――天使。
　それは、キリスト教における神の使いであり、階級も様々である。
　一般的な天使といえば、イエス・キリストの受胎を伝えたガブリエル。
　あるいは、旧約聖書でモーゼが困難なときに現れ、助けたミカエル。
　ただそれはあくまでも、物語の中であり、現実ではない。
　そう、現実ではないはずだ。
　
　だから、俺にとって桐山榊（キリヤマ　サカキ）の話は、驚きに満ちていた。
　俺たちが、神に指令を受けた七人の天使の一人であるという。
　いや、正しくは覚醒していない俺と蘇王（スオウ）は天使の卵とでもいうべきなのだろうけど。
−覚醒。
　目覚めること。
　天使の卵である俺たちは、覚醒して天使となる。
　そのためには、シャドーという自分の影を倒さなければならない。
　またそのシャドーというのは、神が作り出した自分の分身でもあるという。
　

「つまりは、自分の負を無くし、正の部分だけを持った人間が、真の天使になれるということか」
　俺の前で無言のままに、覚醒した天使の一人、橘右近（タチバナ　ウコン）が頷く。
　ここは右近の部屋。俺たちに加えて、右近までもが紗那（サナ）の家の居候になった。
　俺たち火狩三兄弟にとって、同じく天使という榊、右近、そして西原貴羽（サイバラ　キワ）との出会いで、変わったことはそれくらいだ。
　兄弟の中でただ一人覚醒した長男の神楽（カグラ）は、その先にある神の指令のことは忘れているようだったし、三男の蘇王に至っては、あくまでもマイペースといえば、聞こえがいいが、実際は考えてないに近しい。結局、次男の俺・千寿だけが真剣に考えてる。
　母親が違うにしても、残りの血が同じ兄弟である俺たちは、かなり異なる性格をしていた。
　例えば、学校の試験。
　一夜漬けをし、あとは、運任せというのが、蘇王。
　開き直ってか、全く勉強しないのが、神楽。
　そして、目の前にある課題をこつこつこなしていくのが俺。
　課題。
そう、これは、人生の課題なのだ。
今度のことも、俺はそう考えた。
　ふうと溜息をついたところで、ドアの外からニャアという猫の鳴き声と、紗那の声が聞こえてきた。
「まって、左近」
　思わず右近を目を合わせる。その目は、俺と合うとすぐに俯いた。右近の部屋のドアを俺が開けると、そこには紗那がたっていた。
「あら、千寿。何してるの？」
「それは俺のセリフだろう」
「あたしは、その…左近がね、えっと、右近の部屋にさ、その、つまり、行きたいっていうから」
「で、肝心の左近はどこなんだ」
紗那は、ほんの少し頬をひきつらせると、
「うーん。用事を思い出した、んだよ、うん、そうそう。そ、それで、急に走って行っちゃったのよね」
とだけ答える。
　右近の部屋に行きたいのは、猫の左近じゃなくて、おまえだろう。
　だいたい、そうやって左近を使って、右近と接触しようというお前の魂胆は、もうすでにばれている。
　そう言う前に、俺を無視して紗那はちゃっかり部屋にいる右近に話しかけていた。
「こんばんは、右近」
俺は溜息をつく。そして、それじゃあなと言うと、紗那が部屋に入る前にドアを閉めた。
「ちょっとなんで閉めるのよ」
　用事が終わったからに決まってるだろう。
「あ。ちょっと−」
紗那は怒り顔で追いかけてくる。
「いいじゃない、あたしの大事な恋愛に、ちょっとは協力してくれたって」
　紗那は、右近に一目ぼれをした。
　それが、どれほど俺の計画を崩したのかということを、こいつは知らない。
「いい加減諦めたらどうだ」
　出会って一週間ほどで、紗那は無謀にも右近に告白をした。
　結果は玉砕。
『興味無い』
　とあっさりとふられたのは、つい先日のこと。
「千寿には関係無いでしょ」
「そういや関係無いとも言われたな。お前、右近に」
　ぷうと紗那が頬を膨らませる。
「千寿の冷徹男っ、薄情者っ」　
　俺が一階のリビングに顔を出すと、神楽と蘇王がテレビを見ていた。振り向いた蘇王が、なかば呆れ顔で言う。
「また玉砕？諦め悪いな、紗那も」
「だーまってなさいよっ、蘇王」
　そこに、コーヒーカップをもった高未がまるで自分の家のようにごく自然に現れた。
「頑張るわね、紗那も」
「あ。高未（タカミ）。いらっしゃい」
　浅生高未は榊の恋人だ。天使ではないが、仲間のひとりではある。
　気がつけば、高未は榊たちがいなくなると、こうしてこの家にやってくるようになった。
高未は俺にも手を振りながら、ソファーに座る。
「まあ、右近君には彼女いないし。紗那ちゃんかわいいから、可能性はなくもないわね」
「やっぱそう思う？」
　紗那の顔がにんまりとした。
「そういうこと言うなよ。こいつってばすぐその気になるから」
「なんですってぇ、神楽っ！」
そうやって、いつものごとくケンカを始めた二人を無視して、俺は高未に話し掛ける。
「榊と貴羽はどうした？」
「ちょっと遠出して探してるわ、仲間を」
　榊は、背中に十字の痣のある人間を探している。
　それこそが、天使の証らしい。
　見つかっていない天使の卵は、あと一人だ。
「ね、右近君は？」
「部屋にいる」
「多分出てこないぜ、あいつ。いつもそうだから」
　口を挟んだ蘇王のいう通り、右近は特に用事が無いと、さっさと部屋に戻ってしまう。人見知りをするというよりは、人と関わるのが嫌いなようだった。
だが、そんなこと、紗那には関係ない。
「だから紗那がいろんな手を使って、部屋に入ろうとしてるんだ」
　デザートがあると言ってはノックをし、面白い番組をやってるからといってはノックをする。そして、今日は最終手段として右近が連れてきた子猫の左近を利用としたのだ。
「お前、夜這いすんなよ」
ようやく追いかけっこを終えた神楽が、そうやって紗那をからかった。
「神楽と一緒にしないでよっ、この野蛮人」
投げられるクッションをかわしながら、時に神楽は笑顔を見せる。その笑顔は本物だ。
　その笑顔が、いつかのようになくならないように、俺はしないといけない。
　亡くなった、神楽の本当の母親であり、俺と蘇王の育ての母親である紅子（コウコ）さんの為に。
　それも、俺・火狩千寿に架せられた使命だった。