「やっぱ一日一善しかないでしょっ」
「一日一善？」
　満面の笑みを浮かべて、家主の娘、兼クラスメートの紗那は、居候である俺たちに自信たっぷりに言った。
　ちなみに本当の家主である紗那の母親は、現在長電話中。
「そ。今まで悪いことしてきたあんたたちが、天使になるためには、やっぱいいことしてかないと、駄目でしょ。
　だから、一日ひとつ、いいことするってわけ。
　そしたらきっと神様も認めてくれて、あんたたちを天使にしてくれるわよ」
　ふう、と大きく俺たちは溜息をつく。
　夕食も食べ終わって、一息つきたい俺たちをつかまえて、何の話をするのかと思えば。
「何よ、その態度っ」
　紗那はすぐに膨れた。いつものごとく食事を終えた右近は部屋に篭っている。
「小学生みたいなこと言ってんじゃねぇよ」
と神楽。
「だいたい、そんな悪いことしてきてねぇし」
と蘇王。
　俺に至っては、絶句していた。
　肩をいからせる紗那を無視して、蘇王がテレビの電源を入れた。
「さぁさ、テレビでも見よっと」
「あ、俺。明日デートする女に電話しないとっ」
「宿題あったよな」
　それぞれに立ちあがった俺たちに、紗那は家中響き渡るほどの大声を上げた。
「ちょっと、ちょっと待ってよ、あんたたち。あたしはあんたたちのために−」
「小さな親切大きなお世話」
「お前に指南されるものじゃない」
「そゆことそゆこと」
ドアに手をかけた神楽。
部屋に戻るべく立ちあがった俺。
テーブルのクッキーに手を伸ばした蘇王。
　紗那は慌てて、神楽と俺の前に両手を広げて立ちふさがった。
「ちょーっと、ちょっと待ってよっ。
　もうひとつ。いい作戦があるのよ。
　その名も、『キューピット大作戦』。
　自分から天使になっちゃうっての、ど？」
　葉月紗那という女は、どうして、こんなに利己的で、パワフルなんだろうか。
「…それって、紗那と右近をくっつけろってわけ？」
「つくづく自己中な女」
「だいたい、キューピットと天使は別物だ」
　最後の俺の一言が聞いたのか、紗那は鳩が豆鉄砲をくらったような顔になる。
「え？そ、そうなの？千寿」
　その一言が合図になって、俺たちはそれぞれの行動に移った。



　高校に入ったくらい、俺たちはそれぞれに不思議な力を持っていることに気づいた。でもその理由を特に考えることもなく、過ごしていた俺たちの前に、答えを伝えに来たのが、榊であった。
「俺たちは天使だ」
　榊は、俺と神楽と蘇王、そして同じ能力を持つ右近を前にそう言い、半ば呆れた俺を尻目に、その先を続けた。
「俺たちは人間として、生を受けた。神様がくれたギフトを持って。それが、俗に言う超能力だ」
　天使であるかはともかく、超能力に芽生えていた俺たちは、そこで榊をある意味信用した。
　俺たちの力のことを知っていたのか、と。
　だが、その反面、超能力と、天使とのつながりに、不審感を抱いた。
　それに答えるように、榊は、話を続けた。
　そう、まるで、それが神からの伝言であるかのように。
「同時に、神様は俺たちのシャドーも作り上げた。シャドーとは、俺たちの半身だ。
　天使に覚醒するには倒さなければならない相手のことだ。
　シャドーを倒し、覚醒し、天使となった時、俺たちは、神様からの指令を受けることができる」
　勿論はいわかりました、などと答えるわけもなく、まず神楽が、天使であることそのものを拒否した。けれども、そんな神楽に榊はまるで脅迫でもするように言った。
「シャドーを倒さない限り、お前は耐えずシャドーに襲われつづけるぞ。
　シャドーの目的は、お前と入れ替わること。シャドーとはその名前の通り、影。お前の影だ。いつかは表に立ち、光になりたいと願う、影だ」
　実際、二週間ほど前に神楽が変な男に狙われたことがあった。
　榊の言葉を借りれば、それこそが神楽のシャドー。
　そして、そのシャドーを倒した神楽は、すでに大きな翼を持つ天使となっていた。右近も同じく。
仲間は、他に貴羽と、まだ見ぬ一人。
　覚醒していないのは、俺と蘇王だった。
　どうすれば、覚醒できるのか、そう問いかけた蘇王に、榊は自嘲気味に笑いながら答えた。
「ほっておいてもシャドーがやってくるさ」
それ以上、榊はこのことは話そうとはしなかった。
俺のシャドーは、いつ、どんな風にして、俺に戦いを挑んでくるのだろうか。




「ふう」
本を閉じながら俺は溜息をついた。休日の図書館は、やはり人が多い。
　だいたいのことは整理ついてたんだが、やっぱり謎が多い。天使についての文献も、思った以上の量があり、しかもそれを把握できたとして、それで俺はシャドーを倒せるわけでもない。
　だが、おそらくは、こういうことなのだ。
　人間という存在がある。
　善人もいれば、悪人もいるように、それぞれ、善悪を兼ね備えた存在だとすると。
　善の集合体は、天使であり、
　悪の集合体は、堕天使である。
　堕天使とは、すなわち悪魔のこと。
　神、という存在があって、
　何の因果かある七人の人間に特殊な能力を与えた。
　それは、超能力ともいう、いわば選ばれた能力。
　神は、常に公平であるはずだから、その七人にプラスの要素を与えると共に、試練も与えた。それが、シャドーの存在。
　シャドーとは選ばれた七人それぞれの分身。あくまで影であるために、本人に成り代わりたいと願う存在。
　…とすれば、つまりは、こうなのか？
　天使に昇華するためには、そのシャドーを倒さねばならないのだとしたら、
　そのシャドーに負けてしまった場合、その人間は堕天使となる？
頭の中に、ふいにシーソーが描かれた。その片方には天使、もう片方には堕天使がいる。そして、真ん中のプラスマイナスゼロが人間。
　つまり、どっちに転がるのか、試されているのか。神に。
　その前に、そもそも神様なんて、存在。あるのだろうか。
「…ねぇ…」
　俺は、何を、神に祈っただろうか。
「…ぇねぇっ…」
　神を、信じたことが、あっただろうか。
「ねえっ、ねえってば。オジサンッ」
ふいに、俺はシャツの袖をつかまれ、立ち止まった。振り返ると、小学生くらいのガキが俺の腕を掴んでいた。
「さっきから声かけてるのに無視しないでよ」
　不思議なガキだった。
　言葉遣いや、微妙に見せる怒った表情は大人びていたし、服装もタートルにスカートで、フリルや余計なものが一切なくて、シンプルな色使いは大人っぽいくせに、肩で揃えたストレートの黒髪や、俺をまっすぐ見つめるつぶらな瞳は、ひどく幼い。
　そして、その黒い瞳は、どこか力があり、俺は吸い込まれていくように感じ、途中でハッとした。
　こいつは、ただのガキだ。
　ガキはもともと嫌いだし、相手にするほど俺は暇ではない。
「背が低すぎて気がつかなかった」
　百八十の俺は、百四十センチそこそこのガキに言う。軽く腕を払い、横断歩道を渡ろうとすると、それでもそのガキはくっついてきた。
「それってセクハラよ」
　セクハラの本当の意味を、こいつは知ってるんだろうか…。
溜息をついて、先を歩くと、それでもガキはついてきた。
「ねえ、ちょっと待ってよ」
「何だ。こっちだって忙しい」
　反応したのがまずかった。
　ガキは、にこっと笑顔を見せると、俺を三十センチ以上下からまっすぐ見据えた。その強い視線に、気を止めたところで、ガキはぎこちなく笑みを浮かべる。
「あたしと、遊ばない？」
　思わず足が止まったのは、その気になったからじゃない。
　あきれ果てたから。
　こんなことで、貴重な時間を費やすわけにはいかない。
俺は、無視してさっさと横断歩道と渡る。それでもガキは走りながらついてきた。
「ねえ、待ってってばっ」
息も切れ切れ、それでも俺についてくる。
　何なんだ、このガキ。
「どうせ久々の休日なのに、遊んでくれる彼女もいないんでしょ？
　あたしは、そんな寂しいサラリーマンに愛を与える天使ってわけ」
　サラリーマン…？
　それから、天使だと？
　ぶちっ、と。
　俺の中で、何かが切れた。
「ちょっと前までオムツしてたようなガキに興味はない」
「なんですってぇ。あたしは立派なレディーよっ。この前、ちゃんと生理だってなったの−」
　慌ててガキは口を閉ざしたけど、周りの人間は、興味ありげにガキを見ていて、その顔は恥ずかしさで、瞬く間に赤くなっていった。
　レディーが、そういうことを、大声で言わないだろう、普通。
「ガキがエンコーしてんじゃねぇよ。さっさと家に帰れ」
「ちょっとオジサンってば−」
「それから、人をオヤジ呼ばわりするな。まだ十六だ」
　俺はそこからスタスタ歩き、そのままガキを振りきった。
　まったく、このところついてない。



「ただいま」
　母親は小さいときに亡くした。
　父は、今アメリカに転勤。あと二ヶ月ほどで戻ってくる。
　その間、俺は腹違いの兄弟と共に、紗那の家に居候している。その紗那が、玄関のドアが閉まるのに気づいてか、顔を出してきた。
「おかえりっ…なんだ。千寿か」
俺の顔を見た途端に、正直過ぎるほどがっかりした表情を見せる。
　紗那は、それほどまでにわかりやすい女だ。だがそれが、無性に俺の気持ちを逆立てた。
「デートでもしてんじゃないのか、右近」
「違うわよっ。むかつくっ、千寿っ！」
怒鳴り散らす紗那を無視し、俺はニ階の部屋に行き、ベッドに倒れこんだ。
　大きく伸びをすると、同時に溜息が出た。
　最近の俺はついていない。
　天使のことといい、
　今日のガキといい。
　すべての元凶は、父からの困った報告かもしれない。


　それは、つい一週間ほど前にさかのぼる。
「結婚しようと思うんだが」
　初め、電話越しに言われた俺は、まず言葉を無くした。
　そもそも、父には、まず正妻であり、神楽の母親である紅子さんがいた。
　が、父は、紅子さんが妊娠した頃、俺の母親と、蘇王の母親とも浮気をしていた。
　結果、同じ年に俺たち三人はそれぞれの母親から生まれた。
　愛人の一人だった俺の母親は、父に内緒で俺を生み、五歳まで育てたが、六歳のとき病死した。それから俺は親戚をたらい回しにされた挙句、そのことを知った父に引き取られた。
　もう一人の愛人だった蘇王の母親は、再婚することになり、蘇王自ら火狩の家に養子になることを決めた。
　そして、俺たちは火狩家の一員となり、新しい家族となった。
　それから俺たちの育ての母親だった紅子さんは、俺たちが十四の時、病死をした。
　紅子さんの死を悼んで、それから、恋人はいながらも、結婚のことなど口にしない父のはずだったのに。
「結婚しようと思う。相手は−」
　俺は、父の再婚に口をだせる立場ではない。
　結婚は本人の問題で、俺の母親になるのは紙切れ一枚でのこと。
ただ、紅子さんと神楽のことが、脳裏を駆け巡っていた。
　紅子さんのあの遺言となった言葉を、それによって傷ついた神楽を知っていながら、どうして再婚ができるのだろうか。
　これは二人に対する裏切りじゃないだろうか。
　だが、俺にそういって父を責めることはできない。
　俺を拾ってくれたのは、父であるわけだし、ここまで育ててくれたのも、父なのだから。それに、そのうち俺は巣立っていく。それは、多分蘇王も同じ。
　けれど、神楽は違う。
　神楽は、火狩の家の長男だ。
　第一神楽は、この結婚に賛成しない。
　いや、口では賛成するかもしれないが、心は認めることができない。
　おそらくそれがわかっていた父は、まず結婚のことを、蘇王でなく俺に話した。
その意味を、俺も理解していた。だから、答えた。
「わかりました。…神楽には、俺から話します」
　これもまた試練、人生の課題なのだと思い、俺はその役目を引き受けた。
「千寿、帰ってきてるか？」
ふいに部屋のドアがノックされ、神楽が顔を出す。
「ああ。お帰り」
「あんさ、左近しらねぇ？」
　左近？
「紗那がいないって、うるせーからさ。知らねぇかなっと思ってさ」
　神楽はそう言って、軽く笑顔を見せた。照れ隠しなのだとわかる。
　十四の時から女の家にあがりこみ、ヒモ同然の生活をし、吐いて捨てるほどの女を手玉に取ってきたというのに、本気のときは、素直になれない男。それが神楽。
　まったく、紗那も自分に正直なのはいいが、他人の迷惑を省みない心底自分勝手な女だ。
「さあ。猫だから、外で散歩でもしてるんだろう」
　苛立たしさが表情に出ていたのか、妙にばつの悪い顔になった神楽が小さく答える。
「だよ、な。うん、わりぃ」
神楽はそう言って、部屋を出かけ、ふと振りかえった。
「お前さ、部活きついのか」
　え？
「顔、つかれまくってるぜ。まるで残業しまくりのサラリーマンみたいだぞ」
　これが紗那だったら、俺は殴っていただろう。間違いなく。