「これ、代わりのシャツ。気にしないで使って」
　そう言って千寿が用意したシャツを早良に渡すと、ごゆっくりなんて言いながらあたしはドアを閉める。
　ほんの一センチほど、スペースを残して。
　早良が小さく息をついて、シャツに手を伸ばした瞬間、ドアの隙間から中の脱衣所を覗くあたしの背後にずらりと火狩三兄弟が並ぶ。
　まるでトーテムポールだ。
「見えないよー」
　ちょっと杏は、まだ子供なんだから、男の裸なんか覗かなくていいのっ。
「えー、でも見たいっ」
　そう言った杏だったけど、すぐさま千寿に追い出されて、素直にリビングに戻って行った。
　ほっとしたのも束の間、あたしの背中を神楽が押す。
　ちょっと、押さないでよっ。
「黙れ、紗那。ばれるだろうが」
　それは神楽があたしの背中を押すからでしょうっ。触んないでよっ。
「こっちだって、触りたくて触ってるわけじゃねーよ。お前ってば、自己中なだけじゃなくて、自意識過剰だっつーの」
　なんですってぇ！
「おい、そこの二人。夫婦漫才やるなら、外でやってくれ」
「「夫婦漫才じゃないっ」」
　二人してそう怒鳴り返したときだった。いち早く、蘇王が叫ぶ。
「あ、あったー！」
　あたしたちとは一段違う声のバカでかさに、慌てて千寿がその口を塞ぐ。
「馬鹿、黙れ蘇王」
「だって、もごもご…」
　口を押さえられた蘇王は、それでも必死にアピールしようと両手をばたばたと動かす。その大きな腕が、あたしと神楽の肩をバシバシッと叩き、思わずバランスを失ったあたしは、そのままドアに思いっきり突進することとなり…。
「うわぁっ」
　派手に音を立てると、あたしたちはそのままドアを押し開けて脱衣所になだれ込んだ。
　中にいた早良は、新しいシャツを着ようとしていたんだけど、いきなりあたしたちが入ってきたもんだから、慌てて新しいシャツで、自分の裸を隠すように手繰り寄せた。
「なっ…どっ…」
　顔を真っ赤にして、声にならない声をあげた早良の背中は、無防備に鏡越しにばっちりあたしたちに見えた。
　その背中には、ちゃんと十字の傷跡がある。
　それこそが、あたしたちが探していた証。
「えっと、あのぉ。これはいったい…」
　ようやくそういった早良に、神楽がニヤリと笑いながら（おそらくは女の子が見たら、一発で落ちるという笑顔だ）言った。
「待ってたぜ」


　とはいえ、早良は女の子じゃなくて、れっきとした男子高校生で、残念ながら、神楽の笑顔にも落ちることはなかった。
　千寿の説明も、本当にわかりやすかったと思う。
　顔をこわばらせる早良の気持ちをやわらげようと、蘇王が変な説明をしたせいで、話は余計ごちゃごちゃしたけど、それでも、わかりやすかった。
　天使として、ギフトを与えられた７人の存在。
　神の指令を受けるべく、７人は覚醒しなければならない。覚醒するには、シャドーを倒さねばならず、そのシャドーはいずれ自分を襲ってくるということも。
　早良の天使の証を確認したことと聞いて、駆けつけた残りの天使である榊と貴羽、そしておまけの高未まで揃って、あたしたちは、それはそれは何度も力説した。
　だけど、最後に早良が言ったのは、
「僕は…違います。天使なんかじゃない」
という言葉だった。
　はぁ、という大きなため息の後で、蘇王が背中を指差して言った。
「違うっつっても、ココが示してるわけ」
「でも、僕は知りません」
　ソファーに座って、背中を丸め、項垂れて、膝を握り締める早良は、まるで、縮こまった亀みたい。
「頑固だな、意外と」
　大きなため息の後に、千寿がそういうと、ハッとしたように早良は立ち上がった。
「とにかく、僕っ、帰りますっ」
　あーちょっと、ちょっと待ってよっ。
　そう言いかけたあたしより早く、壁にもたれかかっていた神楽が声を張り上げた。
「このままでいいのかよ、このまま苛められてるままで」
　苛められてる？
　どういうこと？
　早良を見ると、早良は明らかに動揺していた。
「どうしてっ」
　思わず振りかえって、そう神楽に尋ねる。
　…これじゃ、バレバレだよね。
　確かにそう言われたら、早良はいじめられっこに見えなくもなかった。
　気弱そうなところとか。
　なのに意外と頑固なところとか。
　蘇王が能天気に感心した声をあげる。
「すっげ、神楽。何でわかったんだよ」
　神楽は、フッと微笑むと、早良を指差して答えた。
「天使だったらな、このくらい簡単なわけよ。ちなみに透視もできるぜ。今日の、紗那のパンツはピンクとか」
　ちょっちょっと！！
「くだらないこと付け加えなくてもいいだろ。想像したくもない」
　あきれた声を千寿があげる。
　くだらないって、何をっ千寿っっ。
　だけど、その前に神楽っ！
「なっ、何でわかったのよっ」
　動揺して声が裏返るあたしに、神楽はきょとんとした表情で答える。
「こいつの鞄から出てきた教科書、落書きだらけだったぜ」
　そういって、教科書をひらひら神楽が揺らす。
「じゃなくて、あたしのパンツッ」
　花も恥らう女子高生なのよっ、あたしはっっ。
　しかも右近がいるまえでっっ。　
「パンツ？あ、適当だけど、当たってたのかよ」
　へっ？
　適当？
　すると神楽はくすりと笑った。
「お前何自分で暴露してんだよ」
　…何ですってぇっっ？
　あたしが神楽に掴みかかろうとした時、
「やめてくださいっ」
と早良が叫んで、神楽の手にあった落書きだらけの教科書を取り返し、慌てて鞄に入れる。だけど、慌てすぎて、早良は鞄を落とした。中からは同じように落書きされてる教科書が零れ落ちる。
　あたしはそれを拾って、早良に差し出したけど、早良は真っ赤な顔で急いであたしからその教科書を奪い取った。
　気まずい雰囲気のままにあたしたちに背を向けて、出て行こうとした早良に、神楽がまた話しかける。
「見返したくねぇのかよ、苛めてる奴ら」
　早良は、ちょっと立ち止まって答えた。
「…無理ですよ、僕には」
　こわばった声に、丸めた背中、じっと俯くその横顔。
　…確かに、見返しするのは、難しいような気がするけど。
　だけど、神楽は大きく声を張り上げていった。
「無理じゃねぇよ。お前ならできるって」
　弾かれたように早良の背中が、ぴんと起き上がった。
　たたみかけるように、千寿が続ける。
「それに天使に覚醒できたら、別の世界が見れる」
　蘇王も続いた。
「俺たち協力するし」
「女の子にだってもてるわよ」
　高未ってば、いきなりトンチンカンなことをっ。
　だけど、実際早良が一番反応したのは、この高未の言葉だった。
「…ほんと？」
　小さな声で、早良がそう尋ねる。答えたのは調子のいい蘇王。
「まじまじ、大マジッ」
「ちなみに今、恋人は？いるの？」
　明るい声で高未が聞くと、早良は再び肩をがくりと落として答える。
「…いない」
　あーっ、もう、のってきたところだったのにっ。
　高未は慌てて、次の質問をした。
「…そう。えっとじゃ、参考までに、だけど。恋人いない暦は？」
　ピクリ、とだけ早良の肩が反応したけど、返事はなかった。
　ってことはつまり、恋人いたことがないってこと？
　次の瞬間、げらげらという笑い声と一緒に、神楽が叫んだ。
「何だよ、お前童貞かー」
「子供がいるんだからそういうこと言うな、神楽」
　榊が頭を抱えて言い諭す。
　だけど、神楽は笑いながらも話を続けた。
「安心しろ、紗那なんか、４回連続ふられてるんだぜ」
　ぬっ。
「ちょっと人の話に摩り替えないでくれる？」
　しかも４回連続っていうけど、逆を言えば４回あたしは告白されてつきあったっつーの！
「え、じゃ、君ってフリーなの？」
　すると急に早良は顔をあげて、そうあたしに尋ねる。
「え？まあ、付き合ってる人はいないけど、でもあたしには運命の―」
　運命の人がいて、その人はそこにいる右近ってちょーかっこいい人で。
　って言おうとしたところで、千寿があたしの口を押さえた。
「紗那はフリーだ」
　ちょっと千寿何すんのよ。
　あたしは運命の人がいるってことをっ―。
「…少し黙ってろ」
　だけど千寿はそう言って、あたしを冷たく睨みつけた。
　ちょっとあたしがどうして黙ってなきゃいけないのよっ。
　戦闘体制に入ったあたしの前で、早良はぽつりと呟いた。
「そんな、ばら色の未来があるのかな、僕に」
　え？いきなり前向き？
　そんな早良の肩を、神楽はぽんと叩いて言う。
「やってみねぇとわからねぇだろ、そんなこと」
　早良は自分に向けられた期待の視線をぐるりと見回すと、ごくりとつばを飲み込んで言った。
「…交換条件ってどうかな」
　交換条件？
「どんな条件だ」
　千寿が鋭く切り返す。
　こんなことを言う天使の卵は初めてだ。
「うちのクラスに高橋ミカリって子がいるんだ。その子が僕と、付き合うって言ったら、僕は天使になるよ」
「高橋ミカリ？」
「誰だそれ」
　一斉に向けられた視線から、早良は少し顔を逸らして答える。
「クラスメートの子。かわいいし、人気があるよ」
　ふーん、高橋ミカリねぇ。
　早良はその子のことが好きなんだ。
　千寿が、早良ににじり寄って言う。
「そいつとお前が付き合えば、覚醒するってわけだな」
　少しだけ沈黙があって、早良は小さく答える。
「…ああ」
　その返事を聞いたあたしたちは、ほっと胸をなでおろした。
　よしっ、契約成立！
「よし、そうとなったら、紗那。お前、練習台だ」
　千寿はいきなりあたしを指差してそう言った。
　へ？ちょっと、練習台ってどういうことよ？
「早良は女に慣れてない。だから、まず性別だけが女であるお前になれることが重要なんだ」
　？
　…ん？
　ちょっとまって、それってどういう意味？
　噛み付きそうになったあたしを交わして、千寿はもう一度早良に尋ねた。
「それでいいな、早良」
　早良は俯くと、小さく答えた。
「…うん」



　とりあえず、明日買い物に行く約束をして早良を送り出した後、あたしたちはリビングに集まった。
　杏があきれた顔でいっちょまえに言う。
「大丈夫かな、早良」
「まあ、何とかなるっしょ」
　そう蘇王が答えた。
　相変わらずポジティブシンキングっていうか、
　能天気っていうか、
　何も考えないっていうか。
　どうして、えみもこんなバカ蘇王と付き合うことにしたんだか。
　榊も少し不安そうに口を開く。
「だが覚醒は、そう簡単にできるわけじゃない。少なくとも、なろうとしてなれるわけじゃないんだ」
「でも、覚醒しようって思う気持ちは大事でしょ」
　オー、マイ、ガット。
　高未も、蘇王に負けず劣らず能天気だ。
　その時、神楽がふいに呟いた。
「…思ったんだけどさ。
　俺たちは、ちゃんとシャドーを倒して、覚醒できたわけじゃん。
　だけど、早良がシャドーに負けたら、あいつどうなるわけ？今のままじゃどう見ても勝ち目ないっしょ」
　確かに。
　誰もが神楽の言葉に納得したのか、黙り込んだ。
　確かに、負けちゃったら、どうなるんだろう。早良。
　すると、貴羽がさらりと答えた。
「そうしたら、シャドーに取り込まれるだけよ。シャドーが、私たちに取り込まれたように」
「そっか…」
　まだ、会って数時間だけど、
　まだ、知らないことも沢山あるけど、それでもやっぱり早良がいなくなっちゃうのは、嫌だな。
　頑張って、シャドーには勝ってほしい。
　小さくため息をついたあたしの肩を、高未がぽんと叩いた。
「とにかく、彼が覚醒するかどうかは、あんたにかかってるからね、紗那」
　へ？あたし？
「その高橋ミカリって子と付き合えるような素敵な男の子にしてあげなさいよ」
　えー、どうしてあたしがっ。
　叫ぶあたしに、高未が嬉しそうに答える。
「だって、紗那がいわゆる擬似恋愛の相手になるわけでしょう？重要重要」
　えっ、さっきの練習台ってそういうことだったの？
　慌てて千寿の方を無理向くと、千寿はしらっと視線を逸らした。
　騙したわねっ、千寿っ。
　おまけに神楽まで茶々をいれる。
「場合によっては、キスぐらい許してやれよ」
　キッ、キスですってぇ？！　
　それって、右近はどうなるのよ？
　そう言ってあたしは右近の方を振り返ろうとしたけれど、千寿がその前に立ちはだかると、あたしの肩をがしっと掴んだ。
「この際右近は関係ない。
　よく聞け、紗那。お前の働きに、世界平和がかかってるんだぞ」
　関係なくないー！！
　だいたい、誰かが犠牲の上で成り立つ世界平和なんて、おかしいでしょっ。
　絶対やだやだっ、そんなの嫌だっ。
　好きでもない人と、キスなんて絶対いやーっ。
「別にキスしろっってわけじゃないでしょ」
「つーか、いいだろ。キスくらい」
　蘇王と神楽が呟く。千寿が呆れたように右近に視線を向けた。
「右近からも何か言ってやれ」
　途端に、皆の視線が一斉に右近に集まる。
　その視線をたっぷり受け、右近は僅かに頭を下げた。
「…頼む」
　顔を上げる瞬間、右近の視線があたしの視線とぶつかった。
　苦渋の選択。
　そんな顔してた、右近。
　その瞬間、あたしの心臓は跳ね上がった。
　だって、大好きな人が、こんなに切ない表情してるんだよ。
　右近がそうやって、頼むんだったら、
　どうしてもって言うんだったら、多少のことは我慢するよ。
　頑張って、早良をかっこいい男の子にしてみせるっ。
　あたしは右近に向かって大きく頷くと、脇で忍び笑いしている火狩三兄弟に向かって言い放った。
「その代わりあんたたち、本当に早良が覚醒したら、あたしの言うことひとつ聞きなさいよ」
「えー」
「ありえねぇ」
「転んでもただでは起きないヤツだ」
　えーいっ、うるさいっ。
　とにかく、約束なんだからねっ。



　その夜、お風呂から出たあたしが、ふらふらと廊下を歩いていると、真剣な千寿の声が、二階から聞こえてきた。
「…わかりました。あの、もし何かあれば、ご連絡ください。お願いします。失礼します」
「どうだった？」
　心配そうな声は、蘇王の声だ。
　あたしは階段の下から二階を見上げた。
「実家にはアメリカに行ってからは一切連絡がないらしい。
　当然、親父とのことも、何も知らなかった」
「先生、やっぱりこっちに来てるのかな」
　先生という言葉に、あたしはハッとする。
　早良のことばかり気にしてたけど、三人の中学時代の先生も、姿を消したんだった。
　名前は、名倉香苗先生。
　三人のお父さんとアメリカで一緒に暮らしていたはずの、母親になるであろう人。
　そして、神楽の初恋の相手。
「俺はそう見てる。…きっと、お前に会いに来るぞ」
　千寿の真面目な声に、神楽があっけらかんと答えた。
「どうしてオレに？関係ねぇよ」
「わかってるんだろ、神楽」
　有無を言わせない強さだった。
　千寿が少し焦っているのも、それなりの理由がある。
　名倉先生のお腹には、赤ちゃんがいるのだ。
　バサッと何かを捨てたような音がしてから、
「とにかくオレは、関係ねぇし、探す気もねぇから」
と神楽の声が響いた。神楽の名前を呼ぶ蘇王の声を、荒々しく閉めるドアの音がかき消していた。