寒い。
　そう思って窓の外を見ると、雪が降り始めていた。
　そうか、雪が降ってるからか、こんなにも寒いのか。
「千寿っ。こらっ、ちゃんと人の話は聞きなさいっ」
　紅子さんの温かい手が、俺の頬に触れて、それから思い切り正面、つまり紅子さんの方へと向けられた。
　隣には、くすくすと笑っているあどけない表情の神楽と、蘇王。
　二人とも、真冬だってのに、半ズボンだ。
「こらっ、あんたたちも人の話を聞くのっ」
　紅子さんは、俺にしたのと同じように、二人の顔も真正面に向けた。
「さあ、いったい誰なの？ここにおいてあったケーキを勝手に食べたのはっ」
　そうだ思い出した。
　あれは小学校一年生のとき。
　母さんが死んで、いくつかの親戚をたらいまわしにされ、最後に俺の手を引いたのが、火狩恭介、つまり父だった。
　そうして、俺が、火狩の家にやってきて、三日目のことだ。
　一週間ほど先に来た蘇王は、もともと人懐こいせいもあり、すでに火狩の家にすっかり馴染んでいて、俺だけが、借りてきた猫みたいに浮いていた頃。
　紅子さんが置いておいたマドレーヌが、勝手になくなっていたことがあって、俺たちはリビングに全員集合させられたのだ。
「正直にいいなさいっ」
　俺の右には、ガキ大将のような神楽。
　左には、鼻たれ小僧の蘇王。
　どうやら、どちらかが家のおやつを無断で食べたらしい。
　俺が、居候の身で、そんなことするわけない。
　仮にするとしても、ばれないようにうまくやる。俺なら。
　だから、何のことかと俺はきょとんとした表情をしていた、と思う。
　ふと、左右の神楽と蘇王がアイコンタクトを交わしたと思った瞬間だった。
突然、神楽に頭を押さえつけられ、俺は頭を下げていた。
　あれ？っと思う俺の耳に、二人の叫び声が聞こえてくる。
「ごっ、ごめんなさいっ」
「僕たちがやりました」
「え？」
　俯いたまま、俺は左右を見る。
　神楽が紅子さんに見えないように、にやっと笑い、小声でいう。
「うちのばばぁ、怒るとこえーんだぜ」
　ばばぁって…、お前の母親だろう、と思ったけれど、神楽はにやりと微笑んで言ったのだ。
「とにかくあやまっておきゃいいからさ」
　反対側で同じように一生懸命蘇王も頷いていた。
　けど、俺やってないし。
　居候だし。
　愛人の子供だし。
　肩身の狭い立場だ。
　だから、俺はなかなか『ごめんなさい』とは言えずにいた。
すると。
「あんたたち、何をこそこそ話してるのっ」
それまでは温和だった紅子さんの態度が、そこでがらりと変わった。
　その形相は、鬼よりも恐ろしかった。
　美人と般若の顔は、紙一重。
　どこかで読んだその言葉を俺は思い出した。
「ごっ、ごめんなさぁいっ」
　誰が号令を書けるわけでもなく、俺たちは頭を下げた。
　謝ったくらいで済むなら、その方がましだ。
　だが、次の瞬間、紅子さんは俺たちの頭を、グーで殴った。
　かなり本気で。
「ってぇっ」
「ひぃっ」
　頭を抱えて転げまわる神楽。
　しゃがみこむ蘇王。
　そして、あまりの痛みにふらついた俺。
　痛みは同じだったんだと気づく。
「まったく、三人がそろいもそろっていたずらしてっ」
　なぜだろう。
　そのとき、俺は涙を流していた。
　そんな俺を見て、般若のお面だった紅子さんの表情が、また変わった。
「あれれ？千寿。痛かった？」
「いいえ…、あの」
　大丈夫です。
　そう言いたいが、涙がぽろぽろ流れてきて、うまく言えない。
　隣で神楽が暴言を吐く。
「紅子が馬鹿力なんだよっ」
「うるっさいわねっ、神楽っ」
　にらみ合う母子の脇で、突然別の泣き声が上がる。
「うわーんっ」
　突然蘇王が、鼻水まで垂れ流しの状態で泣き喚いていた。
「あれ？蘇王まで」
　気づけば、蘇王は俺の左手をしっかりと握り締めていて、
　俺の右手は、少しふくれっつらで涙目の神楽がしっかりと掴んでいた。
大きく溜息をつき、紅子さんは屈んだ。
「もう、しょうがない子たちねぇ」
　そういうと、俺たちをぎゅっとやさしく包み込んでくれた。
　その温かさ。
　柔らかな匂い。
　思い出しても、鼻が少し痛くなる。
　俺は一人じゃなかった。
　このとき初めて、俺はそう思えた。
　俺には、神楽と、蘇王がいて。
　何より優しい紅子さんがいる。
　そして、俺は神に誓ったんだ。
　どんなことがあっても、この三人だけは守る。
　何があっても。



　何かが動いた気がして、俺はゆっくりと目を開けた。
そういえば、昨日はあの神楽の言葉が気になって、結局あまり眠れなかった。
授業中もウトウトして、このままだと練習しても、意味がないと、顧問が休みなのをいいことに、俺は部活を休んで、この図書館で眠ることにしたのだ。
　体を起こし、俺はまだ半分寝ている頭をそっと揺らす。
　やな夢だった。
　いや、実際にはもちろんあったことだけど。
　こんな時に、父が再婚をしようとしている時に、見るなんて。
　否だからこそ、見たのかもしれない。
　大きく伸びをしようと思った俺は、そうして誰かが俺の右手を握っていることに気づいた。ふいに右を向くと、机に伏せるようにして、こちらを見ている杏がそこにいた。
「何、やってんだ」
　慌てて手を離すと、杏はなぜかにっこりと微笑んだ。
「だって、千寿。泣きそうな顔してるから」
　それはっ。
　夢の中で泣いていたからなどと、高１の俺が、小５の杏に言えるわけもなく、俺は思わず黙り込む。
　杏は、そんな俺に向かって、得意げに続けた。
「それにね。手を握り返したのは、千寿だもの」
「それはっ―」
　夢の中で、などとはもちろん言えない。
　そういえば、神楽の手の感触は、妙にリアルだったようにも思えた。
　杏は相変わらずニコニコと笑っている。それが、小ばかにされているように思え、俺は慌てて立ち上がった。
「ガキはさっさと家に帰れ」
　鞄を掴み、出口へと向かうが、杏も俺にしっかりとついてくる。
「今日は宿題ないの」
「だったら、クラスメートとでも遊べばいい」
「子供なんかと遊んでもつまらないもの」
「だったら…」
　四十センチも下からまっすぐに見つめられ、俺は戸惑う。
　否、何を戸惑うことがあるんだ。
　さっさと振り切ればいいのだ。
「恋人でもつくればいいだろう。サラリーマンの」
　思いつく限りの厭味を、だが杏は厭味とは捕らえなかった。
「…好きな人なんかいないもん。だって、大好きだった人は…」
　ふいに俯いて、杏は言葉を飲み込んだ。
　大好きだった人が？
　思わず先を聞きたくなり、少しかがむと、狙っていたかのように、杏は顔をあげ、ぱっと明るい笑顔を向けた。
「ね、千寿。初恋っていつ？」
　は？
「千寿の初恋っていつだった？誰だったの？相手」
　そのとき、何故か俺が思い浮かべたのは、小学生のときに優しくしてもらった先生でも、中学時代におままごと程度に付き合っていた女でもなく、紅子さんだった。
「ガキはさっさと、帰って寝ろ」
　吐き捨てるように俺はそう言うと、杏を振り切るようにしてやってきたバスに飛び乗った。
　まったく、変な夢なんて、見るもんじゃない。