天使の翼 神楽篇
10.光の中で
「…紗那？なんでお前」
そう言い終わる前に、神楽はあたしを抱えて横っ飛びをした。次の瞬間、あたしの居た場所に閃光が落ちてきた。
雷？
「いつまでも逃げ切れるとは思うなよ」
上から声がして、見上げると雷雲なんかなくて、晴れ渡った夜空に浮かぶブッキーズがいて、左手をこっちにむけていた。あたしはその男が、あの時あたしたちを襲った男だって直感で分かった。
「あの時オレを邪魔した力はどうした？」
神楽はあたしを突き飛ばし、自分は反対に逃げた。あたしたちの間に、閃光が男の手から落ちてきた。男はその指先を、神楽にむけて、次々と閃光がそこから
走った。神楽はそれから逃げつづけ、渡り廊下を使って南校舎に戻る。男はそんな神楽を空中から追いかけながら、話し出した。
「お前を探していた。ずっと、ずっと。まさかあの時、あんな場所で出会うとは。お前の力を知ったとき、震えが来たよ。これほどかとね、だがお前はすぐに力を消して、バスを降りてしまった。俺が見つける前に。見つけるのに苦労した。一度は逃げられたが、な」
やっぱり千寿の言ってたことは正しかったんだ。あの時の復讐を、こいつはしようとしてるんだ。
「何言ってんだよ、オレはあんたなんか知らねーよ」
神楽がそう叫ぶ。だいたい男の顔はブッキーズと一緒でよくわからないのだ。見えているのはニヤッと笑う口許だけ。男はククッと笑ったかと思うと、吐き捨てるように言った。
「知らないとは言わせないぞ。あの時三度もオレの邪魔をした」
「三度？」
閃光が駆け抜けて、神楽は必死で逃げながら尋ねた。閃光があたった手すりはぐにゃりと曲がっていた。
「そうだ。スリに、痴漢に、暴走バス。満員での苛立ちを利用して人の心に棲む悪を呼び起こしてやったのに」
「それじゃ、あのガキのことも、スケベオヤジも、みーんなあんたに操られたってのかよ。ケッ、冗談じゃねぇよ、そんなことできっかっ」
するとクククと笑い声がして、男は答えた。
「覚醒以前の問題だな。御堂様が出てくることもない」
「覚醒？御堂？なんだそれ？」
「そんなことより、自分の身の危険を考えるべきじゃないのか？」
えっ？っという一瞬の神楽の隙に、また閃光が走って、神楽は驚いたように右腕を押さえていた。その下からは制服が裂けて、真っ赤な血が流れている。ぐっとにらみ上げた神楽の頬からも、一筋の血が流れていた。
「もっと怒れ、もっと憎め。もっとだ。そしてあの力を見せるのだ」
「お前、誰なんだよ」
「俺はお前のシャドーだ」
「シャドー？」
神楽は顔をしかめる。男はふと気付いたように不敵な笑みを浮かべると言った。
「そうか、いい方法を考えついた。お前の怒りのボルテージが最大に上がる一番の方法」
そういうと、男はスッとあたしを指した。
「お前の一番の弱点、女だ」
げっ、まさかあたしぃ？
そいつの指先が青く光るのが見える。あたしは逃げることもできずに立ちすくんでいた。
「紗那っ」
神楽の叫び声が聞こえる。
あたし…。殺されるの？
そう思った瞬間、あたしは遠くの神楽がこっちに向かって飛んでくるのが見えた。そう、校舎を飛び越えてやってくる神楽の背中に、あたしは微かに光る羽根
が
見えた気がした。同時に閃光もこっちに向かってきて、あたしは目をつぶることもできないくらいに固まっていた。それは、最後までビデオの駒送りのように、
だんだんと大きく見える閃光と神楽があたしに向かってきていて、そして最後には閃光が神楽の影になり、そしてあたしはまた大きく飛ばされた。
「キャーッ」
あたしは叫んだ。床に打った腰が痛かったからじゃない。閃光に怯える声でもない。あたしに重なるようにしている神楽の背中が、制服の破けたところから火傷の様に爛れて、おびただしい血が見えたから。叫び声と重なるようにして、高らかな笑い声が上がる。
「女が好きなところは同じだな」
神楽はうめき声を上げながら、起きあがってあたしに言った。
「お前はどっかに言ってろ、邪魔なんだよっ」
動けずにいるあたしに、もう一度そして神楽は叫ぶ。
「早くしろっ」
いつもと違う気迫に押されて、あたしは急いで出てきた入り口の建物裏に逃げ込んだ。
「お前の相手は俺だろ？来いよ、やってやろうじゃん」
ふらつきながらも、神楽は拳を握って、構えた。
大丈夫なの？そんなんで。
「そう来なきゃな。最大の力を発揮した時に、俺とお前は入れ替わるんだから」
「ごちゃごちゃ言ってんなら、俺から行くぜっ」
神楽はそういうと、飛び上がって、やつと同じ高さのところまで浮かび上がった。
そして、スッと瞬間移動するようにして、やつの顔を殴りつける。
神楽…。飛んでる。空を、飛んでる。
あたしは真剣な顔つきで戦う神楽を、その時初めて見た気がした。
守りの戦いじゃない。攻めの戦い。
今までの神楽とは違う。端正な顔が崩れるほどの表情に、それでもあたしはドキドキしていた。
それにしても、あたしの目、おかしくなったのかな。時々、神楽の背中に金色に輝く翼みたいのがみえる。
「まだ、甘いな」
ふと後ろからゾッとするほど冷たく響く、低い声がした。振り返るとそこにはいままでのブッキーズとは別格の、それでも黒ずくめの男が空に浮かんでいた。
見てるだけで、凍り付きそうなほど、冷酷で美しい…。
顔は黒い布で隠してあるのは変わらないのに、それでも綺麗だと思えてしまっているあたし自身に驚いた。そしてその男はふっと視線をあたしに向けた。
逃げなきゃ。
直感でそう感じた。でも、あたしが動く前に男はあたしを後ろから羽交い締めにした。もがくあたしを無視して、男は神楽たちに向かって、奴らとおなじように
閃光を発した。その閃光は、神楽と相手の丁度真中を走り抜ける。驚く二人がこっちを見つめて、そして神楽の相手が言った。
「御堂様」
「無駄に時間をかけ過ぎだ。覚醒せずとも終えてしまえ」
それに答えるようにして、神楽の相手は大きく片手を上げた。その手には、今までとは大きさの違う光の塊ができ始める。そして、その塊は、だんだん剣の形になっていく。
「さて、ここで見物することにしよう」
御堂と呼ばれた男はそう言った。
剣はどんどん輝きを増し、ついに完成した。やつはそれを手に持つと、神楽に剣先を突きつけた。
危ないっ、神楽っ。
あたしは御堂の手を思いっきり噛んだ。
「…っ」
力が緩んだところで、下に落ちていたガラスの破片をつかむと、後ろを振り向きながら切りつけるように振り下ろした。御堂は反応して、あたしから離れてガ
ラスを避けたけど、行動が意外だったのか、避けきれなくて顔を隠してる布をガラスは掠めて、切り裂かれた布からは、左目がのぞいた。
その時、あたしたちはお互いに息を呑んだ。あたしは、その瞳が残酷なほど透き通った美しさでもえるように赤かったことに、そして御堂はおそらくあたしに
顔を見られたことに。さっとつきに雲がかかり、御堂の顔は一瞬にして闇に消えた。次に月が現われたとき、御堂はもう消えていた。ほんの一瞬のことだった。
ってゆーか、神楽っ。
あたしが神楽を見ると、なんとか剣を逃れているけど、どう見たって劣勢だった。
えーい、当たれっ。
さっきのほうきを投げてみたけど、あたしの力じゃ届かなかった。そうこうしてるうちに、剣は神楽のほほを掠めた。
えーい、他の物っ。
焦ったあたしが触ったのは、なんと携帯だった。
もうこうなったらやけくそだっ。
携帯を投げた瞬間、男は神楽に向かって剣を大きく振り下ろそうとしていた、神楽は咄嗟に自分の顔の前で腕を交差させた。携帯は、その腕の前を通過しようとしていた。
げげっ。外れたっ。
剣が神楽を切りつけようとしてる。でも何故かその光は、神楽の腕の前でぱっと散った。そしてその光の屑は、神楽を守るようにして包み込む。
どういうこと？
男も驚いていた。それに気付いた神楽は、交差していた腕をほどき、自分を守る光を突き破るようにして、相手に殴りかかった。光たちはまた一瞬にして散っ
て
いき、そして神楽の拳も金色に輝く光に包まれ、相手の顔に思いっきり刺さった。そして、その光が今度は男を包んだかと思うと、また一瞬で散ってしまった。
その中に、男はもういなかった。
最後の光の屑か消えたとき、神楽は気を失うようにして、下に落ちていった。運良く神楽の下は渡り廊下の上だった。
「神楽っ」
あたしは屋上から落ちないように気を付けながら、走っていった。そして倒れている神楽の頭を持ち上げて、膝にのせた時、上からあの冷酷な声がした。
「これで終わりではない。これは戦いの序章だ。他の二人にも言っておけ。それから、お前のシャドーは消えてはないぞ、火狩神楽」
遥か遠くの空には、御堂と呼ばれた男が浮かんでいた。左目を隠すように手で覆いながら。そして再び雲が月を隠し、また現われたときに御堂の姿はなかった。
何なの？あいつら…。
「いてて…」
あたしの膝もとで、神楽が声を上げて起き上がった。
「大丈夫？」
不安なあたしに神楽は言う。
「放課後、屋上に来いっつったろ？
お前は来るのがおせーんだよ」
「何よ、その言いぐさっ…」
いつものようにけんかしそうになって、あたしは神楽の顔が血まみれなのに気付いた。
逃げないで、戦ったんだ。神楽は、あたしを守るために。
「ごめん」
素直なあたしに、神楽は驚いていた。それからこう言った。
「戦って勝つってのは気分いいな。逃げてばかりじゃ、却って疲れる」
そして無言のままに、あたしにさっき投げた携帯を渡した。
「こいつが、あの光を吸収してくれたおかげだ」
携帯は形をそのままに温かかった。それが光の熱なのか、神楽の手のぬくもりなのかはわからなかったけど。
ふと顔を上げると、すぐ近くに神楽の顔があって、視線がぶつかり、あたしはドキッとした。
だって、神楽の顔つきは、いつもと違って見えたから。
瞳は潤んでなくて、血走ってたし、口もキュッと結んでいたし、ほほも緊張してた。
そんな神楽がかっこよく見えた。
一瞬の間があって、神楽は顔を傾け、ゆっくりとあたしとの距離を縮めて、そして神楽の唇は、あたしの唇に触れていた。
えっ？
それが、あまりに突然で、あたしは目を閉じることも忘れていた。
だから、神楽の目がどれだけ澄んだ茶色なのか、そして唇が柔らかいことも、知ってしまっ た。目を閉じる暇もないうちに、神楽はそっと唇を離した。閉じていた目も、ゆっくりと開いていきながら。あたしは、ただ神楽の目に映る自分を見ていた。
驚いて、間抜けな顔してる。あたし…。
ええっ？
神楽は一度瞬きをしてから、いつものように笑みを浮かべてこう言った。
「サンキュ」
その瞳に再び映った自分の顔を見つめながら、あたしは考えていた。
これって…、キス？
キスぅ？
「オレ…」
気がつけば何か言いかけていた神楽の顔を、思いっきりひっぱたいていた。
「いってぇ…」
神楽は頬を押さえて、ぐっとあたしをにらんだ。
そうよ、今のって、キスよ。
あたしの、あたしの、ファーストキスよっ。
「何すんだよお前っ。傷口が広がるだろ？」
「あんたが悪いのよっ。なぁに？来るのが遅い？あたしはあんたと待ち合わせした覚えはないし、だいたいあんた、来なかったじゃないっ」
「呼び出しくらってたんだよっ、悪いかっ」
「悪いに決まってるでしょっ。呼び出しくらう、あんたが悪いっ」
「誰のせいで呼び出しくらったと思ってるんだよ」
「あんたのせいでしょっ、勝手に人のせいにしないでよねっ」
もう、神楽のばかっ。
「いってぇ…。お前、怪我人になんてことすんだよっ」
うるさいっ、あたしのファーストキス、返せっ。
そんなあたしたちを見て、やっと屋上にあがってきた千寿と蘇王はため息をついていた。ちなみに南校舎の入り口を諦めて、蘇王は北校舎から千寿と一緒に屋上に上がった。入り口のドアにもたれながら千寿が言う。
「知ってるか？年頃の男女を一つ屋根の下においておけば、恋の芽生える確率は高い。加えて危機的状況を共にした男女も、恋に陥りやすい」
「それって、あいつらのこと？千寿」
「そもそも神楽と夫婦漫才できるのも、紗那くらいだろう？」
「そんなこと言ったら、お前だって同じ立場だせ」
「お互い様だろ、蘇王。悪いが俺は、あんなガキはごめんだ。そもそも女ってのは低能で困る」
「オレだって、花岡えみるちゃんだけだっ」
「それは恋じゃなくて、憧れだろ。
それより、神楽の傷がひどくなる前に、あいつらを離さないとな」
そうして、千寿と蘇王のおかげで、あたしと神楽のケンカはようやく一時休止となった。