香苗先生の退院の日は、皆が聞かされていた。
　覚醒した早良と、その彼女になった坂上深雪も、先生に謝りたいからと一緒に着いてきた。
　ただ一人、神楽は気がついたら姿を消していた。
「デートなんだろう？いつもの通り」
　そういう蘇王に、あたしはプリプリと言い返す。
　デートなんていつでもできるでしょうが！
　香苗先生は、この後遠くに行っちゃいかもしれないんだよ。
　お別れする前に、言わなきゃいけないこと、沢山あるってのに。
　香苗先生は、病院を出てきたところで、あたしたちの姿を見て少し驚いていたようだったけど、千寿の差し出した退院お祝いの花束は嬉しそうに受け取ってくれていた。
「それじゃ、皆。元気でね」
　タクシーに荷物を乗せ、先生が乗り込もうとした時だった。
「待てよ」
　息を切らせて現れたのは、神楽だった。
「神楽君…」
　神楽はつかつかと先生の前に立つと、
「どこ行くんだよ」
　と尋ねた。先生は俯きながら答える。
「…実家に」
「んなこと嘘だって、もうバレてんだろうが」
　困ったなと先生が小さくため息をつく。先生としたら、居場所を告げればそこにお腹の子供の父親でもあり、神楽たちの父親でもある神楽恭介さんに内緒で産みたいのに、そうはならないからということらしい。
　その時、ふと神楽が言った。
「産んでくれよ」
「え」
　思いがけず優しい声に、先生も顔を上げて神楽をじっと見つめる。神楽は、少し照れながらも、はっきりと言った。
「せっかく授かった命なんだからさ、産めばいいだろう」
　戸惑ったのは先生の方だ。神楽のことをまっすぐに見つめ続けた。そんな先生の視線に耐えられなくなったのか、神楽は、
「それだけ」
というと、先生にくるりと背を向けて、病院を出ていこうとした。慌てて先生も神楽を追いかけようとする。
「神楽く―」
「香苗っ」
　初めて聞く艶のある声に顔を上げると、そこには三十代のスーツを着た男の人が、こっちに向かって走っていていた。
「オヤジ…」
　そう神楽が呟くのを聞いて、それが神楽たちの父親である恭介さんだということに、あたしは気付く。
　なるほど、うちのお母さんがキャーキャー騒ぐわけだ。
　イタリアのスーツなんかが様になりそうなほどダンディで、スタイルだっていい。
　もう四十過ぎてたはずだけど、そうは見えないくらい若々しい。
「連絡をもらったんだ、千寿から。それで飛んできた」
　恭介さんはそう言った。千寿が気まずそうに顔を逸らしている。
　黙ったままの香苗先生の前で、恭介さんは、スーツから小さな箱を取り出すと、パカッとそれを開けて差し出した。
　中にあったのは、輝くダイアの指輪。
　つまり、これって…。
「結婚してくれないか、香苗」
　まさしく公開プロポーズ。
　だけどそれが厭味にならないほど、自然。
　香苗先生は、ゆっくりと自分の義理の息子になる面々を見つめた。
　蘇王、千寿、そして神楽。
　みんなが大きく頷いている。
「…はい」
　先生がそう答えると、じっとその様子を見守っていた病院中から拍手やおめでとうの声が響き渡った。



　とはいえ、先生のご両親にまずは挨拶に行かねば、ってなことで、恭介さんと香苗先生はそのままタクシーで香苗先生の実家に向かって行った。
　その帰り道。
　うちに来る予定だった高未と榊、貴羽も途中で一緒になった。あたしは香苗先生のことを三人にまるで自分のことみたいに話していた。
　だってねぇ、いつかはあたしだって、あんなダイアの指輪、もらいたいもん！
　話が終わったところで、高未がよーしと大きく拳を突き上げて声を上げる。
「これで万事ハッピーエンドね！
　皆覚醒できたし、あとは御堂を倒すのみ！」
　エイエイオー、と声を上げる高未に、貴羽の冷たい声が引きとめた。
「いいえ、まだよ」
「え？どういうこと？」
　そうよ、どういうこと？
　っていうか、早良の覚醒の時に貴羽ってばいなかったよね？何で？
　あたしと高未の視線を受けて、貴羽は気まずそうに顔を俯かせた。代わって、榊が顔を歪めながら声をひそめて言う。
「まだ、覚醒しきれていないヤツがいる」
　え？どういうこと？
　思わずあたしは周りを見回した。
　一番先頭には、神楽と千寿、蘇王がいる。
　その少し後を、早良と深雪が歩いていて。
　右近はあたしたしより少し後を一人で歩いている。
　榊は腕組みをして、まるで独り言みたいにぶつぶつと続けた。
「いや、覚醒したのに堕ちかけているのか、それとももともと覚醒自体が無自覚で、完全じゃなかったのか…」
　何それ、どういうこと？
　その時、後ろを歩く右近と目があった。
　この前の右近の様子。
　あたしは何となく、予感がした。
　そして、その予感通りに、貴羽が言う。
「神楽よ。神楽には、もう一度覚醒してもらう必要があるの」