気分は最悪でも、時間だけは確実に過ぎていく。
　剣道部には、月に一度だけ外からの講師がやってくる。
　今日がその日で、やってきたのは、地元で剣道教室を開いている年寄りの爺さんだった。爺さんとはいえ、剣道六段という腕前らしい。
「次」
　順番が回ってきた俺は、はいっ、と返事をすると、その爺さんの前に立った。
稽古は基本的に一本勝負だ。
　気合を入れると、満足そうに爺さんは頷いた。
　この爺さんから、一本取ればいいだけのこと。
　先に打たせたところで、胴か小手で抜くか。
　簡単だ、こんな爺さん。
　実際、剣道のことよりも、俺の頭は、昨日出て行った神楽のことでいっぱいだった。
　神楽は、結局あのあと葉月家を飛び出していった。行く先は、わからない。
　そして、今日、学校にも姿を現さなかった。
　少し前であれば、きっとどこか女のところにいるだろうとか、心配しつつも、客観視できていたが、今回のことは、家出の原因が俺である為に、気になっていた。
　しかも、最近の神楽の素行からすれば、前ほどに女と遊んでないようだったし。
　一夜限りの女を選ぶにしても、そのバックにどんな組織が絡んでいるかわからないから、危険といえば危険だった。
「千寿っ」
　塚越の声がふいに聞こえた気がした。だが次の瞬間、俺の頭に鋭い衝撃がはしり、風がさっと脇を通り抜け、白い旗があがったのが見えた。
　白、それは爺さんの面が一本と認められた証拠だった。


「ありがとうございました」
　礼をして、爺さんの前から立ち去り、俺は苛立たしそうに面を外す。
　俺としたことが。あんな爺さんに。
　手ぬぐいを外し、左右に頭をふると、ふいに目の前に爺さんがやってきた。
「ありがとうございました」
　おざなりではあったが、俺はもう一度礼を言った。爺さんはにっこりと面の奥で微笑むと、俺の肩を小手をしたままでぽんと叩く。
「火狩…君か？君の剣道は、受身だな」
「え？」
「待ってるだけじゃ、一本は取れんよ」
　それが俺へのアドバイスであることは明らかだった。
　だが、今の俺にはそんなアドバイスは必要なかった。
　今の俺がほしいのは、神楽の行方だけだ。
　いっそ、早退して、あいつを探しに行こうか。
ふとそう思い始めたときだった。目の前に、顧問が立っていたことに俺は気づいた。
「火狩」
「はい」
　俺は座ったままで、顧問の足元を見ていた。
　静まり返った道場の中で、顧問の声が一際響いた。
「やる気がないなら、出ていけ」
「先生っ」
　驚いたのは、むしろ塚越で、取り繕うように塚越は顧問に寄っていった。だが、そんな塚越を無視して、顧問は俺に言った。
「安東が出場しないからといって、甘えすぎじゃないのか。お前の敵は、安東だけなのか？真面目に練習しないのであれば、もう練習しなくてかまわん。目障りだ」
　ざわざわと、部員たちが練習をやめ、遠巻きに俺を囲んでいるのがわかった。だが、その中の誰一人として、塚越でさえも、それを否定する者はいなかった。
「…失礼します」
　俺はそう返事をすると、面を持ち、道場を出て行った。



　むしゃくしゃする気持ちのまま帰るのは癪ではあるが、頭を下げてまで練習を続ける意味など、俺にはなかった。そもそも、剣道を始めたのだって、決して好きだからではなく、単に精神統一できそうなことと、健康のためだ。
　竹刀を一本だけ袋に入れて、校門を出ようとしたところで、また赤いランドセルが校門の隅から覗いていた。
「もう来るなといっただろうが」
　通り過ぎる前に声をかけると、驚いたように杏がこちらを振り返った。
「けど」
　杏はそういうと、ポケットに手をいれ、そこから赤い小さな布袋を差し出した。
「剣道の試合、近いんでしょ？お守り」
　手作りなのだろうか、赤いフェルトの生地に、黄色の刺繍糸で『がんばれ！千寿』と描かれているのが読めた。
　だが、俺はそれを受け取らずに言った。
「どうして、そんなに俺を追いかける」
　来るな、という意味を含め、俺はそう杏に言う。
　引き離しても、引き離しても、まるで磁石のように俺を追いかけてくる杏が、いい加減嫌になっていた。
　それに、幼いときの自分とどこか重なる杏は、再び神楽がいないころの自分に戻ることへの暗示のようにも思えていて、俺は、苛立つ気持ちを抑えられそうになかった。
　気づくと、杏はそこで歩みを止めていた。二、三歩あるいて俺が気づき、振り返ると、杏は俯いたままで話し続けた。
「…似てたから。あたしの本当のパパに。大好きだった、あたしのパパに。
　ママは、あたしが生まれたときに死んだ。
　パパは、あたしが三歳のとき、デパートにあたしを置いて消えていった。
　それから、あたしは施設に引き取られて、一ヶ月前に今のお父さんとお母さんに引き取らたの。
でも、あたし、ずっとパパに会いたいと思ってた。
　だから毎晩お祈りしたわ。
　神様、パパに会わせてくださいって。
　いい子でいますから、お願いしますって。
　そうしたら、千寿に会えたんだもん。
　やっと会えたんだもん」
顔を上げた杏は、目に涙を浮かべて、言った。
「神様がくれたプレゼントよ。
だから、あたし、絶対に千寿と離れないと思ったの。
今度こそ、絶対に離れないって」
神様がくれた、プレゼント。
俺はぎゅっと手を握り締めた。
こんなギフト、誰がほしいと望んだ？
望んだものは、もっと別のものだった。
神は、身勝手だ。
どうして、俺たちの運命を、こうやって弄ぶ。
「くだらない。何が、神様がくれたプレゼントだ」
吐き捨てるように俺がいうと、杏は顔を真っ赤にして反論した。
「くだらなくなんかないわっ。
神様は、あたしがいい子でいたから、プレゼントをくれたのよ」
何度願っただろうか。
父親がほしいと。
何度祈ったであろうか。
母さんの病気が治るようにと。
だが、一度たりと、その願いは叶わなかった。
「神など、いない。いれば、世の中もっと公平にできているはずだ」
「そんなことないっ、絶対にいるもんっ。神様に祈ってれば、願いは叶うわっ」
　杏は大声でそう叫んだ。
　幼い頃の俺のように。
　俺の中で、何かが切れた。
「祈りくらいで願いが叶うのであれば、俺は今、ここにこうしているはずがない」
　独り言のようにそう呟いた言葉は、杏に伝わることはなく、杏は首をかしげた。
「え？今、なんて言ったの？千寿」
「ついてくるな」
　いい大人でありつづける、限界だった。
　気づけば、俺は杏が差し出していたお守りを掴み、近くの垣根に投げ入れると、杏を鋭く睨み、そして低い声で怒鳴っていた。
「もう二度と、俺の前をうろつくな。そう言ったんだ」