その日の練習を終え、片付けをはじめた俺に、トイレに言っていた塚越が話しかけてきた。
「おい、千寿。最近よく道場にくる小学生がいるだろ？あれって、お前の知り合い？」
　もちろん、それは杏のことだ。
　練習のときに、ランドセル姿で道場の隅にちょこんと座って中の様子を見ている杏は、剣道部の中でも噂になっていた。
「面識はあるが、知り合いではない」
「けど、いつもお前の部活が終わるの待ってねぇか？」
「俺の知ったこっちゃない」
　冷たくそう答えると、塚越はふーんと納得したのかしてないのか、曖昧な返事を返した。そういえば、今さっきまでいたはずの杏の姿はもうどこにもない。
「何かあったのか？」
　そう聞くと、実はさっきトイレに行った帰りにさ、とためらいがちに塚越は話し始めた。
「体育館の裏にお前のファンの中学生らに拉致されてるところ見たからさ」



　道場から体育館裏は、五分とかからない。
　息を切らせて、体育館へ向かうと、ちょうど裏へ続く路地に、女生徒の甲高い声が響いていた。
「だいたいあんた、千寿様の何なのよ」
「子供のくせして」
「そうよ、そうよっ」
「子供はおうちに帰って、ママと遊んでればいいのよ」
　確かにその通りだ。
　などと思いながら、俺は体育館裏の角を曲がると、そこにはちょうど円陣を組むようにして、いつも俺の後をおいかけてくる中学生が立ち並んでいた。
　そして、その隙間から、微かに赤いランドセルが垣間見えた。
　弾んだ息を整えるのを隠すように、大きく溜息をついた時、その円陣の中央から、姿は見えないが、あの生意気な声が聞こえてきた。
「子供子供って、どっちが子供だっていうのよ」
「何ですってぇ？」
「こんな風に、年下の子をいじめるために、大人数で体育館裏に呼び出して。そういう行動こそ、子供がすることじゃないの？」
　杏の言っていることは正しい。
　だが、気づきたくなかった深層心理を言われた人間は、それを認めるのではなく、むしろ逆上する。
　案の定、円陣からは、奇声のような叫びに似た声があがる。
「ちょっとっ、何よこの子っ、生意気ねっ」
「そうよ、本当にむかつくわ」
「二度と千寿様に近づかないで頂戴っ」
　円陣の中で、突き押された赤いランドセルが、前後左右に動き、俺は慌ててその円陣に割って入った。
「おい」
　突然邪魔されて、中学生は俺を睨みつけたが、誰であるかに気づくと、慌てて、表情を変えた。
「せっ、千寿様っ」
「練習はどうしたんですか？」
「終わった」
　円陣の中央では、転んだのか杏がうずくまっていたものの、俺の声に気づいて顔を上げた。
「それより、こんなところで何してるんだ」
「あの、このごろ千寿様にまとわりつく子がいると聞いたので、追い払おうと思って」
　俺を見止めた案見止めた杏の表情が、ぱっと安心した笑顔に変わる。
　それが、俺の琴線に触れたとも気づかずに。
「そういうことは、自分でいう」
　立ち上がり、汚れたスカートの泥を振り払っている杏に、俺は冷たく言い放った。
「家族が心配してるだろうから、さっさと家に帰れ」
　笑顔だった杏の表情は、一瞬にして泣き出しそうな顔に変わる。
　自業自得だ。
　俺はすぐに踵を返し、道場へと戻った。



　着替えも終えて、一人校門へ向かうと、その脇に赤いランドセルが見えた。
　あのガキ。
　俺は、無言のままに校門を過ぎ去ると、パタパタと慌てて追いかけてくる足音がした。俺は溜息をついて言う。
「さっき俺が言ったこと、聞いてなかったのか」
　ちらりと横を見ると、嬉しそうに微笑む杏がいる。
「だって、さっきはそういわないと、中学生たちが納得しなかったから、ああいう風に言っただけでしょ」
　憎たらしいガキだ。
　俺は言い当てられてどきりとした心を隠し、いたって冷静に答えた。
「俺は本気で言った。さっさと帰れ。家族が心配してるぞ」
「…心配なんか、してないよ」
　声のトーンが沈んで、俺は杏がもらわれっこだと言っていたことを思い出した。
「今のパパとママはいい人よ。でも、いつか本当の子供ができたら、あたしなんていらなくなっちゃうんだ。だから、あたしが先に家を出るの。その為に、あたし早く大人になりたいんだ。千寿みたいな、大人に。
だって大人になったら、寂しくなって泣くこともないし、小さなことで傷つかなくてもすむでしょう。
　だから、毎晩、神様にお祈りしてるの。早く立派な大人になれますようにって」
　早く大人に。
　胸の奥がざわついていた。
　思い出したくないことを、思い出してしまいそうだった。
「…とにかく、帰れ」
　俺は早口にそういうと、やってきたバスに逃げるように飛び乗った。



　思い出す。
　火狩の家にやってきて、一ヶ月くらいたった時、俺は見知らぬ中学生に苛められた。
愛人の子供だと。
　狙ってか、それは俺一人のときで、相手は三人。勝てるはずもなく、俺はぼこぼこに殴られた。助かったのは、偶然通りかかった大人がいたおかげ。
　連絡を受けて、警察に駆けつけた紅子さんは、俺を恥ずかしげもなく抱きしめた。
「大丈夫だった？千寿」
　だが俺は、その抱擁を、むしろ避けるようにして、曲がった眼鏡を掛けなおして言った。
「平気です。このくらい。なんともないですから。
それより、すみません。迎えに来てもらっちゃって」
「千寿」
　どこか、紅子さんの声は哀しそうで、だから、俺は思わず言った。
「早く、大人になります。早く、おばさんにも迷惑かからないように、すぐに」
　大人になれば、
　火狩の家を出れば、
　そうすれば、俺が愛人の子供ということで、紅子さんを苦しめることもない。
　俺自身も、『火狩千寿』でもなく、『愛人の子供』でもなく、ただの一人の人間になれる。
　だが、紅子さんは、その哀しい表情を、微笑みに変えて、俺を再び抱きしめた。
「馬鹿ね。あなたは、私にとってはいつまでも子供よ。二十歳になっても、四十になっても、可愛らしい子供なのよ」
　今更ながら、わかった。
　俺が、なぜ杏に会いたくないのか。
　それは、杏が、惨めな頃の幼い自分を思い起こさせるからだ。
　神楽と、蘇王と、紅子さんに会う前の。



　溜息をつきながら、家に帰ると、エプロン姿の紗那が俺を出迎えた。
「千寿っ。ねえねえ。一組の野中さんの告白、断ったってほんと？」
「情報が早いな」
　素っ気なく答えると、信じられないっ、と紗那は叫んだ。
「可愛いじゃん、野中さんって。ほんっと、千寿の趣味ってわかんない。
そもそも、彼女いたっけ？
あ、つーか、もしかして、女嫌い？
ってか、まさか、ホモ？」
「人を勝手にホモ扱いするな」
　だいたい、顔だけで男を選んで、振られ続けたのは、どこの誰だ。
　紗那はしゃもじを持ちながら、そのまま俺の部屋までついてきた。
「どうせ千寿のことだから、女はバカだと思ってるんでしょ。まったく失礼しちゃうわよね。で、なんていって野中さんに断ったわけ？号泣してたんだよ、野中さん」
「言わなくても、聞いたんだろ？その口ぶりは」
　一組の野中は、俺が剣道部の練習を始めようと道場に入ってきたところで、突然声をかけてきた。そのうえ、わざわざ道場の脇にまでつれてきて、つきあってほしいと言ったのだ。
『そんな時間、俺にはない。だいたいそんなことで俺を呼び出すな』
　俺はただそう答えただけ。その後、野中がどうしたのか、俺は知らない。返事をしたわけだから、用は終わったと、すぐに踵を返した。
　紗那は、しゃもじを激しくふると、片方の手を腰に当てて、俺に言った。
「だいたいね、冷たいのよ、千寿は。
　だから、天使になれないんじゃないの」
関係ないだろ、それとこれは。
だが紗那は、俺の呟きを無視してひとり話を進める。
「そんなんだから彼女できないのよ。
あ、そもそもよ、千寿ってば、彼女いたことあるわけ？
あ、もしかして、彼女いない歴更新中？」
　どこか嬉しそうな表情を浮かべる紗那に、俺は素っ気なく答える。
「残念ながら今現在、二年半くらいだ。くだらないのがいるよりは、いないほうがましだ」
「なんだ」
　つまらなさそうに紗那が答える。
「お前こそ、失恋記録更新中だろ？」
「ちょっと待ってよ。
　あたしはまだ、右近に振られたわけじゃないからねっ。そこんとこ誤解しないでよねっ」
更にわめこうとする紗那に向かって、俺は部屋のドアを指差した。
「いいから、出て行け。着替える」
「えっ、ちょっとぉ」
「用事は済んだろ？これ以上邪魔するなら、お前のこと痴漢だと右近の前で言ってやるぞ」
　ぶつぶつ言いながら、だが紗那は素直に出て行く。
　ドアの閉まる音を聞きながら、俺はベッドに仰向けになった。
　二年半前、確かに『くだらない』相手だったかもしれないが、俺には恋人がいた。
　ままごとみたいな、相手だったけれど。
　だが、もうおそらく、そんな相手すらできないだろう。
　俺はもう、恋はしない。
　ふいに、フラッシュバックのように、俺の脳裏に、病院の匂いと、白い壁が浮かび上がる。
　温かい陽だまりの中、紅子さんは確かに微笑んでいた。
　だが、その微笑みは、怒りにも、憎しみにも似ていた。
　神楽が握り緊めたカーテンの皺。
　静まり返った病室。
　風に揺れた蘇王の髪。
　女は、信頼できない。
　信頼できるのは、神楽と蘇王しかいないと悟ったときから。