二階のリビングは、静まりかえっていた。
　小さなテーブルに向かい合わせで座るのは、神楽と、神楽の中学校の時の先生である名倉香苗先生。
　名倉先生は神楽の初恋の人だ。
　でもって、お父さんの恋人で、そのお腹には子供が、つまり神楽の異母兄弟になる子がいるのだ。
　名倉先生は、年で言うと三十歳手前くらいだったと思うけど、清楚な雰囲気の美人だった。でも、十人が十人美人という感じでもない。顔立ちが派手じゃないからかな、とも思うけど、優しそうな雰囲気がとても心地よく思えた。
　でもあの神楽の初恋の人と思うと、ちょっと意外だ。
「ねえ、でもどうして名倉先生ってここに来たの？」
　廊下からじっと中の様子を見ているあたしが振り返ってそう尋ねると、千寿がぽつりと答えた。
「それはこれからわかるだろ」
　その後ろでは、珍しく心配そうな表情を浮かべた蘇王が黙り込んだままじっと中の様子をうかがっていた。
　しばらくして沈黙に耐えきれなくなったのか、神楽はテーブルに置いた指で小さくリズムを取り始めたかと思うと、口を開いた。
「で、親父には連絡したわけ？探してたぜ」
「そう…」
　名倉先生が俯いて答える。その様子に、神楽は苛立ちを隠しきれない様子で言い返した。
「だったら連絡しろよ、
　っつーか帰れよ、親父んとこ。心配してたぜ」
　だけど名倉先生は、その神楽の言葉にゆっくりと首を振る。
「帰らないわ、それはもう決めたの」
「おいっ―」
「それよりも、神楽君に聞きたいことがあって来たの」
　そう言って突然顔を上げた名倉先生に、神楽の方が戸惑った。
「何だよ」
「この子、産んでもいいのよね？」
　重い沈黙が流れる。
　神楽は頭をかきむしる様にして、苦しそうな声を出した。
「…何だよ、その言い方。じゃ、俺がやめろって言えば堕ろすのかよ」
「…ごめんなさい。言い方が違ったわ。
　この子、産ませてほしいのよ」
　その言葉に、神楽はじろりと名倉先生を睨む。
「だったら親父と相談して決めればいい。俺は関係ないだろ。その子の父親でもねぇんだぞ」
　確かに神楽の言うことは正しいように思えた。
　神楽を裏切って結ばれた二人の愛の結晶。
　産むか産まないか、それを判断できるは神楽じゃない。
　けれど、名倉先生は一歩も引かなかった。
「関係なくないわ。だって、生まれてきたら神楽君の兄弟になるのよ」
　名倉先生のその言葉に、神楽はわざとらしいくらい大きなため息をついた。
「関係ねぇよ。…わかってんだろ？あんたはさ、俺が―」
「やっぱりお父様と話してないのね。
　ねぇ神楽君。このことは、一度お父様とよく話し合った方が―」
「うっせーんだよっ」
　どんっ、と神楽が大きく机を叩く。そして勢いよく立ちあがると、椅子を倒したままに、部屋を出て行こうとした。
「神楽君っ。待って―」
　引き止める名倉先生の声が聞こえてきたけど、あたしたちはそれどころじゃなかった。
　逃げる暇さえなかったあたしたちは、まんまとそのまま廊下で神楽とはち合わせてしまったのだから。
「何だよ、お前ら。
　立ち聞きか、趣味悪ぃな」
　冗談めいたようににやっと笑って神楽がそう言う。
　だけどあたしは気づいていた。
　その目が、全然笑ってなんかいないことに。
　慌てて蘇王が追いかけようとした。
「神楽っ―」
「待って、神楽っ」
　でもそれを押しのけるようにして、あたしは階段を下りて玄関で靴をはいている神楽を追いかける。
　だけど、神楽の背中は、あたしも拒否していた。
「悪いけど、外出てくる。
　千寿、おばさんには適当に言っておけよ。合宿とかさ、いつも通りよろしく頼む」
「神楽―」
　千寿がそう呼びとめたけれど、その声は神楽に届くことなく、ドアがバタンと音を立ててしまっただけだった。



　しばらくは三人して玄関で茫然と立っていたのだけれど、少しして二階からする物音に気づき、また二階へと上がっていった。
　リビングでは、倒れた椅子を起こした名倉先生が、ボストンバックを手に持ちながらあたしたちにこう言った。
「ごめんなさい。お邪魔したわね」
　帰るということなんだろう。
　千寿が気づいたように話しかけた。
「父に、連絡してください」
　でも名倉先生はそれには答えなかった。察した千寿が有無を言わせぬ強さで言う。
「それじゃこっちからしておきますから」
　先生は無言のまま、リビングを出て行こうとした。
　丸めた背中は、まるで悲劇のヒロインのように思えた。
　だから、あたしは思わずひきとめたのだ。
「ちょっと、先生っ」
　先生と呼ばれて、驚いたように名倉先生が振り返る。
「ひどいんじゃないですか？
　あんまりです、あれじゃ神楽が可哀想すぎる。
　神楽は先生のこと、本当に好きだったんですよ。なのに二度も裏切られて、おまけにお父さんとの間に赤ちゃんできて、そのこと神楽に知らしめて、認めろなんて、
　どうしてそんなひどいことできるんですかっ？」
　落ち着けとでも言うように、千寿があたしの肩を後ろから押さえた。
　お前は関係ないだろう。
　そう言いたいのかも知れない。
　だけど、関係ある人たちが何も言わないんだったら、あたしが言うしかないじゃない。
　だから、離してっ。
　あたしは千寿の手を振り払うと、意外にもそれは呆気なく離れていった。
「あなたは？」
　名倉先生が首をかしげてあたしを見つめる。
　そういや自己紹介する余裕なんてなかった。
　そう思うあたしの後ろで、淡々と千寿が説明をした。
「葉月紗那。この家の長女です。俺たちの同級生」
　名倉先生は、そうとだけ答えると、あたしに向ってしずかに語りだした。
「恭介さん…神楽君たちのお父様との仲は、否定はしないわ。
　そのことで神楽君を苦しめたこともわかってるつもりよ。
　妊娠は予想外のことだったけど、私は恭介さんと結婚するつもりはないわ」
「でも―」
　結婚するって聞いてます、と言おうとしたけど、名倉先生はそれがわかっているのか、少しシニカルに微笑んだ。
「恭介さんが責任とって、結婚しようと進めているだけよ。私は、もうあの人のところには戻らないつもりだから」
　その答えに、今までずっと黙っていた蘇王が口を開いた。
「…赤ちゃんは、どうするんですか？一人で、産むんですか？」
「ええ。実家に戻って、親に助けてもらいながら、そうしようと思ってる」
　当然とでも言いたげなその態度に、あたしはまたカチンと来た。
「だったらそうしたらいいじゃないの、勝手に。
　いちいち神楽に話して、許してもらうようなことじゃないでしょっ。
　だいたいそんなの、自己中すぎるわっ」
　今にも噛みつきそうなあたしの肩を、千寿がまた押さえた。
「お前から、その言葉がでるか…」
って声が聞こえたようにも思えたけど、とりあえず向かうは名倉先生だ。
　その先生はというと、あたしの権幕に驚いたのか、しばらくあたしの顔をじっと見ていたけど、ふいに力が抜けたような声を出した。
「そうね…紗那さんだっけ？あなたの言うとおりかも知れない。
　でも、そうしてしまった以上、私は神楽君と恭介さんをこのままにしておけないわ。それにね、この子が二人の懸け橋になってくれるような気がするの」
　名倉先生はそう言って、まだそう膨らんでいないお腹を愛おしそうに触った。
　それから、ゆっくりと顔をあげて微笑んだ。
「今日はもう帰ります。
　でもまた来るわ。
　それじゃあね。千寿君、蘇王君。紗那さん」
　そうして、誰に見送られることもなく、名倉先生は出ていった。
　その夜、神楽は言っていた通りに、家に帰ってこなかった。



　次の月曜日、早良の学校の校門の前で、あたしたちは下校してくる早良を待っていた。
　早良の特訓は、昨日も当然あった。
　家を出てしまった神楽は、家に帰ってくることはなかったけれど、早良の特訓には姿を現したそうだ。
　そうだ、というのは早良以外のみんなは神楽には会わなかったから。
　どういうつもりかわからないけど、神楽は直前になって待ち合わせ場所を変えてしまったのだ。
　それでも特訓はそれなりに効果があったらしく、その後の早良は少し自信をつけていた。
　髪型も変えて、眼鏡もやめたニュー早良にとって、今日は記念すべき日なのだ。
　高橋ミカリに告白されないまでも、早良という存在をアピールする大事な日。
　今までは地味で目立たなくてダメな子っていう印象だったかもしれないけど、
　雰囲気の変わった早良を見て、あの子誰だっけ？と思ってくれたらＯＫだし、
　意外とセンスいいし、なかなかかっこいいんじゃない？とまで思ってくれれば上々。
　ドキドキして待つあたしたちの前には、奇蹟が起きていた。
　まずは、何やらざわつきだした昇降口のあたりを見て、蘇王が呟く。
「あれって…まさか、違う、よな」
　じっと目を凝らして見てみるけど、私にはよく見えない。
　だけど、どうも女子が小さな集団になって、動いているようだ。
「まんざらそうでも、ないらしい」
　眼鏡の奥で鋭い眼をさらに光らせて、千寿がそう言った。
　え？どういうこと？
　女子の塊は、そのままキャーキャーと声をあげながら、こっちに向って歩いてくる。
　あたしがじっと目を凝らしていると、その中には…。
「早良？」
　あたしの呼びかけに、輪の中から手が伸びて、変身後の早良が現れた。
　カラーリングして明るくし、癖っ毛のようなパーマを少し掛けて、柔らかくセットされた髪。
　細身でまっ白いシャツの襟もとには緩く結ばれたネクタイ。
　コンタクトにした瞳は、くりくりっとしてて可愛らしい感じ。
　猫背も直して、少しだけ背が高くなったようにも思える。
　何より自信が、早良を輝かせていた。
「紗那ちゃん！」
　早良はそう言うと、あたしに向って大きく手を振った。
　途端に早良を取り巻いていた女子たちが、あたしの方に、「誰よあの女」的な厳しい視線を突きつける。
「おい、何してんだよ。紗那」
　何って隠れてんのよ。
　黙っててよ、蘇王ってば。
「隠れる必要ないだろ、別に」
　だってなんか怖いんだもん、あの女子たちの視線。
　今確実にあたしのこと睨んでたし。
「お前にも怖いものがあったのか」
　ひとこと多いわよ、千寿！
「どうかしたの？紗那ちゃん？」
　睨みあう千寿とあたしの前に、走ってやってきた早良が割り込んできた。
「別に、大したことじゃないけど…ってか、早良。どうしたの？女の子に取り囲まれたりして！」
　あたしがそう言うと、早良はへへと顔を赤らめて答えた。
「特訓の成果だよ。ありがとう、蘇王君、千寿君、紗那ちゃん、橘君」
　早良はひとりひとり握手しながらそう言ったが、最後の右近のところで、いつまでも右近の手が出されないことに気づくと、気まずそうにその手をポケットにしまった。
　こういう時、あたしは右近の手を引っ張ってあげたくなる。
　右近は少し人見知りが激しくて、少しスキンシップが苦手なだけ。
　だけど、お人形みたいな綺麗な顔に表情もなく、こういうをされてしまうと、拒否されたと思われがちなのだ。
　そんなことないのに、みんな右近のことわかってよ。
　あたしはその度に、そう叫びたくなる。
　言葉を無くした早良を見て、あたしがえいやっと右近の手を引っ張ろうとした時、後ろから女の子の声がした。
「それじゃね。八神君。また明日」
「明日は放課後あたしたちと一緒よ。忘れないでね」
　この前のショートボブと、ポニーテールの子だ。
「うん、わかった。それじゃね」
　手を振る彼女たちに、早良も笑顔で手を振り返す。
　お、すごい進歩。
　女の子に積極的になってる、早良ってば。
　彼女たちは、早良の隣に立つ蘇王と千寿と右近を見て、ひそひそと楽しそうに話しながら去っていった。
　途中、ちらりと振り返って。
　む。もしかして、右近に目をつけたとか？
　駄目よ、右近は！
　あたしの右近なんだからねっ。
「おいおい紗那、そう闘争心をむき出しにするな」
　だってぇ、千寿。
「お前早良がモテるのが気に食わないのかよ？」
　蘇王がそう言って笑う。
　そんなんじゃない、と説明しようと思った時、ポニーテールの子がふと振り返って叫んだ。
「ミカリー、ほら行くよ」
　高橋ミカリが、校門のところでじっとこちらの様子をうかがっていたのだ。
　でも、あたしたちの視線に気づくとまるで、見てませんでしたと言わんばかりの勢いで視線を移し、友達の方に駆け寄っていった。
「おいっ、大成功じゃんかよ、早良っ。
　高橋ミカリ、今お前のこと見てたんだぜっ」
　蘇王に背中をばんばんと叩かれて、早良はむせながら答える。
「そっ、そんなことは、ないと思うけど…」
「それにしても、ひと晩にしてヒーローじゃん、早良。いったい、何があったの？教えてよ？」
　あたしがそう尋ねると、早良は簡単に説明してくれた。
　ようは、本当に特訓した通りだったらしい。
　昨日の日曜日、早良がそれぞれから受けた特訓は、至ってシンプルなことだった。
　午前中の蘇王の特訓は、痴漢撃退法と、柔道の大外刈り。
　昼から午後にかけては、千寿に勉強を教えてもらって宿題を終え、
　夕方からは神楽に、女についてのレクチャー。
「けどそれがどうなって、人気者になったの？」
　あたしたちの疑問に、早良は丁寧に答えてくれた。
　まずクラスに登場した早良は、その外見の変わりようから、注目を浴びたらしい。しかも、女子には好意的な目で見られたり、他のクラスの女子からは声をかけられもした。
　それで早良は少し自信がついた。
　が、そう簡単にことは運ばない。
　昼休み、例のいじめっ子から早良は呼び出しを受けた。
　体育館裏の人気のないところ。思った通り、いじめっ子は目立ちすぎている早良に、調子に乗るなと言ったらしい。
「そこでさ、活躍したんだよ。蘇王君の技が」
　相手は三人。一人が早良に掴みかかってきたところで、早良は蘇王に教えてもらった痴漢撃退法を披露した。で、一人が倒れ込む。
「この野郎」
と、次々に殴りかかってきた二人を、今度は大外刈りで倒した。三人は大慌てで早良の前から逃げだしたのだそうだ。
「スカッとしたよ」
　早良は笑顔でそう言った。
　そして午後、生徒に嫌われているいじわるな数学教師の時間。無理やりな難問を黒板に書き、教師は次々と生徒を指名した。だが、大学生レベルのその問題は誰も解くことができなかったらしい。
「誰かわかる奴はいないのか？」
　明らかに生徒を小馬鹿にした言い方だった。そこで、早良は手を上げた。
　びりではないが、成績は中の下の早良だったが、黒板に立つとするするとその問題を解いていく。
　見事正解。教室中に拍手が響き渡った。
「ちょうどね、昨日千寿君が解いていた問題だったんだよ。ほら、僕よくわかんなくて、教科書に丸写ししてたから」
　そんなわけで、早良は今日一日で一躍時の人になったのだ。
「だけど、女の子とも普通に話してたよね、さっき」
「ああ、それは。昨日神楽君がね、こう教えてくれたんだ。
『女を女と思うから、わけがわからなくて怖くなるんだ。おしゃべり好きなばばぁだと思え』って。」
　おしゃべり好きなばばぁ？
　首を傾げるあたしに、早良はあれ？と声をあげる。
「ね、そういえば神楽君は？僕、神楽君にもお礼を言わないと―」
「用事があって今日は来れない。俺から言っておく」
　何でもないことのように千寿が答えた。
　おそらく神楽は、今日も帰ってこないってことだ。
　これでいいのかな。
　軽く千寿を見つめると、千寿はあたしの視線から逃げて早良に向って言った。
「今日はもう特に教えることないだろう。お前を苛めてた連中が、仕返しを企んでるかも知れないから、蘇王にもう少し喧嘩の実践法でも教えてもらっておけ。勉強もやっておけよ。わからないところがあったら、俺に連絡くれればいいから」
「はいっ」
　笑顔で目をキラキラさせながらそう答える早良は、まるで子犬のようだった。
　そして早良はそのキラキラさせた目をそのままにあたしに向けた。
「ね、紗那ちゃん。紗那ちゃんはどう思う？僕。
　変わった？かっこよくなった？」
「うん、すごく変わった。すごいよ、早良…」
「そんなこと―」
　その時、あたしの視界の端っこの方で、右近が一人駅に向かって歩き出すのが見えた。
　えっ！
　ちょっと待ってよ！
「あ、待って右近。駅に行くならあたしも行く行く！
　じゃあね、早良」
　軽く早良に向って手を振ると、戸惑ったように早良も手を振り返してくれた。
　振り返ると右近はすでに歩き始めている。
　ただでさえ、コンパスの幅が違うっていうのに、このままじゃ、本気で走らないと追いつけないかも。
　待って、右近〜！