天使の翼 神楽篇
9.マイナス1
暗闇にそびえたつ学校は、雲間からのぞく満月をバックに悪魔の館っぽくて、いつか見た夢のように怖かった。
あたしは正門の前に自転車をおいて、閉まってる門に気付き、一瞬悩んでいた。
やっぱ、よじ登るか。
「何してんだ、早く行こうぜっ」
突然後ろから大きい声がして振り返ると、そこには蘇王と千寿がいた。
どうして、あんたたち。
千寿は汗でびっしょりで、息も上がってる。
あたしは自転車で来たのよっ。どうしてそのあたしに追いつけるわけ？
「とにかく正門、よじ登るぞっ」
蘇王はそう言って、さっさとよじ登ると、一番上のところであたしに手を差し出した。
「手を貸せ、紗那」
さすが猿並。木登りは得意なのねっ。
「いいから早く行けっ」
後ろから千寿の恐ろしい声がして、あたしは慌てて蘇王の手をつかんで正門を乗り越えた。
「神楽は屋上か？」
そうしてあたしたちは走り出した。その最中に、あたしは通り魔事件の被害者の共通点と、残るのは神楽一人であることを伝えた。話し終わった頃には、昇降口に着いてたけど、あの事件のせいで、学校には先生さえもいなくて、鍵がかかっていた。
どっどうしよっ。
「蘇王」
千寿がそういうと、蘇王はわかったと言うように頷いてから、ゆっくりと鍵に手をかざした。
あんた、何やってるの？
「集中してるんだ、少し黙ってろ」
黙ってろったってね、千寿。鍵はあかな…。
「開いた」
カチリという音と、そう蘇王が言うのが同時だった。
何？
呆気に取られてるあたしを置いて、二人は昇降口のドアを開けて校舎に入っていく。
鍵が…。
「早くしろっ。紗那」
今のって、何？
ぼうっとしてるあたしの手を、蘇王がつかんだ。その手は不思議な熱で温かかった。
だって、触れてもないのに、鍵もないのに、どうして…。
「ばれるのも時間の問題だし、後で気付かれたりして面倒になるのは困るから説明しておく。俺たちは、俺と蘇王、そして神楽は不思議な力がある」
不思議は、力？
「一般に言う超能力だ。今までにもおかしなことが起こったろう。あれは全て俺たちの力だ」
もしかして、落ちてきた花瓶が勝手に割れたのも？
窓から落ちそうになったのに助かったのも？
「そう。花瓶はオレ。走っても間に合わないと思って咄嗟に。弁当箱の時は千寿」
「お前が家を自転車で出ていったのに、ほぼ同時に俺たちがついたのも、俺がテレポートしたからだ。それからお前が言ってたバスの話。あれは神楽の力だ」
神楽が？
「もともと俺たちに力があったわけじゃない。高校に入ったとき、突然現われた。しかも３人同時に。はっきりと自覚したのは１ヶ月くらい前だ」
「それでも、いつもってわかじゃないし、コントロールだって利かない。けど、最近何故かその力が強くなってきてるんだ」
千寿は真剣に話した。
「神楽は言っていた。あのバスを止めたとき、あんなに強い力を使ったのも、誰かの力に抵抗したのも初めてだ、と」
抵抗？
「バスが暴走を始めたとき、神楽はバスの乗客の誰かが、心の中で言ってるのを聞いている。止まるな、走れ、もっと怖がれ」
あの、悲鳴の中で、そんな風に思った人がいたなんて…。
「神楽が悪い予感がした時に、園児が前に現われた。その声は続けた。いいぞ、撥ね飛ばせ、皆殺しだ。だが神楽も強く念じた。飛べ、とね」
そして実際にバスは飛んだ…。
「助かったとき、神楽は感じたって言ってた。誰かがものすごく悪意を持って、心の中で叫んでたって。オレの邪魔をした奴は誰だって」
「犯人は、おそらくバスを暴走させた人物だ。そして、俺たちと同じ力の持ち主」
「自分の邪魔をされて、恨んでるんだ」
でも、どうしてそれがバス停で降りた男の人になるの？
「心の声は、聞こえる声と同じだ。ただ、それだけでは人を判断できない。それに犯人が神楽と同じレベルだとすれば、バスにいるかいないかの判断しかできない」
千寿がそう言い終わったところで、足を止め、サッと身構えて振りかえるのと、蘇王が千寿に話しかけるのが同時だった。
「来たぜ」
廊下の向こうから、何か光るものが見えた。それは月明かりの中で、だんだんと姿を現していく。あの、あたしと神楽を襲った黒ずくめの男と同じ格好が、全部で５人いた。
なんで５人もいるわけ？
しかもみんな、何故か顔ははっきりと見えなくて、わかるのは不敵に笑う口許だけ。それが暗闇の中で浮かび上がってて、それはもう不気味。命名、ブッキーズだ。
「５対２マイナス１か。不利だな」
ちょっと何ナノよ、そのマイナス１って。
千寿は口早に、そしてなるべく小声で言った。
「お前に決まってるだろ。紗那は、お前に任せた蘇王。俺は北校舎から屋上に向かう。お前は南校舎の階段を使え。４階の南校舎、西階段で待つ」
校舎は４階建て、南校舎の西階段が、屋上への唯一の入り口だ。
千寿は分かれ道のところから、サッと走り出した。ブッキーズも二人がそんな千寿を追いかけた。
「紗那。お前はオレから離れるなよ」
さすがっ。柔道２段。頼もしいっ。
「だからって、くっつきすぎんなよ」
だって…。
「伏せろっ」
一人目が蘇王に向かってやってくる。叫んだ蘇王はあたしの頭を押さえつけると、ものすごい速さでそいつのパンチをかわし、沈んで思いっきりアッパーカットをくらわす。
ナイスッ。
殴られて、一人目が床に伸びた。
「いいから紗那っ、走れっ」
床に伸びた男のとどめをさすべく、あたしがお腹を蹴ってると、蘇王はあたしの手を引いて、二階に上がり出した。
でも、残りのブッキーズも追かけてくる。
「それでいいんだよ、お前がいて一度に３人も相手できっか。一階で一人ずつ倒していきゃ、４階は走るだけで済む」
結構頭いいんじゃん。蘇王ってば。
三階へと続く階段に足をかけようとして、その踊り場で蘇王は足を止めた。だって、目の前に突然ブッキーズの一人が立っていたんだもん。
うそっ。なんで？だって、後ろにいたのに…。
「テレポートしやがった…」
蘇王がそう呟いたとき、奴らが蘇王に殴りかかってきた。
ひえーっ。
蘇王はうまく避けたけど、さっきみたいなカウンターはできなくて、それどころか避けたところに膝蹴りが入ってきた。
うわっ。痛っ。
その蘇王に、今度は顔をパンチ。蘇王危うしっ、と思ったら、蘇王もしっかりボディーブロー。
いいぞ、やれやれっ。
アクションスター顔負けに、蘇王は腕を突き出し、足を蹴り上げる。その躍動感にあたしはわくわく、どきどきしながら見ていた。蘇王の拳が空気を動かし、
体
は止まることがない。時に蘇王は命中し、時に殴られ、それでも立ち向かっていく。そんな蘇王を見ていると、突然ザザッと目の前の画面がずれる感じがして、
それまでいた蘇王に代わってブッキーズの一人が立っていた。
うっそぉ…。
そいつは口をニヤッとひんまげて、あたしに向かって腕を振り上げた。
キャーッ。
頭を抱えた瞬間に、その男はウッとだけ言うと、床に倒れた。
はれ？
倒れたブッキーズの後ろには、口を切ったらしく、手で血を拭う蘇王がいた。その蘇王の足元にはもう一人のびていた。
「行くぞ、紗那」
うーん。蘇王ってばかっこよいかも。
「遅い」
屋上での入り口前で、千寿は傷だらけの蘇王に向かってまずそう言った。
あんたねぇ、もっと労いの言葉はないわけ？
そう言おうと思ったけど、そういう千寿の顔だって、結構痣がある。眼鏡も壊れちゃったみたい。無傷はあたしだけ？
「マイナスがいんだからしゃーねーだろ？千寿」
ちょっと何？マイナスって。あからさまにいうことないでしょっ。
「鍵がかかってるんだ。できるか？蘇王」
頷いた蘇王だったけど、手を鍵にかざそうとした時に、その手は違う方向を指した。
「まじかよ…」
そこには、さっき倒したはずの３人があたしたちを囲んで大集合してたの。そして、みんながみんな、ニヤリと不気味に笑ってる。
何なのっ。
「千寿」
蘇王が千寿に呼びかけた。
「力使い過ぎちまって、ここ開けるには時間がかかる」
見れば蘇王の拳は血でまみれている。
「北校舎にも、たしか入り口あったよな」
あったけど、扉は壊れてるし、北には手すりがないから、生徒は立ち入り禁止になっていた。けど、北から入れば、渡り廊下の上を伝って、南にも渡れる。
「ここはオレに任せて、紗那連れて行ってくれよ。オレもこいつら倒したら、このドア開けてみせるから」
「お前一人で大丈夫か？」
蘇王は不敵な笑みを浮かべた。
ちょっと蘇王ってば、珍しく知的っぽい顔してるんじゃない？
「お荷物がいない分、楽ってもんよ」
お荷物って、あたし？
千寿は蘇王に殴りかかろうとしたあたしをつかまえて、大きくジャンプをして奴らを蹴倒すと、北校舎へと走り出した。
「お前は敵かっ」
だって、蘇王の奴。あたしのことお荷物だって。
「違うと言えるのか？」
う…。でも、少しくらいは役に立つはずよ。
「…それじゃ、その役に立つところを見せてもらおうか」
千寿はそう言って、立ち止まった。目指す北校舎の東階段の前には、千寿が倒してきたはずの二人がいて、そして、さっきの連中からは一人があたしたちを追いかけてきていた。
「敵は不死身ってことか」
そういうと千寿はスッと構えて相手が来るのを待った。前に二人、後ろに一人。相手は三人でこっちは一人、マイナス1…。どうしたって不利。
千寿、大丈夫なわけ？だって、あんた頭はいいけど、蘇王ほどパワーあるようには思えないし。
「ケンカは力だけで勝つもんじゃない。お前は黙って、邪魔にならんとこにいろ」
千寿は廊下に忘れられていたほうきを手に取った。
そこからは、本当に見事なものだった。まるでほうきを槍のようにしてどんどん敵を倒していった。それはまるで何かの舞を見ているように綺麗だった。
蘇王は力でねじ伏せてるって感じだったけど、千寿は違う。無駄な動きが全くなくて、計算されてるっていう感じ。静と動がハッキリしてるの。
最初に前の一人目のパンチを左に避けると、ほうきを相手の首においてそのままぐいっと振り落とす。相手がぐらついたところに一発回し蹴りをして、ノック
アウト。背中に構える二人目には、グッとほうきを後ろに下げて突き付けると、ひるんだところをぐるっと半回転してほうきの反対側でガツンと一撃。あっとい
う間に二人が倒れた。
ケンカって、実は頭でやるものなのかもしれない。でもって、実は綺麗なものかもしれない。だって、あまりに千寿が踊るみたいに綺麗な立ち振る舞いをしてるから。
鋭い瞳に、乱れた髪がかかって、ゾクッとするほど綺麗だった。あたしはそんな千寿を見て、ドキドキしてしまった。
うーん、千寿もかっこいいかも。
でも、３人目はそうはいかなかった。相手の蹴りを、ほうきで避けようとしたんだけどそのほうきが真っ二つに折れてしまったの。でもって、相手の力に負けて千寿は横に蹴り飛ばされた。
ひゃー、パワー負けっ。
よろけた千寿に次の拳が飛んでいく。
頑張れ、千寿っ。
なんて応援してたあたしは、誰かにグイッと足首を掴まれた。
げげっ。さっき床にのびてた一人目じゃん。
助けて千寿っ、っていおうとしたけど、千寿は３人目を相手にしていて、そんな千寿の後ろには、二人目が折れたほうきを持って殴りかかろうとしてるとこだった。
危ないっ。
あたしは足首をつかんでる奴の頭を思いっきり蹴ると、落ちていたもう片方のほうきを掴んで、思いっきり二人目の頭を叩いた。そいつはほうきを握り締めたまま、床に崩れた。
ふう。
「マイナスでもないな」
千寿もついに３人目を倒してそう言った。
あったぼうよっ。
そうして無事に、あたしと千寿は北校舎の東階段にたどり着いた、のは良かったんだけど。
「ここのドア、壊れて鍵がかかってるんでしょっ」
「当たり前だ。鍵は存在しない」
だったらどうやって、屋上に出るのよっ。
「決まってるだろ、窓を割るんだ」
千寿は何か言おうとして口を開きかけたが、急に階段の下に視線を走らせた。そこにはさっき倒したはずのブッキーズがまた立っていた。
「任せる」
千寿はさっきのほうきの一方をあたしに投げた。
よし、割ればいいのねっ。
あたしは思いきり窓ガラスを叩いた。バリバリと音がして、風が急に吹きこんできた。
よしっ。
あたしは綺麗に窓ガラスを割ったけど、窓枠があって、それは体を通すには小さすぎた。
「千寿、窓枠があって、出れないっ」
階段下に向かって叫ぶと、千寿の声が戻ってきた。
「そこのドアの鍵は、外からは手でかけられる。割れたところから手を伸ばして、鍵を開けろ」
あたしは言われた通りにしてみた。でも、手は届かない。
う、短いって、こと？
「千寿っ、届かないよ、長さが足りないっ」
下からは殴り合う音がして、それから千寿の切れかかった声が聞こえた。
「だったらほうきでも使えっ、それが無理なら窓枠を壊せっ」
こんなもんが壊れるかっつーのっ。
あたしはとりあえず持っていたほうきを外に出して、勘に頼ってドアの鍵の辺りに届くように上下に動かしてみた。
どこよっ。
その時、反応があった。
これだっ。
けど、何度やっても、鍵の開くような手応えはない。
早くしないと、神楽が危ないのよっ、もうっ。早く開いてよっ。
あーもー窓枠壊すしかないのぉ？
ほうきを投げるように思いきりドアを叩いたときだった。カチリと音がして、ドアの鍵が開いた。
やったぁっ。
ほうきを投げて、急いでドアを開ける。重いドアはギィという音を立てて、開いた。風が強く流れてきて、あたしは髪が舞う中で、ようやく屋上に立った。
これで南校舎に行けばっ。
そう思って、あたしが南の方角を見たときだった。誰かがあたしの背中にぶつかってきた。
「いったぁ…。神楽？」
倒れたあたしが起きあがると、そこには神楽が床から起き上がったところだった。
「…紗那？なんでお前」