その日も、あたしたちは早良の様子を見に、早良の学校の校門の前に立っていた。
　少しして、ざわめきと一緒に早良が現れる。
「しっかし、すっげぇ変ったよなあ、早良」
　感心したように蘇王が呟く。
　ほんとほんと。
　女の子を十人くらい従えて、早良は校庭のど真ん中を歩きながら、校門の方に歩いてきていた。
　周りで見ている生徒たちも、その姿に少し浮足立ってるくらいだ。
　きっかけは、新聞だった。
　それはつい二日前のこと。
　早良の放課後の特訓は毎日だから、その日もあたしは千寿と杏と一緒に早良を待って、その日蘇王が練習している道場に一緒に向かおうとしていたの。
「あ、あれ、かわいー」
　ちょうど商店街を歩いてると、ペットショップにいた犬に目移りして、杏が勝手に入りかけていたところだった。
「おい、寄り道するな」
　ため息をついた千寿が、杏を連れ戻そうとそのあとを追いかける。あたしも追いかけようとしたんだけど、ふいに靴の中に異物感を覚えた。
　靴を脱ぐと、大きな石が入っていた。
　もうどうしてこんなのが入ってるの。
　あたしがため息をついていると、いきなり、
「泥棒！」
という声が商店街に響いた。
　声のする方を見ると、黒い服を着てサングラスをした男が、お店から飛び出してくるところだった。
　ぎょっとしたのは、その手に光るものを持っていたから。
　ナイフ？
「どけどけーっ」
　男はそう怒鳴りながら、こっちに向かって走ってくる。
　通りを歩いていた人たちは悲鳴をあげて、脇によけた。
　だけどあたしは、動けずにいた。
　だって片足で立っている状態だったし、
　靴はまだ手に持ったままだったから。
「紗那ちゃんっ」
「そこのガキッ、どけっ」
　早良の悲鳴に似た声と、そう言ってあたしにナイフを振りかざす男の声が重なる。
　そっそんなこと言ったって、
　片足でどう動けばいいのよっ。
　なんて逆切れしてる余裕はなく、男のナイフが太陽の光を受けて、きらりと光る。
　とっさにしゃがみこもうとしたところで、だけど男はナイフを振り上げたままあたしの足元にいきなり倒れた。
「え？」
　もしかして、石に躓いたとか？
　あたしがそう思っていると、
「おいっ、早良っ」
と店から顔を出した千寿が叫ぶ声が聞こえた。
　すると、それまで呆然としていた早良は、はっと気づいたように道路に寝そべってジタバタしている男の手を思い切り足で踏みつけた。
　男は、「うっ」という声と共に、ナイフを落とす。
　店から出てきた千寿は、そのナイフをハンカチでもって持ち上げながら、早良に言って、早良が蘇王仕込みの柔道技で男の腕をねじり上げる。
　こうして男は逮捕され、捕まえた早良は、勇敢な高校生ということで新聞に写真付きで載ったのだ。　
　おかげで、早良は地元のヒーローとして、道を歩けば見知らぬ人からも騒がれる時の人となっていた。
「ありゃ下手なアイドルよか人気もんだぜ」
「変われば変わるのね、人ってのは」
　蘇王の隣で、高未が大きく頷く。
「ってどうしてここに高未がいるわけ？」
　意地悪くあたしが言うと、高未は腕組みをして当たり前って顔で答えた。
「どうしてってあたしたち仲間でしょう？千寿君たちってば報告してくれないんだもん。だから、こうして情報収集に来てるの。
　で、どうよ？覚醒できそう？」
「あとは本人次第だろう」
　千寿がそう答える。
　だけど、気のせいか、その表情は硬い。
「よ、千寿君、蘇王君」
　そうこうしてるうちに、女の子たちに別れを告げて、早良があたしたちの前にやってきた。
「おう。調子よさそうだな、早良。おっかけまでできてさ」
　蘇王の言葉に、早良はにっこりと笑って答える。
「まあね。邪魔になるから帰れって言ってるのに、皆聞かないんだよね。
　ごめんね、紗那ちゃん」
　へ？何で？
　突然話をふられたあたしが、思わずそう答えると、早良は首をかしげた。
「だって…気分悪くない？」
　気分悪い？
　あたしはいたって健康だけど？
　すると、蘇王が納得したように声を上げた。
「あー、紗那。お前、さては冷蔵庫にあった賞味期限切れのプリン食べたろう？
　食べようと思ってたのに、朝見たらなくなってたんだぞ」
　違うわよっ。あんたじゃあるまいし、そんなに食い意地はってないわよ！



　結局神楽は、今日も家に帰ってこなかった。
　学校もずっと休んでる。
　携帯も、かけてもずっと留守電。
　本当のこと言うと、あたしは今日学校で、絵梨から神楽の話を聞かされていたのだ。
「神楽君、どうしたの？
　お兄ちゃんが、ベロンベロンに酔っぱらってるのを見たらしいけど」
　その日、絵梨のお兄さんは別の場所に行く近道で、あまり治安のよくない場所を通ったらしい。
　そこで、お店から女の人と出てくる神楽を見たんだって。
「制服着てないっていっても、警察とかに見つかったら、やばいよ」
　結局神楽は、連れの女の人に引っ張られる形でタクシーに乗って、どこかに消えて行ったらしい。
　…だけど、そんな風に言われて、気にならないわけないじゃない。
　一応、留守電には入れた。
　とにかく帰って来いって。
　だけど…。
　小さくため息をつくと、携帯が鳴った。
　神楽？
　そう思いながら携帯を取ると、相手は神楽じゃなくて早良だった。
「紗那ちゃん、明日の放課後暇？」
　うーん、一応空いてるけど…どうして？
　あたしがそう聞くと、ああ、とか、うん、とか言った後で、早良が言った。
「映画のチケットもらったんだけどさ、行かない？」
　映画？
　聞けば極甘ラブストーリー。
　そういえば、右近と行きたいなって思ってた映画だったけど。
　うーん、でもそういう気分じゃないしなあ。
　それに、明日は右近がバイトしてる日だから、お店に偵察にいかないといけないし…。
　あたしが黙り込んでいると、早良が慌てたように言ってきた。
「ちょっと、相談したいことがあるんだ」
　相談事ってことは例の高橋ミカリのことね。
　じゃあ、千寿とかの予定も聞かないとね。ヘッドコーチだし。
「いや、そうじゃなくてさ。
　紗那ちゃんにだけ、ちょっと相談したいことがあってさ。電話で話すのもなんだから、直接会って相談したいんだよ」
　うーん。そういうことなら、いいけど。
「やった。それじゃ、明日五時に駅前でね」
　早良がそう言って、あたしは携帯を切った。
　結局その夜も、神楽から、あたしの携帯に連絡が入ることはなかった。



　待ち合わせ場所に行くと、すっかりイケメンになった早良が立っていた。
　少し前のあのおどおどした様子は、全くない。
『無理じゃねぇよ。お前ならできるって』
　覚醒できないと早良が言った時の、あの自信に満ちて答えた神楽の顔が、一瞬頭をよぎった。
　思えば早良が変わってから、神楽はまだこの早良に会っていないはずだ。
　少しは、顔見せたっていいんじゃないの？神楽。
　あたしが唇をかみしめていると、気付いた早良がこっちに向かって大きく手を振った。
「それじゃ、そろそろ行こうか」
　行くってどこに？
　あたしがそう聞くと、早良はポケットから一枚のチケットをあたしに差し出した。
「映画のチケット。もう上映始まっちゃうよ」
　あれ？あたし、気分乗らないって言わなかったっけ？
　だけど早良はそんなあたしの話も聞かずに、さっさと映画館に向かって歩き出そうとしてる。
「どうしたの？紗那ちゃん」
　だけど、全然歩こうとしないあたしに気づいた早良は、あれ？と足を止めると、振り返った。
「それよりもさ、早良。相談事ってなに？」
　あたしの声に、相談？と早良はひとり言のように呟くと、あっと気づいたように言った。
「ああ、その、つまり…。
　高橋ミカリのことだよ」
「だったらやっぱり千寿とか―」
「僕は紗那ちゃんに相談したかったんだ。ほら、千寿君もいい人だけど、ちょっと冷血っていうか」
　じゃあ、蘇王でいいじゃん。
「蘇王君もいい人だけど…ちょっと、考えが浅はかっていうか」
　うーん、じゃあ神楽？
　あっ…でも神楽は…今連絡つかないんだった…。
　自分で言って黙り込んだあたしに、早良がとりなすように言う。
「ね、だから紗那ちゃんだけに」
　お願いと、両手を顔の前で拝むようにされて、あたしは仕方なく頷いた。
「わかった。で、何？高橋ミカリがどうかしたの？」
　だけど早良は、そんなあたしを無視するように言った。
「でもせっかくだから、映画観た後にしようよ。ねっ」
　そうしてあたしの鞄を掴んで、引っ張っていこうとする。
　思わずあたしはムッとして言った。
「映画は見ないって昨日言ったじゃない。
　で、何なの？相談事って。高橋ミカリが話しかけてきたとか？」
「うーん、そうであるような、ないような」
「それじゃ、高橋ミカリをデートに誘おうとしてるとか？」
「うーん、そうしたいような、したくないような」
　何、その答え。
　煮え切らない早良の答えに、あたしははっきり言った。
「ごめん、早良。あたし、時間ないの。
　右近がバイトだから、あたしも行かなきゃいけないの。お店に」
　すると早良は、びっくりした表情をしてから、あたしに尋ねた。
「紗那ちゃんも同じところでバイトしてるの？」
「ううん。あたしは違う。
　ほら、右近って無愛想で無口でしょう？だから、お客さんに誤解されることが多くて。
　そういう時にあたしがいたら、少しは助けてあげられるかもって思うから」
　すると早良は、俯いて下唇を噛んだ。
　あー、もう時間ないや。
「じゃ、ごめん。早良。相談事はまた今度ね」
　そういってくるっと早良に背中を向けて走り出そうとしたあたしを、早良が呼び止めた。
「紗那ちゃん」
　振り返ると、早良は唇とわなわなとふるわせたまま、むりやりな笑顔を作って口を開いた。
「紗那ちゃんは…橘くんのことが、好きなの？」
　右近のことが好きかって？
　それこそ、千寿の言う『愚問』ってやつだ。
「うん。大好き」
　笑顔でそう言うと、早良の肩がガクッと下がったように思えた。
「じゃあね、早良」
　あたしはそう答えると、大好きな右近に会うために、急いで走りだした。



　その日も、右近がバイト終わるのを待っていようと思っていたあたしだったけど、お母さんから夕飯の買い出しのメールが来て、一足早く帰ることになった。
　買い物をして、家に帰ろうとしていると、見覚えのある人が駅前のところで立っている。
「あ」
　声を上げると、名倉香苗先生もあたしに気づいてにっこりと笑った。
「こんばんわ」
　柔らかいその表情を見ていると、神楽が好きになっただけあって、やっぱり美人だと思った。
「もしかして…神楽、探してるんですか？」
　手にはこの前と同じボストンバッグがある。
　あたしの質問に、先生は寂しそうな笑顔を浮かべて答えた。
「神楽君が中学生のころ、出入りしていたところ探してるんだけどね。今はもう、あまり出入りしてないみたいね」
　ええそうです。
　最近は盛り場にいるみたいです。
　そう厭味っぽく言えればよかったけど、そんなことを言ったら、その盛り場に一人で神楽を探し回りに行ってしまう気がして、あたしは口を閉ざした。
　すると、先生は突然うっと言って口元を押さえて、しゃがみこんだ。
　思わずあたしは荷物を置いて駆け寄る。
「大丈夫ですか？」
「ええ。ありがとう」
　顔色も良くないみたい。
　悪阻ってやつなのかな。
　だけど先生は、なんとか立ち上がって笑顔を見せる。
　その姿が、あたしにはすごく辛かった。
　先生が、悪い人じゃ決してなくて、一生懸命神楽のことを思っているのがわかるだけ、辛かった。
「…もう、ここには来ないでください。
　もし神楽と出会っても…きっと、神楽はあなたから、逃げます。
　あなたがうちに来ている間は、きっと神楽は家に帰ってこないんです。
　赤ちゃんのためにも…実家に帰った方がいいんじゃないですか？」
　すると先生は、小さくため息をついたあと、ぽつりと言った。
「実家には帰れないわ」
「え。でも、この前―」
　神楽のお父さんとは結婚しないで、実家で育てるって言ってたじゃないですか。
　あたしの言いたいことがわかったのか、先生はくすっと笑った。
「あれは、嘘。ああでも言わないと、恭介さんは結婚を強引に進めてしまうし、神楽君たちも、嫌だとは言えなくなっちゃうでしょう。
　実家からは勘当されてるの。恭介さんとの仲がばれてすぐに」
　え…。
　何の関係もないあたしにだからなのか、先生は小さなため息をつくと、小さい声で、それでも一言ひとことかみしめながら話してくれた。
「厳格な両親だから、いくら奥さまに先立たれて独り身だったと言っても、生徒の親と付き合うなんて教師失格だって詰られたわ。
　だけど、あの人に初めて出会った時、運命だと思ったの。
　この人なんだって。
　やっと出会えたんだって。
　生徒の父親だってことは分かってた。
　しかも、とても繊細な生徒と、その確執のある父親だってことも。
　でも、止められなかったの」
　幸せそうな笑顔を浮かべて、先生はそう言ってから、表情を引き締めて、でも、と話を続けた。
「私たちの関係を知った神楽君を見て、私は自分がいけないことをしてるんだってわかったの。
　だから、別れた。
　でも…。
　アメリカに行ったのは、本当に偶然。ニューヨークに一人で旅行してたの。
　そうしたら、偶然に、そのニューヨークの街で、恭介さんに再会したわ。
　…あとは運命の波にのまれるだけだった」
　最後にふっと微笑んでから、先生はあたしに視線を向けた。
「紗那ちゃんって言ったっけ？あなた恋人は？」
「いいえ。でも、好きな人はいます」
　すると先生はくすりと笑って言った。
「神楽君？」
「ちっ違います！神楽なんて―」
　冗談じゃない！
　そう言おうとすると、先生はなぜか寂しそうな表情を浮かべた。
「そう。…残念。
　私もいるわ。好きな人。この人に出会うために、今まで生きてきたんだって思えた人。
　だけどね、だからってその人と結ばれるとは限らないのよ」
　先生はそう言うと、ボストンバッグを持って、駅の方に歩いて行った。



　夕食後、テレビもつけずにリビングにいると、お風呂から出てきた千寿があたしを見つけて声をかけてきた。
「珍しいな、お前が静かだなんて」
「あたしだってたまには…、そう言う時もあるわよ」
　そう答えてはみたけれど、頭の中はぐちゃぐちゃしていた。
　神楽と、先生と、おじさんと、新しい命と。
　あー、何かもう。やるせない。
　あたしは、ミネラルウォーターを飲み干す千寿に尋ねた。
「ねえ千寿。どうしたら、神楽は許すことができるのかな、先生とおじさんのこと」
「この前啖呵を切った時と立場が違うようだが」
　そりゃ、この前はこの前よ。
「だって、神楽が逃げてるせいで、みんな一歩踏み出せてないんじゃない。
　神楽も神楽よ、昔のことだ、関係ないって言うんだったら、笑顔で許してあげればいいのに。先生のこと」
　その言葉に、千寿は飲み干したペットボトルを冷蔵庫に仕舞うと、独り言のように呟いた。
「神楽が本当に許してないのは、先生じゃない」
　ってことは…。
「…おじさんのこと？」
　千寿は無言であたしの質問に答えた。
　そういえば、ウチにきたときからそうだった。
　あの時は仲直りしたように見えたけど…。
「もうずっとそうなんだね。どうして？
　腹割って話し合えばいいのに。
　本当の親子だったら―」
「違うんだ」
「え」
　突然話を切られて、あたしは思わず面喰った。
　違うってどういうこと？
　そうあたしが聞こうとする前に、千寿は思ってもみなかったことを言った。
「神楽は、親父の、本当の子供じゃない」