昨日の言葉が聞いたのか、翌日、杏は道場にやってこなかった。
代わりに道場に現れた珍客に、俺を除いた男子部員全員が、一瞬ほうけた。
「やっほ」
　浅生高未はそう片手を上げると、モデル顔負けの艶やかな笑みを俺に向けた。
　一斉に、諦めと、冷たい視線が俺に向けられる。
「悪い、ちょっと抜ける」
　俺はそう塚越に言い残すと、面を外し、道場の裏まで高未を連れて出て行った。


　久々に制服姿で現れた高未は、あっけらかんと言った。
「どう？天使になれそう？」
「人事だろう、高未」
　年上とはいえ、あまりに高未がサバサバしているせいか、紗那も、俺も気づけば敬語を使うことをやめていた。俺にそういわれた高未はケラケラと笑い声を上げた。
「ばれた？でもねぇ、覚醒してくれないと、榊はいつまでも、天命を全うできないのよね。そうしたら、あたしとのデートも全然できないのよ」
　困ったわぁと腕組みをする高未に、俺は思わず厭味で返す。
「俺は高未と榊の欲求の為に生きているわけじゃない」
「じゃあ、何のために生きてるの？」
「それは…」
　そう聞かれて、何も答えられなくなった俺に、高未はにっこりと微笑んで、堂々と言った。
「あたしはね、榊のために生きてる」
「お幸せなことで」
「うん、幸せよ。榊に会えて、本当によかったと思うわ。
　生きている意味なんて、誰かに与えられて初めて実感できるものだと思うし、それを与えてくれる榊には、本当に感謝してる」
「ご馳走様」
　小さく溜息を俺がつくと、そんな姿に高未はくすりと微笑んだ。
「でもね、今の榊は、天命の為に生きてるの。仕方ないわ。神様のため、平和な世界のためですもん。だから、寂しいけど、でも少しの我慢だと思ってるの」
　聞けば、今日の放課後も、榊たちは別の街に、仲間の天使を探しに行っているという。学校も住む町も違う高未は、なかなか榊に会えてないようだった。
　ふいに高未が、道場の様子を伺った。
「千寿君ってば剣道部なんだ？なかなか胴衣も似合うわね。
　そういえば、最近道場荒らしが出るとかいう話聞いたけど」
「ああ。だが、あいにくこの御影高校剣道部にはまだやってきてない」
　昨日だったか、塚越が、道場荒らしが別の高校にも出没した話を持ってきた。
　今までに四校の剣道部がその被害に当たっている。
　狙っているのか、どうなのか、その四校というのは、どこも県下では強豪と言われるところで、塚越曰く、前回の大会でベストエイトに名を連ねたうちに、そろそろやってきても、おかしくないということだった。
「最近思うんだけど、怪しい事件ばかりよね。気味が悪いヤツとか」
　そういえば、この前のトラックの暴走事故も、へたをすれば、大惨事だったはずだ。
　あの時の、妙な声は何だったのだろう。
　高未はふいに顔を上げて、ねぇ、と言った。
「さっき見てて思ったんだけどさ。
　千寿君ってさ、バスケとかサッカーとかしても、きっとすぐにパスとかしないで、一呼吸おいてから動くでしょ」
　唐突に何を、と思いつつも、高未が言っているのがあたっていることに気づき、俺は思わず高未を凝視した。
「あたし、バスケ部なんだけどね。ひとつ、いいこと教えてあげる。玉は持つな」
　は？何を藪から棒に。
　きょとんとしてる俺に、高未はまるで教師のように繰り替えして言う。
「玉は持つな、よ。
　いつまでも持ってるとね、敵に囲まれて、その玉、投げられなくなるってこと」
「バスケ談義をしに来たのか？今日は」
　用がないなら、俺は帰る、と踵を返した俺の背中に、高未は少し控えた、けれども通る声で引き止めた。
「違うわ。千寿君、前にどうして紗那が狙われたんだろうかって話をしたよね」
「…ああ」
　振り返ると、まじめな顔の高未がいた。
「一つには、千寿君が言っていた通り、あたしたちの仲間と思われたから。
でも、あたしはそれだけじゃないんじゃないかと思ってる」
「というと？」
「右近君がこっちにやってきて、あたしたちと出会って、貴羽はすぐに彼も仲間だとわかったわ。でも、右近君はなかなか話を信じてくれなかった。それどころか、無視の連続。
　ところがある日、彼のほうから話しかけてきたの。自分は天使をみつけたから、そいつを仲間にしろと」
　高未はそこで言葉を区切った。
「それが、紗那よ。
　右近君は初めて出会って、すごいパワーを感じたらしいの。でも、あたしたちは紗那が天使の印がないことを知ってたから、すぐに否定したわ。　彼は、認めようとはしなかったけれど。そして、その頃から、右近君のシャドーは彼女を狙い始めたの。
　だから、あたしが原因は右近君だと責めたわ。そして、彼は紗那を守ろうとした」
　実際に、右近のシャドーは秋山という名前を名乗り、紗那に近づいた。
　そして、紗那をおびき出して、襲おうとしたのだ。
　それを助けたのが、右近で、シャドーを倒した右近は、そうして覚醒を遂げた。
「結果として右近君は覚醒したわ。でもそれもね、多分紗那のおかげだと思うの。
　多分、この世界には、天使以上に天使に近い人間もいて、その人たちからも、天使はパワーをもらうことができる。だから、天使はその人を大事にしなきゃいけないし、御堂たちは、そういう人を襲う。ま、これは榊の話なんだけどね」
　そこで、高未は、ようやく今日やってきた理由を告げた。
「だから千寿君も、そういう子見つけたら、大事にしてね。
　言いたかったのは、それだけ。じゃね」
　一瞬だけなぜか浮かんだ杏の顔を、俺は高未に自嘲気味に笑うことでかき消した。



「ただいま」
　あのあと、杏は道場に現れることはなく、俺は高未に言われたことが気になってか、練習に身が入らずに、大会前の特別稽古も受けずに、帰宅をした。
「おかえり、千寿。メシできたってよ」
　ふと顔を出したのは蘇王だ。珍しく練習がなく、早い帰宅になったらしい。ふと玄関を見ると、神楽の靴もあった。
　リビングに顔を出すと、まさに食事が始まるときで、食卓には、右近と神楽も座っていた。
「千寿君、お帰りなさい。すぐに着替えていらっしゃいな。ご飯だから」
「はい」
　にこやかな表情の浮かぶ食卓。
　温かいご飯の湯気。
　その間で交わされる笑い声の混じった会話。
　着替えをして、降りてきた俺を出迎えたのは、そんな温かい夕食の風景だった。
　神楽は声を上げて、楽しそうに笑っているし、
　右近すら、しゃべりはしないものの、たまに目が微笑んでいるのがわかる。
『あ、蘇王っ。俺の卵焼き食ったろ？』
『神楽こそ、俺のコロッケ食べやがって』
『こらこら、二人とも。もっとお行儀よくしなさい。卵も、コロッケもあげるから』
　その風景は、かつて紅子さんのいた風景にも似ていた。
　たぶん、一番楽しかった頃の、火狩家。
「どうかした？千寿君」
　ふいにおばさんが、心配そうに俺の顔をのぞきこんだ。
「いえ、何でもありません」
「千寿ってば、普通にしてても、すっげー難しい顔してるもんなぁ」
「ってか、蘇王が考えてなさすぎなんでしょっ」
「うるさいなっ。紗那なんかひとつのことしか目に入ってないタイプじゃん」
「ほんとほんと、単細胞バカだよな」
「何よっ、神楽っ」
　少しだけ、最近昔のことを思い出す理由がわかった気がした。
　この葉月の家にいると、あの時の自分たちを思い出すからだ。
　温かい家族だったときの。
　そして、何より、あのときと同じ笑顔で、神楽が笑っている。
　無邪気に、心のそこから楽しそうに。
　ふいに、神楽は、ああっ、と大声を上げて急に立ち上がった。
「弁当箱持ってくるの忘れた。今持ってくるから、おばさん、洗うの待ってて」
　神楽がドアをバタンとしめたところで、思い出したようにおばさんが言った。
「そういえば、おめでとう。千寿君、蘇王君」
「え？」
「何か表彰されたっけ？」
　そう蘇王に聞かれた俺は首を傾げる。紗那も何のことだかわからないようで、きょとんとしていると、おばさんは、満面の笑みを浮かべて言った。
「お父さま、再婚するそうじゃない」
　え？
　と一瞬、俺と蘇王の顔が強張った。
　俺はできるだけ頭を冷静にして、尋ねる。
「…おばさん。どこでそれ」
「さっきお父様から電話を受けたときに」
　違うの？と首を傾げるおばさんに、俺は慌ててこのことを神楽には内緒にしてもらおうと思った。
「…おばさん、そのこと―」
「あっはっは。オヤジのヤツ。おばさんにまで言うなんてな、千寿」
　蘇王が俺を気遣ってか、代わりに大声でそういった。だが、声はどこか上ずっていて、俺の背中をバンバンと叩く手も、どこか緊張している。
　とにかく、神楽にはまだ話をしていない。
　するんだったら、きちんと俺から言わなければならない。
　俺がそのお願いをしようとしたところで、紗那が割り込んでいった。
「へぇ、再婚か。神楽のお父さんもやるわね。で、再婚相手ってどんな人？」
　身を乗り出してそういう紗那の後ろから、ゆっくりとリビングのドアが開かれた。
　現れたのは、当然神楽だ。
「…再、婚？」
　神楽はそう呟いた。手にしていたお弁当箱が、床に落ちる。
　俺は慌てて立ち上がったが、それより先に紗那が神楽に話しかけていた。
「あれ？神楽は聞いてないの？おじさんの再婚」
「親父、が？」
　紗那の言葉を確かめるように繰り返す神楽に、紗那は少しばかり戸惑いながら答える。
「だって蘇王が言ってたよ」
　神楽がゆっくりと、視線を蘇王に向ける。一瞬だけ目が合うと、蘇王はすぐに俯いて呟いた。
「…ごめん」
「千寿だって知ってたし」
　そして、その視線は、ゆっくりと俺に注がれた。
　呆然としているその視線が、だんだんと強いものにかわり、そうして神楽は呟いた。
「…どういうことだ？」
　最早、言い訳にすらならない。
　どう説明したらいいのか、わからず俺は思わず俯いた。
　だが、それを、神楽は自分への返事だと思った。
　テーブルの俺のグラスがパンと割れ、紗那が小さく悲鳴を上げた。
　そして、神楽は、俺の胸倉を掴み上げた。
「どういうことだって言ってるんだよっ。どうして、俺に言わないっ。
　だいたい親父は、どうして俺だけに言わないんだよっ」
　その非難は、明らかに俺ではなく、父に向かっていた。
　だが、言わなかったのは、俺だ。
「違う、神楽。
　俺が、お前に言うと父と約束したんだ」
　それまでの訴えるような視線が、一瞬にして非難する視線へと変わる。
「…じゃどうして、言わない」
　突きつけるような強い視線と違い、神楽は呟くようにそう言った。
　だが、俺は答えられなかった。
　神楽を傷つけたくなかっただとか、
　神楽を失いたくなかったとか、そう言ったとしても、それはすべて詭弁にすぎない。
　それは―。
「どうしてだよっ」
　神楽はそうして俺を壁に投げつけるように突くと、窓が震えるくらいの声で叫んだ。
「俺とお前は何も変わらないって言ったのも、嘘じゃねぇかよっ」
　そして、蘇王とおばさんが止めるのも無視して、神楽はリビングを飛び出していった。
「千寿…」
　慰めるように、蘇王が床に座り込んだ俺を引き上げた。
　傷つけて、やっと気づいた。
　神楽は、そんなにやわじゃないと、信じてやれなかった自分の方が、弱い人間だったんだと。
　神楽の為に言わなかったんじゃない。
　伝えた後、神楽を失うようで怖かった。
　俺は、俺の為に、言わなかったのだ。
『お前だけじゃない』
　ふいに俺の脳裏に、誰かの言葉が響いた。
　顔を上げると、右近がじっと俺のことを見つめていて、それが右近の呼びかけであることがわかった。
『誰だって、失うことは怖いのだから』