早良のシャドーとなったシャドーの放った閃光を受けた坂上深雪は、地面に倒れたままでぴくりとも動かない。
「…ちょっ―」
　大丈夫？坂上深雪。
　慌ててあたしと右近が駆け寄ろうとしたところで、悲痛な叫び声がその時、後ろから響き渡った。
「みゆきっ！」
　振り返ると、早良が青い顔をして、声が嗄れるほど叫んでいた。そして早良は、自分を羽交い締めにしていたシャドーの腕を振り払い、転びそうになりながらもこっちに向かって駆けてくる。
「大丈夫？早良」
　思わず差し出すあたしの手も、右近の手も無視して、早良は坂上深雪の傍に座り込むと、その肩を持ち顔を上に向ける。そして、まだ目覚める様子のない坂上深雪の肩をゆっくりと揺すって、その名前を呼び続けた。
「深雪？深雪。目を覚ましてよ、深雪。お願いだからさ」
　その目からは大粒の涙が流れ始めていた。
　ぽたぽたと流れる涙は、そのまま坂上深雪の頬に落ちる。
「ねえ起きてよ、深雪。深雪ってば」
　しかし坂上深雪の体は、力なく早良にされるがままになって揺らされている。
「深雪ぃ」
　悲鳴に近い早良の声に、低くぞわっとするような気味の悪いシャドーの笑い声がかぶさる。
「お前のせいだ、八神早良。
　その女が倒れることになったのは、お前が素直に俺に取り込まれないからだ」
「…僕の、せい？」
　その声に引きづられるように、早良が呟く。
「そうだよ、お前が最初から俺の言う通りにしてれば、その女は巻き込まれることもなかった」
「…僕の、せい」
　やばい。
　早良の目は、焦点が合わなくなるみたいにぼんやりしている。まるで、催眠術にかけられたみたいだ。
「ダメッ、早良っ。目を見ちゃだめっ」
　慌てて叫んだけど、早良にあたしの声は聞こえなかったみたい。
「そう、お前のせいだ。
　だからお前はさっさと俺に取り込まれろ。そうすれば、お前のせいでこれ以上誰かが傷つくことはない」
　早良はそう言ったシャドーの言葉に操られるようにして、坂上深雪を地面にそっと置くと、着ていたジャケットを脱いで、彼女の上にかけた。そして、立ち上がろうとした瞬間だった。
「…行かない、で」
　風で揺れる木々の音に消されてしまいそうな声だったけど、その声は、坂上深雪の声は、確かにあたしにも聞こえていた。
「行かないで、早良」
　早良の掛けたジャケットの下から、すっと伸びた白い手が、早良の腕を掴んでいた。
「…深雪」
「行かないで。
　こうなったのは、早良のせいなんかじゃない。私が自分で選んだことだもの。
　でも、そうしたかったの。早良のこと、助けたかったから。
　早良が私のこと、嫌いなのわかってるわ。だから、私と距離置くようにしてたのも知ってる。
　だけど、今は行かないで。私のそばにいて」
　お願い。
　そう呟く声は掠れていて、あたしの耳には最後まで聞き取れなかったけれど、その想いは十分に早良に伝わったようだった。焦点の合っていなかった早良の目は、坂上深雪を見ているうちに、ちゃんと戻っていた。早良は自分の腕を掴んでいた坂上深雪の手を、反対側の手で掴んで自分から放すと、強くその手を握りしめた。
「嫌ってたわけじゃないよ。ただ僕は、深雪と僕じゃ住む世界が違うって思ってたんだ。
　だから一緒にいるのが辛くて、確かに深雪の言う通り、距離を置いた。でも」
　そこまで言うと、早良は大きく息を吸って、両手で坂上深雪の手を包む。
「続きは、帰ってきてから。悪いけど、ここで待っててくれるかな」
「早良―」
「あいつは、今までの僕だ。いじけて、怯えて、何でも他人のせいにしていた僕。
　だから、けじめをつけてこなきゃいけない。僕が、僕自身の手で」
　早良はそう言うと、坂上深雪から手を放した。坂上深雪の白い手は取り残されたように空に浮いていたけれど、立ち上がった早良の姿を見ると、その手で顔を抑えていた。
　今度は一歩一歩踏みしめるように、早良はシャドーの待つステージへと向かって行く。
　あたしと右近の前を通る時、早良はその足を止めた。
「ごめんね、橘君。先生を突き落としたのは君だって、嘘ついて」
　気にしてないと、右近が首を左右に振る。それを視界の端でとらえた早良は、ふっと微笑んで、今度はあたしに向かって言った。
「紗那ちゃんもごめん。嘘ついて呼びだして」
「いいよ、そんなの別に」
　だいいち、右近に謝ったんなら、そして右近が早良のことを許したのなら、あたしがこれ以上口をはさむこともない。
　そんなことより…。
「大丈夫なの？早良。一人で戦うなんて」
　早良の視線の先、ステージの上では、シャドーがまるで獲物が出てくるのを待つ肉食動物みたいに、今にもよだれを垂らしそうな表情でこっちを見つめている。
「わからない。でも、今逃げ出したら、きっと僕はこの先も、ずっと逃げ続ける人生になるような気がするんだ。
　天使になるとか、ならないとか、そういうことはよくわからないけど、でも。
　胸張って、深雪の隣に立てるようになりたいから」
　力強くそう早良は言った。
　歩いて行く早良の背中に、ぼわっと光の十字が浮かび上がってく。とその光は一気に羽ばたくように大きく広がり、気付けば早良の背中には大きな金色の翼が広がっていた。
　覚醒したんだ。
　でも、覚醒したからって、何が変わるんだろうか。
　あの翼は、早良の体を空に飛ばしてはくれるけど、強い鋼となって早良の体を守ってくれるわけでも、相手の体を貫く武器になるわけでもない。
　大丈夫かな、早良。
　シャドーに勝って、戻ってこれるかな。
　あたしたちのところに。
　坂上深雪の隣に。
　すると、ほわっと誰かがあたしの右手を掴んだ。思わず顔を上げると、そこには右近が立っていた。
　右近は大丈夫だから、とでも言うようにあたしの手をぎゅっと一度強く握りしめると、ステージに上がって行く早良の背中を見つめながら呟いた。
「今は、あいつのことを信じていよう」
　うん。
　そうだね。
　あたしも、大きくて温かな右近の手を、ギュッと強く握りしめた。



　翼の生えた早良を見て、シャドーは腕組みをしながら頷いた。
「ほう、覚醒か。ますます、いいタイミングだ。知ってるか？相手を取り込むにはお互いが最高の力を出し合った瞬間―」
「余計な話はもういいよ」
　話を早良に遮られ、シャドーは露骨に嫌そうな顔をした。
「もう、わかったからさ」
　その言葉に、シャドーは顔を赤くした。
「何がだっ、お前にいったい何がわかるというのだっ」
「そうして話してないと、不安なんだよね。相手が退屈しちゃわないかとか思ってさ。嫌われたくないから」
「なっ」
　シャドーはそう言葉を詰まらせると、更に顔を赤くした。
　そう、つまり、早良に言われた通りだってこと。
「気がついたら、周りの動きに一喜一憂するようになっちゃっててさ。一人ぼっちになって、でもどこかで、自分は悪くないって思って、誰かのせいにして」
　早良は右手を大きく横に伸ばした。すると、その手が光に包まれ、その光が鋭く左右に走ったかと思うと、暗闇には光の剣が現れていた。
「そういう自分が嫌いだった。大嫌いで、でも、どうしていいかわからなかったんだ。嫌われたくないから、相手も言うことを聞いても、それが好かれるってことにはならなくて、おまけに唯一僕にふつうに接してくれてた子を好きになって、告白したのにこっぴどく振られて、周りには身の程を考えろって馬鹿にされて、結局一人で。
　だから、紗那ちゃんや神楽君が僕に構ってくれることが、すごく嬉しかったし、楽しかったんだ。厳しいことも言われたけど、僕の変化を、自分のことのように喜んでくれて。僕は今まで無視されていたクラスメートから注目されることも嬉しくなかったわけじゃないけど、紗那ちゃんや神楽君たちの笑顔を見れたことの方が、嬉しかったんだ」
　そう言って、だけど早良は少し寂しそうな表情を見せた。
「でも結局、過去の自分は否定してた。きっとこのままだと、君のことも否定して、嫌っていたと思う。
　でも深雪は…そんな僕が必要だと言ってくれたんだ。
　取り繕うこともしてなかった幼い頃から、ずっと僕を見てた深雪が」
　そう言って早良は光の剣を大きく振り上げると、すっと正面に構える。
　千寿みたいに、綺麗な構えではなかった。
　蘇王みたいに、気力が溢れる構えでもない。
　そして、神楽みたいに魅せられるような構えでもなかった。
　早良の、早良なりの構え。
　その剣を前に、シャドーは慌てて同じような剣を作ろうとしたけれど、手が震えて、思うように行かないみたいだった。咄嗟に、小さい閃光を早良に向かって放つけれど、それは早良の足を止めるほど強いものじゃなくて、おまけに中心に向かってないものだから、早良が冷静に避ければ、すっと消えていくような光でしかなかった。せいぜい、早良の頬に赤い筋を作ったくらいだ。
　シャドーに向かってゆっくりと歩いていく早良に、シャドーはそうして光を放ちながら逃げようとしたけれど、気がつけば後ろには壁しかなくなっていた。
　ひぃと、小さい悲鳴を上げるシャドーに、早良は話し続ける。
「だからね、僕は君にこう言いたい」
　そうして早良は再び剣を振り上げ、そして一気に降ろした。
「僕には君が必要なんだって」
　剣はシャドーを二つに斬ると、シャドーは光となってパッと暗闇にまるで打ちあがった花火のように広がって、早良を包み込む。光に包まれた早良は、一瞬見えなくなったけれど、それでも徐々に光の中から現れた。そして光は、早良に取り込まれるようにして、すっと消えて行ってしまったのだ。
「覚醒、し終えたな」
　隣で右近がぽつりと呟いた。
　覚醒…。
　したんだ、早良！
「やったぁ！」
　ステージから降りてきた早良に駆け寄ると、ハイタッチしようとしてあたしは大きく両手を上げた。
「やったね！早良！覚醒したんだね！」
　だけど、ぴょんぴょん跳ねて喜ぶあたしに、早良は、
「みたいだね」
とだけ答えると、あたしにハイタッチもしないで、素通りして行く。
　ちょっと！無視するって、どういうことよっ。
　思わずムッとして、怒鳴りつけようと振り返ると、早良は急いで倒れたままの坂上深雪のところに駆け寄っていた。　
「深雪っ！」
　坂上深雪は早良の呼びかけに答えて、ゆっくりと体を起こしていた。
「早良…」
「大丈夫？」
　起き上がろうとした彼女に、慌てて早良がその背中に腕をまわして、助ける。
「私は平気。それより早良…」
　坂上深雪はそう言って、早良の頬に触れる。そこにはさっきシャドーが苦し紛れに放った閃光でできた切り傷ができていたのだ。だけどその傷も、坂上深雪が触れているうちにすっと消えてしまったのだ。
　どういうこと？
　驚くあたしと坂上深雪の前で、早良がうんと頷いた。
「変なんだけど、あいつが僕の中に入ってきてから、体の痛みがスッて消えて行ったんだ」
　言われてみればと坂上深雪は自分の体に触れて答える。
「私も。さっきまで感じてた痛みが、どこかに行っちゃったみたい」
「不思議だね」
　そう言いながら、二人は目を合わせると顔をつけ合わせてくすくすと笑い始めた。
　ん？
　なんか、ちょっと良いムードじゃない？お二人さん。
「ありがとう、深雪」
　突然そう言った早良に、坂上深雪は笑うのをやめて、じっと早良を見つめている。早良もそんな彼女から視線をそらしたりなんかしないで、話を続けていた。
「小さい頃から、よく僕のこと深雪は守ってくれてたよね。あれ、嬉しかったんだ。
　でも、僕の方が男の子だからしっかりしなきゃって思うのに、深雪の方が全然しっかりしてるから、いつからか一緒にいるのが辛くなって。
　それに深雪、どんどん綺麗になっていくから。僕が一緒にいるのが迷惑なんじゃないかって、そう思ってわざと、違う高校を選んだし、登校時間もずらして、顔を合わせないようにしてた。
　ごめん」
「ううん」
「こんな僕でも、深雪と一緒に居てもいいかな。その…幼馴染じゃなくて、それ以上の、恋人として」
「こんな早良じゃなくて、そんな早良だから、一緒にいたいのよ、私は。もちろん、幼馴染じゃなくて、恋人として」
　そうして二人は、強くお互いを引き寄せると、ぎゅっと抱きしめあっている。
　何これ？
　っていうか、つまりは、両思いだってこと？
　あれだけ騒がせておいて、最後はそういうこと？早良？
　すると、後ろからいつからかあたしと同じように二人の様子を見ていた蘇王が言った。気付けば、皆が勢ぞろいして二人のラブラブっぷりと眺めていた。
「結局、紗那はかませ犬だったな」
　かませ犬？あたしが？
「ではなくて、当て馬だと言ってるだろう、蘇王」
　どう言う意味よ？千寿。
「でもまあ、これで無事収まって、よかったんじゃないの？」
　何よ、それ。高未。
　早良って、だいたい高橋ミカリのことが好きだったんじゃないの？
　それで、あたしたちは今まで頑張って…。
「まあ、そういうこともあるだろうし。細かいとこなんか、気にすんな。紗那。だからお前はすぐに振られるんだ」
　何それ！
　関係ないでしょ！今、この場で！
　思わず手を振り上げたあたしから逃げようとした神楽だったけど、ふいに肩を抑えてうずくまった。
「大丈夫か？神楽」
　思わず蘇王が声を上げる。
「ああ…」
　苦しそうな神楽の声。そういえば、顔も少し青白い。
「今回、一番苦労したのは神楽君だもんね。相手が親玉の御堂じゃ、苦労するわよ。帰って治療しなきゃ」
　高未がそう言って、榊が神楽の怪我してない方の肩の下に腕をまわして、神楽を起こした。
「なあ榊、肩を組まれるなら高未の方がいんだけど」
　にやけて言った神楽に、榊は、
「断る」
とぴしゃりと断った。相変わらずだなと、千寿と蘇王たちも笑いながら二人の後を追いかけていく。
　そういえば、早良たちは？
　そう思ったあたしに、千寿が、
「いいから放っておけ。あいつらなら勝手に帰れるし、そのうち連絡してくるだろう」
と冷たく言った。
　振り返ると、二人はまだ固く抱き合ったままだ。
　そうだね。
　お邪魔だし。
「あたしたちも帰ろう、右近」
　そう言って、あたしは動こうとしていない右近に話しかける。右近は少し強張らせた表情をして何かを見つめていたけれど、あたしの声に、少し遅れて、ああと答えて歩き出した。歩き出してからも、険しい表情は変わらない。　
　どうしたの？
　右近？
　じっとその視線の先を目で追いかけると、そこには榊や蘇王たちとじゃれあう神楽の背中があった。