「ありがとうございました」
　一礼をし、皆がいっせいに面を取ると、汗臭い匂いが道場に広がった。手ぬぐいで汗を拭いていると、同じく剣道部の塚越が声をかけてきた。
「おつかれ千寿」
「おつかれ」
「県大会まであとニ週間だな。けど、お前あんまり調子よくないみたいだな」
　自分でも思っていたから、何も言えなくなった。
「このままじゃ、東郷の安東に勝てねぇぞ」
　俺は、夏のインターハイ県予選の、準決勝で東郷高校二年の安東に面を取られて負け、そして三位に甘んじたのだ。
　思っていたことをそのままに言われて、俺は黙り込んだままに、胴や垂を外す。
「女？」
　塚越が、からかうように言った。
「違う。余計な詮索するな」
「お前、最近葉月と仲いいもんな」
「あんなガキを相手なんかに思うな。それにあいつは今片思い中だ」
「え？誰に？」
　塚越のにやけた顔が、一瞬本気になった。
　紗那は、黙っていればまだましな女に見えるためか、時々こういった男がいる。しかも血迷った男などは、紗那に告白をし、デートをし、結果、本性に気づいて三週間ほどで別れを切り出す。
　まさか、塚越も同類だったとは。
「お前の知らない他校生だ。でも、あれは失恋か−」
失恋確実だと言おうとした時、道場の入り口に群がっていたうちの中等部と初等部のガキが、こっちに目掛けて走ってきた。
「千寿さまっ」
「練習おつかれさまでしたっ」
「どうぞタオルですっ」
　あー、うるさい。
　邪魔だ、このガキども。
いつものことだと思いながら、俺は、無言で差し出されたタオルやら、差し入れやらを、はらいのける。
　こんなとき、蘇王だったら笑顔で全部受け取るだろうし、
　神楽だったら、相手をして、それなりの結果を得るかもしれない。
が、俺には不用。むしろ、邪魔。
「あ、待ってください。千寿様」
　そもそも、その呼び方、やめてくれ。
そう思った俺の視界に、見覚えのある顔が飛びこんできた。
「あっ」
　思わず俺は、大声をあげる。
　俯いていたその顔が、俺の方を向き、目が合ってまずいといった表情を浮かべた。
　昨日は妙にちぐはぐに見えたけれど、初等部の制服を着て、ランドセルを背負えば、ちゃんとした小学生のガキだった。



　部活が終わって、帰ろうと校門をくぐるとそこに例のガキがいた。俺を見つけると、寄りかかっていた校門から、背を起こした。
　無視して通りすぎようとすると、ガキは俺の後をついてくる。
「…名前は？」
「那珂川、杏」（ナカガワ　アン）
「俺のこと、知ってて昨日−」
声掛けて、おやじ扱いしたのか？
　と聞く前に、杏は勢いよく頭を下げて大声で言った。
「お願いっ、昨日のことは学校には黙っててっ」
「エンコーしてることか？」
「してないっ。千寿を逆ナンしたことよ」
　何で勝手に俺のこと、名前で、しかも呼び捨てなんだ？
「俺に声をかけて、どうしてそれを学校に黙っておかなきゃならん」
　杏は足を止め、俯いた。カラーリングすら本物の黒髪が、さらさらと揺れた。その艶やかさに、思わず俺も足を止める。
「それは…。諸事情があるの」
　ふーん。ガキの事情ね。
　どんな事情があろうとも、俺には関係ない。
「あ、待ってよ」
　再び歩き始めた俺を、杏はそれでもついてきた。
「別に誰に言うことでもないから、安心しろ」
「そうじゃなくて…もうちょっと、お話してよ」
　左腕を掴まれて、俺を一生懸命見上げる瞳が、妙に頭に残る。だが、俺にそういう趣味はない。
「ガキはさっさと家に帰って、勉強でもしてろ」
　そう腕を振り払うと、それ以上杏は俺に着いてこなかった。
　ただ、一瞬だけ見せたその表情は、捨てられた子犬のようで、何故だか脳裏に強く焼きついていた。




　結局、神楽に伝えることもできず、また天使になるための覚醒の方法もわからず、一日が過ぎようとしていた。
　ホームルームが終わり、大きく溜息をついた俺を、蘇王が教室から出たところで捕まえた。
「待てよ、千寿。俺も一緒に帰る。今日は部活休みなんだ」
　思えば、こうして蘇王とのんびりと街を歩くのも久々だった気がする。
　蘇王はその運動能力を買われ、サッカーやバスケなど五つの部活を掛け持ちしているせいか、授業以外の時間は、ほぼ部活に取られている。
　ＣＤを買いたいと言う蘇王について、俺たちは駅ビルに入った。
「あ。これこれ〜」
蘇王がそう言って手にしたのは、ブリブリの笑顔をふりまくアイドルのアルバム。
「えみるちゃんの最新作」
　兄弟として認めたくないが、蘇王は花岡えみるという今時珍しいブリブリのアイドルの大ファンだ。部屋にもポスターが貼られているし、出したＣＤはもちろん、写真集も全部持ってる。
　気持ちが悪くなりかけて、俺は慌ててサントラのコーナーへと向かう。
　別に邦楽が嫌いなわけでも、洋楽が駄目なわけでもないが、俺は声のない音楽が好きだ。多分、頭をからっぽにできるからだと思う。
　レジでお金を払った蘇王が、俺を見つけてやってきた。
「悪いな。あ。千円多い」
つりを財布にしまおうとしていた蘇王が、急にそう呟いた。
　ラッキー。
そう言って、さっさと財布にしまうと思った蘇王は、何を思ったのかその千円札を店員に返した。
「これ。なんか大目にもらったみたいなんで」
「あっ、すみませんっ」
　呆然としてる俺に、蘇王は満面の笑みを浮かべていた。


店を出て、下りエスカレーターに乗りながら、俺は蘇王に言った。
「馬鹿だな」
「どうして？」
「もらっておけばいいものを」
　ミスをしたのは店員だ。店員が、悪い。
　だが蘇王はふふんと笑うと堂々と言った。
「まあ、これも一日一善ってヤツ？」
「…実行、してるのか？」
「うん。だって、神様ってどこで見てるかわからないしさ。それに、結構感謝されるのって気分いいぜ。あ−」
　蘇王の叫んだ先には、大きな荷物を抱えて、それでも階段を登ろうとしている婆さんがいた。
「大丈夫ですか？」
　蘇王は慌てて駆け寄ると、荷物を持って、階段の上まで上がった。
「ああ、ありがとう」
「どういたしまして」
　笑顔で答えた蘇王は、そのままの笑顔を俺に向ける。そうして、階段を駆け下りて、信号待ちをしてる俺の隣にやってきた。
「千寿もやってみりゃいいんじゃねぇの？」
　馬鹿もの。
　そんなことで天使になんてなれるわけないだろう。
「お前な−」
　そのとき、どちらともなく動きを止めて、俺たちはあたりを見渡した。
　天気は良好だ。
　だが、街全体を何やら暗雲のようなものが取り囲み始めた気がした。
『シアイ、カイシ』
　ふいに、底なしのような低い声が、俺の胸に響く。
　ゲーム？
　あたりを見回してみたが、思い当たるような人間は見当たらない。
　なんだったんだ？
　すると、車のクラクションを響かせながら、道路の真ん中を大型トラックが走っているのが見えた。
　無茶な車線変更に周囲からクラクションが響いていたのだが、行く先には赤信号があった。妙な胸騒ぎを覚えながらも、止まるだろうと言う常識的な予想に反して、そのトラックは、突然赤信号のスクランブルに突進していった。その様子を見て、蘇王が呟く。
「まずいぞ、おい」
『助けてくれっ』
　ふいに、その言葉が俺の脳裏に過る。
　さっきとは別の聞いたことのない男の声。
　だが、振り返っても、そんなやつはいない。
　なんだこれは、と思っていると、今度は、
『ブレーキがきかないっ』
　という言葉も聞こえてきた。ふと隣の蘇王を見たが、蘇王にその言葉は届いていないようだ。
　響き渡るクラクションの中で、そのトラックは大きくハンドルを切って、歩道に乗り上がろうとしていた。
　当然のことながら、歩道には何人かの人がいる。そこで大きな悲鳴が起きた。
　慌てて逃げ惑う人の波。皆が必死で同じ方向に逃げようとしているためか、当然のように、押されて転ぶ人間がいる。俺の目に、真っ赤なランドセルがすてんと転ぶのが見えた。
　そして、一人取り残されて、起き上がったその顔は、紛れもない生意気な小学生、杏だった。
「キャーッ」
　暴走するトラックの目の前には、転んで動けなくなった少女。
　その様子に気づいた観衆から、声が上がる。だが、誰も動けずにいた。
　危ないっ。
　思わず手を握り締めてそう強く願った瞬間、俺は自分の体が熱くなるのを感じた。
　そして、次の瞬間、俺はクラクションの鳴り響く中で、杏を抱きかかえて、横に飛んでいた。
　強風が舞い、そうしてトラックは、そのまま俺の後ろにたっていた街路樹にぶつかる。ものすごい音がして、トラックは白煙を上げて、ようやく止まった。
「ふぅ」
溜息をつくと、自分の胸の中で震えている杏がいた。目が合うと、杏は震える口を開いた。
「千寿…」
　そのとき、またも低い声が、俺の脳裏に響いてきた。
『…シアイ、シュウリョウ』
　何だ？この声は？
「大丈夫だったか？千寿」
　遠くで見ていた蘇王が駆け寄ってきて、俺にそういう。ああ、と答えて俺は立ち上がると、いまだ不思議な熱を帯びた手を握り締めた。
　蘇王がいた場所から、ここまでは約五十メートル。
無意識ではあったが、それを瞬時に飛んでいた、確実に。
　いわゆる“ギフト”の能力で。
　妙に荒ぶる呼吸を抑えて、俺は周囲を見回した。だが、誰一人として、俺の行動を不審がっているような人間はいなかった。
　とりあえず、問題なし。
だが、今後は気をつけなければ。誰かにばれたら、それこそ大騒動になる。
「ごめんなさい、千寿」
　杏はそういって、蘇王に腕を取られながら立ち上がると、いまだ震える声で謝った。
　謝ってすべてが許されるのであれば、この世は、もっと住みやすくなっている。
思わず使ってしまった能力を悔やみ、杏を無視した俺を尻目に、何も知らない蘇王が言った。
「怪我してんじゃん。その子。知り合いなら、送ってけば、千寿」
「蘇王…」
　知り合いでもなんでもない。
　そう俺が説明をするまえに、蘇王はバカがつくほど晴れ晴れとした表情で言った。
「一日一善っ」



　生意気な口を利くとはいえ、杏はやはり小学生で、背中におぶると思った以上に軽かった。
　杏の家がここから歩いて十分ほどだったせいもあり、結局俺が杏を送ることになった。
　背中にやわらかく温かい感覚を覚えながら、俺は言う。
「不注意に立ち止まるから転ぶんだ」
「だって。千寿が立ち止まったから」
　ちょっと、待て。
　ということは、だ。
「俺のこと、つけてたのか」
　しばらく沈黙があって、杏の声がダイレクトに俺の左耳に響く。
「…うん」
　素直な声は、そのまま俺の心へと、ゆっくり響く。
　どうして。
　ふいにそう尋ねたくなったが、そうすれば、杏はもっと俺に懐く。そうしてそれを、俺は望んでいない。
　だから、俺は冷たく言った。
「お前はストーカーか」
「だって−」
「この先はどっちだ」
　ちょうどＴ字路の中央に立ち、俺が尋ねると杏はその小さな手で右を指した。
　しばらく無言で歩くと、見えてきた赤い屋根を指し、あれが家だと杏が言った。
　俺はそこで足を止め、手を離し、杏を下ろした。
「ここまででいいだろ？」
　俺は、早く杏から離れたかった。離れなければならないと、感じていた。
だが、杏は、小さく頭を振る。
「歩けない。手当てもできない」
「母親がいるだろう。頼め」
　溜息だけ残し、帰ろうとした俺に、杏が小さく、だがはっきりと言う。
「いないもん」
　今時、片親など珍しくもない。第一、俺は母子家庭だった。
「…じゃあ、父親でも祖母さんでもいい」
「全部いないもん」
　きっぱりという杏の声は、決して悲しんだりはしていなかった。その妙なプライドのようなものに、俺は何かを思い出しそうになる。
　これ以上、踏み込むな。
　警告を感じ、俺が慌てて杏に背を向けようとする前に、杏がそれまで伏せていた顔を上げた。その凛とした表情は、まるで大人の女性のようだった。
「もらわれっこなの。あたし」
　そのとき、道の反対側から歩いてきた買い物袋を提げた女性が、杏に気づいて声を上げた。
「あら、杏ちゃん。お帰りなさい。どうしたの？その怪我」
　杏はさっとスカートですりむいた膝を隠す。
「なんでもない」
「でも、血が出てるわ。手当てしなきゃ」
　おそらくは里親であろう女性は、そうして杏の手をとると、さっさと家の中に入ろうとした。素直に従う杏だったが、ただ、家の中に入る瞬間だけ、俺に振り向いて言った。
「ありがと、千寿。またね」
　だが俺は、それには答えなかった。