「神楽は、親父の、本当の子供じゃない」
　千寿の爆弾発言に、あたしが言ったのは、
「嘘…」
という情けない一言だった。
　でも、本当にそうとしか思えなかったのだ。
　あたしにとって、母親は違っていても、神楽、千寿と蘇王の三人は父親が同じ兄弟なのだ。
　それなのに、神楽が、おじさんの本当の子供じゃない。
　それってどういうこと？
「そう紅子さんが言った」
　コウコサン？
　首をかしげるあたしに、千寿が答える。
「火狩紅子。神楽の母親だ」
　神楽のお母さんは、お母さんで。
　でも、お父さんがお父さんじゃないってことは…。
「紅子さんとその愛人の間に出来た子供だ、神楽は」
『愛人の子供って意味、わかるか？』
「あ」
　思わず声が出た。
　頭によぎったのは、前に神楽が言った言葉。
　あたしと千寿が口を閉ざしたのと同じタイミングで、リビングのドアが乱暴に開けられたかと思うと、蘇王がズカズカと入ってきて、千寿の肩を掴んだ。
「おいっ、千寿っ。
　お前そんなこと勝手に話して！
　神楽に叱られるぞ」
　蘇王に肩を揺さぶられながら、千寿は小さなため息をつきながら、はっきりと答える。
「紗那には話すべきだ。その方が神楽のためだろう。
　お前だってそう思わないか？」
「それはっ…」
　眼鏡の奥の鋭く光る瞳で見据えられて、蘇王は言葉を無くしていた。
　蘇王が何も言わなくなったのがわかると、千寿は肩に置かれていた蘇王の手をそっと外して、誰に話しかけるふうでもなく、話を始めた。
「中学校に入ってからだった。紅子さんが癌で入院した。
　気づいた時には末期で、全身に転移してたらしい。手術もしたんだが、予想以上に範囲が広く、そのまま閉じたって話だ。
　だがその頃の俺たちは、そんなことも知らされてなくて、学校帰り、三人で見舞いに病室に向かっていた。
　ちょうど紅子さんの誕生日だったから、三人で貯めた小遣い出し合って、薔薇の花束を買った。
　紅子さん、赤い薔薇が好きだったから。
　神楽がそれを手に持って、病室のドアを開けた時、中から紅子さんの興奮した声が聞こえてきたんだ。

　紅子さんは、シャツに口紅をつけて見舞いに来た父さんを詰っていた。
　父さんは言われるままに、黙りこんで、ただ自分の胸を叩く紅子さんを受け入れていた。入るタイミングを失った俺たちは、結局中の様子をのぞき見する形になったんだ。
　その時、紅子さんが言ったんだ。
『こんな時になっても浮気をするなんて、やっぱりあなたは私のことを愛していなかったのね。
　だったらどうぞ、愛人のところにでも行ってちょうだい。
　その方がいっそ、清々する。
　安心して、私もあなたのことを愛してなどいなかった。
　その証拠に、神楽はあなたの子供じゃないのよ。
　驚いた？
　そうでしょうね。
　今の今まで、ずっとだまし続けてきたんだから。
　神楽を自分の子供だと信じて、可愛がるあなたを見て、私はずっとほくそ笑んでいたのよ』」
　淡々と言う千寿の声が、あたしの胸にキリキリと痛みを刻む。
「気づいたら、神楽は走り出して、廊下には赤いバラの花びらが散っていた。
　足音に気づいた父さんは、廊下に顔を出して俺たちを見つけたけど、神楽の後を追いかけようとはしなかった。
　そのあとすぐに紅子さんが発作を起こして、病室を離れられなくなって。
　そのまま紅子さんは意識不明になって、その夜のうちに帰らぬ人になった。
　その日神楽は家にも帰らずに、結局紅子さんから話の真相を聞くこともできなかった。
　その日からだ。
　神楽が父さんと口をきかなくなって、家出を繰り返すようになったのは」
　話し終えた千寿が、深い息をつく。
　立ち尽くしてるあたしに、蘇王が言った。
「俺、神楽が親父を許せない気持ちも、少しわかるんだ。
　だって、そうだろ？
　親父が浮気を繰り返してなきゃ、紅子さんも浮気をしなくて済んだんだ」
　続けるように千寿が言う。
「それに、父さんへの当てつけのように神楽を育てることもなかった。
　あの一言で、神楽は存在をすべて否定されたんだ」
「あたし…」
　あたし、どうしよう。
　お父さんから逃げてる神楽を引き留めた時、神楽言ってた。
『お前に、愛人の子供って意味、わかるか？』
　あの時は、愛人の子供を外に作ってたお父さんに反発してるだけなんだと思ったけど、
　そういう意味じゃなかったんだ。
　血の繋がってない親子、
　しかも自分は愛人の子。
　おまけに自分がその父親への復讐のために生まれてきたんだと言われて、
　許せって方が、辛い。
　おまけに香苗先生のこともある。
「あたし…」
　気づいたら、あたしは外に飛び出していた。
「おい紗那―」
　蘇王の引き留める声が聞こえたけど、そんなの聞くわけにいかなかった。
　神楽に、会わなきゃ。
　会って、謝らなきゃ。
　全速力で走ると、冷たい空気が、体いっぱいに入り込んで、あたしの胸を苦しくさせた。
　だけど、あたしは足を止めずに走り続けた。
　行くあては、ひとつだけあった。
　絵梨のお兄さんが神楽を見かけたっていう場所。
　あそこに行けば、神楽を見つけ出せるかもしれない。
　ううん。
　絶対に、見つけ出してみせる。
　赤信号で足を止められる。
　息を整えながら、青になったところで走り出そうとしたら、突然腕を掴まれた。
「紗那、落ち着け」
　振り返ると、同じように息を切らせている蘇王がいた。
　少し後ろには、千寿も立っていた。
　蘇王はそのまま強引にあたしを細い裏路地に引っ張る。そこであたしは、ようやく解放された。
　視線を沈ませてる蘇王に、あたしは思い切り言い返す。
「落ち着いてられるわけないでしょう？
　神楽のこと、探して、絶対連れ戻すんだから」
「…嫌がるよ、神楽。そういうの」
　唇を噛みしめてる蘇王に、あたしは思い切り怒鳴り返す。
「本心だと思ってるの？蘇王。
　神楽が本当にそう思ってるって？
　ずっと一緒に暮らしてきたのに、そんなこともわかってなかったのっ？」
　弾かれたように、蘇王が顔を上げる。
　そして、はっと気づいたように表情を曇らせて、蘇王は言った。
「神楽…」
　あたしが蘇王の視線の先を追いかけると、Ｇパンのポケットに手を入れた神楽が、少し離れたところから様子を窺うようにして、こっちを見ていた。
　あたしたちに見つかった神楽は、少しばつの悪そうな顔をして、蘇王に答えた。
「…よう。
　何こんなところで、ケンカしてんだよ」
「神楽…」
　今度は千寿が神楽の名前を呼ぶ。
　その声に、何かを感じたのか、神楽はにやけた表情になって千寿に言った。
「あ、わりぃな。今日も家には帰らないから。おばさんには適当に言っておいてくれよ、千寿」
　じゃあな、と言ってあたしたちにくるりと背を向けて、神楽は街中に戻っていこうとする。
「待って神楽」
　あたしはそう言うと、神楽を追いかけた。
　神楽も、振り返りはしなかったけど、足を止めた。
　仕方ないなあ、とでも言うように深いため息が聞こえる。
「ごめんなさい。
　あたし…、神楽にひどいこと、いっぱい言ってきた」
　その言葉に、神楽が振り返る。
　そしてあたしを一瞬だけみると、すぐに視線をあたしの後ろにいる千寿と蘇王に向ける。
　その切れるナイフみたいな鋭い視線に、千寿が口を開いた。
「俺が、話した」
　すると神楽は、ズカズカと千寿の前に行き、その胸倉をつかみ上げた。
「余計なことすんなっ」
　興奮している神楽とは対照的に、千寿は淡々と答える。
「必要なことだ。お前にとって」
「何が必要なんだよっっ」
　三人がケンカするところは、見たことがないわけじゃない。
　いつも、神楽とケンカしてる時は、最後には千寿が引いていた。
　神楽を立てるように。
　神楽を刺激しないように。
　あたしにはそれが歯がゆかった。
　だけど、今日は違った。
　千寿は、神楽の視線にも屈することなく、その目をじっと見つめて答えたのだ。
「いい加減、受け入れろ。
　お前の気持ちを。本当の、気持ちを」
　次の瞬間、ボカッと殴る音がして、千寿が倒れていた。
　殴った方の神楽は、千寿を殴りつけた右手を震わせている。
　千寿は起き上がって、口もとの血を拭っている。
　蘇王はそんな二人の様子を見て、ただ立ち尽くしていた。
　神楽はそんな二人の顔を交互に見ると、くるりと背を向けて、歩き出した。
「…神楽っ」
　あたしが叫んでそんな神楽の背中を追いかけると、神楽が振り返りもせずに言った。
「ついてくんなよ」
　でもここで、はいわかりました、なんて答えるわけにはいかない。
「どこ行くのか教えてくれたら、ついてかないわ」
「女のとこだよ。文句あるか」
「ないわよっ」
　怒鳴るようにそう答えると、神楽がピタッと足を止めて振り返った。
　そして、じっとあたしをけん制するように睨みつけながら、言った。
「なんだよ、その目」
　その目？
「人を蔑んだような目で、見るんじゃねぇよっ」
　そこにいる神楽の目は、今まであたしが見たこともないくらい、怒りに燃えていた。
　神楽は人差し指をあたしに向けて、更に言った。
「お前の考えてること、当ててやろうか。
　可哀そうな神楽。
　どこにも居場所がないのね。
　自分を復讐に使った母親と、
　負い目を感じて腫物のように扱う父親と、
　全く血のつながらない兄弟たちに挟まれて。
　女はそう思って、俺を抱きしめる。
　まるで、自分が天使にでもなったみたいに。
　…お前も、そうしたいのか？」
　気づいたら、あたしは神楽に向かって駆け寄ると、大きく右手を振り上げていた。
「馬鹿っ」
　バシッと乾いた音が響く。
　神楽を叩いた右手が、じんじんとして痛い。
「…ってぇ…」
　そう言いながら、神楽は叩かれた頬に触れていた。
　あたしは震える手を握りしめながら、思い切り怒鳴った。
「いつまで甘えてるのっ」
　その言葉に、神楽が顔をあげて、あたしを睨み言い返してきた。
「俺がお前に甘えてるって？
　冗談だろ？」
　冗談なわけないでしょう！
　そう怒鳴ってやりたかったけど、そう言う前に先に神楽がにやりと笑って言った。
「ああ、そうか。おまえ、俺のこと好きなのかよ？」
　え？
「好きだから、
　俺のこと気になるから、
　だから追いかけるのか。
　引き留めるのか？」
　にやけたその表情の奥に見える、さびしげな瞳に、
　あたしはブチ切れて気付いたら答えていた。
「ええっ、そうよっ」
　その言葉に、神楽の目がまあるく見開かれた。
　あたしは叫んだ勢いのままにしゃべり続けた。
「あんたのこと、好きよ。
　千寿だって、蘇王だって、右近だって、高未だって、みんな神楽のことが好きなんだからっ。
　みんなあんたのこと心配してるんだからっ。
　あんただって本当はわかってるんでしょう？
　だったら、心配かけないでよ。
　自分を傷つけないでよ」
　殴られた頬に触れていた手が、だらりと降りる。
　神楽は真剣な表情のままで、じっとあたしを見て呟いた。
「紗那…お前…」
　一歩、こっちに戻ろうとしたところで、神楽の背中の方から、キャピキャピと甲高い女の子の声がした。
「あー、神楽じゃないの？」
「ほんとだー。神楽だぁ」
「何してんの？」
　女の子たちはみんな寒いと言うのにミニスカートから長い足をすらりと出している。そして、あっという間に神楽を取り囲んでいた。
「ねえ。ちょうどいい。これからクラブに行こうと思うんだけど、一緒にどう？」
「行こうよ、神楽」
　一瞬だけ、神楽と目が合った。
　だけど神楽は、
「…あぁ」
と答えてすぐに視線をそらすと、その女の子たちに引っ張られるように、町に消えていってしまった。
　…っていうか。
　何なのよ、あいつっ。
　心配してやってるのに、この状況で何で遊びにいけちゃうわけ？
　話だって途中じゃないの！
　すると、千寿が深いため息の後、あたしの肩を叩いた。
「何よっ、千寿っ」
　この世の終わりみたいな表情してっ。
　あたしは間違ってないわよっ。
　悪いのは、神楽なんだからねっ。
　かみつきそうな勢いのあたしに、千寿はさらに深いため息をつくと、
「問題になりそうなことばかり言いやがって」
とつぶやくように言った。
「え？」
　言いたいことがわからない、と首をかしげると、千寿は冷酷に淡々と答えた。
「右近がさっきまでいたけど、お前の告白聞いて、消えてたぞ。
　家に帰ったんだろうが」
「え」
　右近？
　どうして？あたしを置いて帰っちゃったの？
　千寿にそう聞いても、返ってくるのはため息だけだった。
　え？どういうこと？
　すると、代わりに蘇王が口を開いた。
「そりゃ、あれだけ好き好きビーム全開だったクセして、本命が神楽だってわかったらな。
　少しくらいはへこむよな。
　あれだろ？
　右近は咬ませ犬だったってことなんだろう」
「当て馬って言った方が正しいだろう」
　千寿が軽く首を振ってそう口を開く。
「はい？」
　咬ませ犬？
　あて馬？
　それって何？
　どういうこと？
　頭の上に？マークがいっぱいのあたしに、蘇王が呆れた様子で答える。
「だって、そう言ってただろ？さっき」
　へ？
　さっき…？
　はっと気づいて、あたしは大慌てで叫んだ。
「違うってば！あれは、友達として好きって意味よっ。
　それ以上なんてことありうるわけないでしょう！」
　だいたいあそこであんたなんか嫌いだなんて言うほど、あたしはバカじゃないわよ。
　…って、もしかして、右近ってばそこだけ聞いてたの？
　すると千寿と蘇王が同時に頷く。
「ああ」
　それで、先に帰ったの？
「ああ」
　つまり、あたしが神楽を好きだと思ってるってこと？
「になるだろうな」
　ちょーっと待った！
　それは誤解よ、誤解っ。
「あ、紗那っ」
　駆け出したあたしに、蘇王の引き留める声が聞こえたけど、そこで足を止める余裕なんてあたしにはなかった。
　右近の誤解、解かなきゃっ。
　

　あたしが玄関に駆け込むと、ちょうど右近が二階に上がって行くところだった。
　靴を脱ぎすてて、階段を駆け上がると、ちょうど右近はドアを開けて自分の部屋に入ろうとしているところ。
「右近っ、待って」
　息を切らせてあたしがそう話しかけると、右近は手を止めて、あたしの方に顔を向ける。
　黒い髪がサラサラと揺れて、その奥にある瞳が、あたしを捉える。
　やっぱり、右近ってばかっこいい。
　ドキドキする気持ちを抑えながら、あたしは口を開く。
「あの、さっきあたしが神楽に言ってたこと―」
　すると、無表情だった口元が、僅かに動いた。
「わかってる」
　わかって、る？
「右近―」
　その言葉の意味を聞こうとあたしが口を開きかけると、右近が珍しくそれを遮って言った。
「おやすみ」
　あ…。
　右近がドアの向こうに消えていくのを、だけどあたしはそのまま無言で見送った。
　ほんの一瞬だけ。
　ドアに隠れるその一瞬にだけ。
　無表情な右近の目が、少し寂しげに見えたから、どうしてかあたしは右近を引き留めることができなかった。
　それにしても、わかってる、ってどういう意味？
　もしかして、あたしが神楽のことを好きって言った本当の意味、ちゃんとわかってるって理解？
　それとも…もしかして、あたしが神楽のこと好きだって知ってたとかそういう誤解？
　答えがわからなくて立ち尽くしていると、玄関のドアが開く音がした。
「ただいま」
　蘇王と千寿が帰ってきたのだ。二人は、二階に上がってくると、廊下で立ちつくしているあたしを見て、
「どうかしたか？紗那」
と話しかけてきた。
　今…右近がね―。
　そう話を続けようとしたところで、また玄関のドアが開く音がした。
　お母さんは家にいるし、帰ってくるような人はいない。
　誰？と三人が階段の下をのぞくと…。
「神楽」
　驚きながらも嬉しそうに蘇王が声を上げる。
　そこには、罰の悪そうな表情をした神楽が立っていた。
　神楽は無言で靴を脱ぐと、階段の下から千寿と蘇王の顔を一瞬だけみると、視線をそらして大きなため息と一緒に答えた。
「いちいちうるせー女がいるからさ。
　帰ってきてやったぜ」
「ちょっと―」
　うるせー女って、もしかしてあたしのこと？
　そう言い返そうとしたあたしの口を千寿が抑えると、何事もなかったかのように神楽に言った。
「飯なら、おばさんの作ったカレーがあるぞ」
「サンキュ」
　普通に答える神楽に、蘇王は階段を駆け降りて、嬉しそうに言う。
「あ、冷蔵庫に特製のプリンもあるんだぜ」
「うまそうだな」
　仲良くリビングに消えていく神楽と蘇王を見送ったところで、ようやく千寿の手が離れた。
「ちょっと！何するのよ、千寿」
「いいから、お前は余計なこと言うな」
　余計なことって何？
　神楽がムカつくこと言うからっ。
「頼むから、今日くらいは、大人しくしてくれ。
　せっかく、神楽が帰ってきてくれたんだ」
　そりゃ…そうだけど。
　何かひとこと言い返してやりたかったけど、千寿のほっとした表情を見てると、あたしは何も言えなくなった。
　…仕方ない。
　同盟を結んでる杏に免じて、ここは千寿を許そうじゃないの。
　ふいにあたしは、玄関を眺めていた千寿の視線がじっとあたしに向いていることに気づいた。
「何？」
「お前のおかげだ。神楽が帰ってきてくれたのは。
　ありがとう」
　いつもひねくれてる千寿らしくない。
　正面切って、お礼を言われるなんて、ちょっと照れるじゃないの。
「そんな…お礼を言われるようなことは、何も言ってないわ」
　照れ隠しにあたしがそう言うと、千寿はくすりと笑ってから、ふいに表情を険しくして答えた。
「だけどあいつは、これからが辛いな」
「え？」
「いや、何でもない」
　下のリビングからは、はしゃいだ蘇王と、それに答えるような神楽の大声とが聞こえてきていた。