた。