「よう、火狩」
「安東さん…。どうしたんですか、その怪我」
　いきなり練習中に、道場に現れた安東に、俺は素振りする手を止めた。
　東郷高校の安東は、県下では無敵とも言われる剣道の選手だ。
　俺が、夏の県大会の準決勝で負けた相手。おかげで俺は、三位という結果になった。ちなみに、この県大会で安東から一本取れたのは、俺だけだ。
　安東は、右手の白い包帯を隠すようにして、俺に小声で話をした。
「うん、ちょっとな。お前、時間あるか？」
　練習は、まだ続いていたが、顧問は会議が延びたとかでまだ来ていなかった。周りを見回しても、誰も俺をとがめる部員はいない。
　神楽にまだ例のことを伝えていないこともあり、昨日の杏のこともあり、俺は練習に集中できずにいた。
「まあ、いいですよ」


「道場荒らしの話、聞いたか？」
　安東の突然の話に、この前塚越から聞いた話を思い出して、口にする。
「この辺りの高校に出没しては、勝負を挑むやつがいるとか？」
「そう。しかも、名前は言わないし、面を外さないから、どこの誰だかもわからない」
　悔しそうにそう呟いた安東は、無意識なんだろうか、左手で右手の包帯を押さえる。
　その動作に、俺はひとつの仮説を立てる。
「…まさか」
　俺がそう呟くと、少しだけ恥ずかしそうに笑い、それから悔しそうな表情をして、安東は小さく頷く。
「ああ」
　この怪我は、そのときの負傷だ。
　安東はそう言って溜息を着いた。
「俺もな、はじめは冗談かと思ってたんだが、まじでやってきたんだ。
しかも、えらく強かった。
一応、俺も戦ったんだけど、歯が立たなくて、小手をとられて、でもって、コレだ」
　そういって、白い包帯を俺に見せ付ける。包帯の中心は明らかに手首だ。
「全治二ヶ月。骨にひびはいっちまってさ」
　全治二ヶ月、ということは、今度の大会での安東の出場は絶望的ということになる。安東は、小さく溜息をついて、空を見上げた。
「だから、今度の試合は、出場できなくなった。せっかく、お前と戦うのが楽しみだったのによ」
「…俺も、夏の恨みを晴らそうと思ってましたよ」
　ハハッと乾いた笑い声を上げたあとで、安東はふいにまじめな顔になって、俺を見据えた。
「お前、じゃねぇよな」
　冗談だと流せるような雰囲気など、全くない。
「どう言う意味ですか」
　あらぬ疑惑を掛けられても、それをそのまま許すほど、俺は優しい人間ではない。
　そうだよな、と安東は安心したように言ってから、実は、と続けた。
「似てたんだ。攻め方とか。最後まで面外さなかったから、顔もわからなかったし。
　今回の道場荒らしの犯人は、別に凶器を持って現れたわけでも、部員を襲ったわけでもない。あくまでも、試合中の負傷だからってんで、警察に被害届も出せない状態だから、たぶん捕まえられることはないだろう」
そういうと、安東はにっこりと笑顔を見せて、怪我をしていない左手で、俺の肩をぽんと叩いた。
「ま。お前もせいぜい気をつけろよ。手加減はしないほうが自分の為だぜ」



「安東さん、どうしたって？」
　道場に戻ってくると、興味深深といった様子で塚越が近づいてきた。
「怪我、したらしい」
「え？」
「今度の大会は出場しない、だと」
　一瞬の間をあけて、塚越は両手で俺の肩を思い切り掴んだ。
「やったな、千寿っ。
これで今度の試合、お前の楽勝だぜ」
　いやっほーいっなどと奇声を上げる塚越を横目に、どこかで安心して、けれども素直に喜べない自分がいた。




　葉月家に帰ると、夕食の匂いのするリビングに、珍しく神楽がいた。
「おかえり、千寿」
　声までどこか明るい。食事の準備を手伝っているのか、手にはさやえんどうまで持って、神楽は俺を迎えた。
「帰ってたのか」
「まあな。たまにはさ、おばさんの手伝いでもすっかな、と思って」
　どうやら神楽は、さやえんどうの筋取りを頼まれたらしく、慣れない手つきで、一生懸命とっていた。
　いつまでだったろう。
　神楽が、火狩の家で、こうやって食事の手伝いをしていたのは。
　たまに、紅子さんが忙しそうなときとか、疲れてそうなとき、神楽はこうして自ら手伝っていた。
　その風景を見て、俺はよく自分の母親のことを思い出したものだ。
「つーかさ、紗那の奴がうるさいんだよな」
　わざとらしく張り上げた神楽の声が、俺をセピア色の思い出から目覚めさせる。
　と、同時に、どかどかと足音がして、
「何ですってっ。神楽っ！」
と紗那が顔を出してきた。
　エプロン姿、右手にはお玉。
　また珍しいことに、紗那が家事を手伝っているようだ。
「お前、今度は右近の料理になにか仕込む気だろう…」
「ちょっと、何よっ、千寿までっ。
あたしは、だってね、そのっ、ちょっとくらいは料理できるようになりたいなっ、って手伝ってるだけよっ」
「…わかりやすすぎだ。だいたい、お前は状況がまずくなると、どもりがちになるってことに気づいてないんだろ」
「え？嘘っ？」
　思わず両手で口を押さえた紗那を見て、神楽がケラケラと笑う。
「紗那ってば、ほんとバカだな。そうやって、千寿のかけたカマにひっかかってやんの」
「え？はっ！
　ちょっと、千寿！いい加減にしてよねっ、そうやって人をからかってばかりいるから、天使になれないのよっ」
　頭のどこかが一瞬、ぶちっと切れそうになるのを押さえ、俺は冷静ぶった声で言う。
「それは関係ない」
　ちょうどそのとき、おばさんの声がダイニングから聞こえてきた。
「紗那ちゃんっ、ちょっとこっちに来てくれる？」
　どこかおばさんの声まで甲高い。
　まあ、そうかもしれない。
　せっかく二世帯の一戸建てを立てたのに、祖父さんは亡くなって、祖母さんは、ホームに自ら入り、夫は単身赴任で不在、長男と長女も家を出て一人暮らし。
　広い家に、紗那と二人きりだったのが、いきなり息子のような居候が四人も増えて、しかも手伝ってくれるなんて。
『本当よ。息子が突然二人も増えて、本当に嬉しいのよ』
　ふいに、小学生の頃、友達にそう答えていた紅子さんのことを思い出した。
　どうも最近、昔のことをよく思い出す。
　俺はこんなに回顧主義者だったろうか。
「はぁいっ。今行きますっ、それじゃね。
　神楽は、ちゃんと筋とってよ。
　千寿も、早く着替えて手伝いしてよね」
　そう言った紗那の後姿にあっかんべーを舌を出した神楽だったが、ふいに足元から、ミャ―という猫の鳴き声がして、そこから神楽は左近をひょいっと拾い上げた。
「お、左近っ。お前、メシだけもらうって魂胆だろ？ずうずうしいヤツだな。女のずうずうしいのは紗那で十分だぜ。
　けど、お前は特別な。ほれ、やるよ」
　神楽はそういうと、手にしていたさやえんどうを、左近の目の前に差し出した。
　左近はニャーと愛らしく鳴き、手を伸ばすと、捕まえる直前でそのさやえんどうが勝手に宙に浮く。
「はっはっは、なんて冗談っ。取れるもんなら取ってみやがれっ」
　どうやら神楽は例の“ギフト”の力で持って、さやえんどうを動かしているらしい。
　初めはびっくりしていた左近だったが、そのうちに手を伸ばして、何とかそのさやえんどうを捕ろうとしはじめた。
　神楽は、俺たち兄弟の中で、唯一覚醒をした。
　どうやら、覚醒をすると、この能力は格段にパワーアップするらしい。
　俺も、蘇王も、大きな力を突発的に使うことはできるものの、こうしたコントロールを必要とする小さな力は、まだうまく使うことができない。
　ふと思い出したように俺は神楽に尋ねる。
「蘇王は？」
「まだ部活だろ。右近は帰ってきてるけど、例のごとく、部屋に篭もってる」
　紗那もおばさんもキッチンで料理中。
　蘇王はまだ学校。
　右近は部屋。
　そして、神楽の機嫌は上々。
　例の再婚話、するなら今がちょうどいいのかもしれない。
「神楽…」
「何だ？」
「実は…」
　父さんのことなんだが、と言おうとしたところで、一際大きな鳴き声がリビングに響いた。
「ニャア」
　どうやら、到底手の届かないところにさやえんどうを持っていかれた左近が、犯人である神楽に訴えたらしい。愛らしい茶色の目で睨まれた神楽は、無邪気な笑顔を見せ、左近の頭をなでた。
「悪い悪い、左近。ほれ、ちゃんとやるから」
　そう言って、神楽が差し出すと、左近は小さくニャと鳴いて、さやえんどうに飛びついた。けれど、味はいまいちだったらしく、一口噛むと、それを吐き出して、二、三歩後ずさりをすると、座って、もう一度ニャアと鳴いた。
「何だよ、まずかったのか？さやえんどう。好き嫌いが多いところも、ほんと紗那に似てるよな、お前って」
　神楽はそういうと、棚の中からキャットフードを取り出し、ふいに俺のほうに振り返った。
「悪い、千寿。今何か言いかけなかったか？」
　急に話をふられた俺は、慌てて、話を変える。
「あ、ああ。
お前に一度聞きたかったんだ。どうして、右近をこの家に呼んだのか」
俺からすれば、右近は紗那の片思いの相手。
ともすれば、神楽のライバルにもなりかねないというのに。
急に静まり返ったリビングで、ただ神楽がキャットフードを皿に入れる音だけが響いた。
「…俺と同じだったから」
　呟くようにそういって、神楽は恥らうような笑顔を見せる。
「ついでにいうなら、左近も同じかな」
　俺が黙っていることが、説明を求めていることなのだと神楽は思ったらしい。皿を左近に差し出して、その背をなでると、小さく吐息をもらして呟いた。
「つまりはさ、帰るところがないってこと―」
「そんなことはない」
　神楽の言葉を遮って、俺はすぐさま否定をした。
　一瞬だけ、神楽の笑顔が泣き笑いに思えたのは、俺の幻だったのだろうか。
「…サンキュ、千寿」
　神楽はそういうと、椅子に座り、再びさやえんどうの筋取りを始めた。