天使の翼 神楽篇
5.壊れたお弁当箱
よくよく考えてみれば、あたしはあいつらのことをよく知らない。
今まで興味がなかったから。
今だって、興味があるわけじゃないけど、でも気になる。同居人として。
だから、絵梨に聞いたの。
「なぁに？紗那が急に火狩三兄弟のこと知りたいなんて。
あ、さては３人の誰かに惚れたな？蘇王君？千寿君？それとも神楽君？」
変な誤解しないでよっ。あたしはあいつらなんて絶対好きにならないんだから。
「ふーん。でも最近いやに仲いいじゃない」
うっ。それはっ…。お母さんが通ってるカルチャースクールの講師があいつらの父親でだから、つまり…。
「親同士が仲良くなっちゃったってんでしょ？何回も聞きました。でも、それってやばいんじゃないの？紗那のお父さん単身赴任でいないんでしょ？蘇王君たちのお父さんも今は一人身だし、ダンディーって噂だし、紗那のお母さんと不倫しちゃったりして…」
やめてよっ、そんな。冗談じゃない。
…え、でも。
「お母さん、いないの？」
「３年くらい前に病気で亡くなったんだって。神楽君のお母さん」
神楽のお母さんって、本妻なの？あの３人の母親ってみんな愛人で、腹違いじゃないの？
「みんなお母さんが違うのは合ってるけど、神楽君のお母さんはちゃんとした戸籍上の妻よ。蘇王君と千寿君のお母さんは…違うけど」
「でも、神楽」
言いかけてあたしは止めた。絵梨にこの話をしたら、全部話さなきゃならなくなる。
でも神楽は昨日、確かに「愛人の子供」って言ってた。あれは、自分のことじゃなくて、他の二人のことを言ってたの？愛人の子供がいる父親に対して、反発してるってこと？
「神楽君がどうかした？」
神楽は今日、まだ学校に来てなかった。もしかしたら来ないつもりかもしれない。
「何でもない。ね、あいつらっていつから一緒に暮らしてるの？」
「詳しくはわからないけど、聞いた話じゃ、小１の時に、蘇王君と千寿君のお母さんが亡くなったらしいのよ。それで神楽君の家で預かることになって、神楽君
のお母さんが３人を育てたんだって。その時３人は自分たちの関係を知ったそうよ。仲良くやってこれたのは、神楽君のお母さんがとてもできた人で、３人を分け隔てなく育てたからみたい」
本妻が愛人の子供と、自分の子供を分け隔てなく育てる…。
結構複雑なのかもしれない、実はあの３人。
「それより紗那、聞いた？ホモの通り魔の話」
いきなり絵梨が目を輝かせて話し出した。絵梨はゴシップ好きなの。
知らない。全く。
「三日前と昨日、出たらしいのよ。ここらへんで。それで被害者がうちの男子生徒なの。みんな学校帰りに襲われたんだって。制服の背中のところをざっくり。幸い深い傷じゃないから助かってるけど」
ふーん、犯人って見つかりそうなの？
「相手の顔はよく見えないらしいんだけど、黒づくめの体格のいい男らしいよ。通り魔ってたいてい女の人とか、弱い人、襲うのに、男しか狙わないのは、ホモだってことがもっぱらの噂」
黒づくめで体格のいい男って、…まさかっ。
「紗那、知ってるの？」
「うんっ…ううんっ」
「どっち？」
「…知らない。間違えた」
あたしの怪我のことは、階段から落ちたことになってるんだった。それにあたしが襲われかけたことも、神楽の説明しなきゃいけなくなるかた、みんなには内緒にしてるんだった。
「変な紗那。あ、変なのはいつもか」
もう絵梨っ。それにしても、いやに詳しいね。
「だって、二人目の被害者、隣の家の息子だもの。ほら、紗那がかっこいいとかってちょっと騒いでた」
あー、はいはい。ジャニーズジュニアにいそうな、昔絵梨に告白した男？
「もう、変なことばっか覚えてるんだから、紗那は」
絵梨は他のクラスメートに呼ばれて、席を立つ。あたしは、ちょっと気になって、神楽がいるはずの空席を見た。
神楽、今日も学校来ないのかな。
なんだか妙に、自分を責められてる気がした。
来てよ、神楽。
窓のサッシのところに手をかけて、なんとなく校門を見ていると、
「紗那っ、これ頼んだっ」
と突然呼ばれて、廊下にいた蘇王からお弁当箱が飛んできた。二人はいつも教室ではお弁当を食べない。あたしがそうさせた。
だって、いつもいつも一緒のお弁当だったら、いくらなんでもおかしいでしょ？お弁当も家から忘れず持ってかせるようにして、学校では露骨に聞くなと言っておいた。
なのに、なんでお弁当箱？
焦ったあたしは、必死にお弁当箱に手を伸ばした。蘇王はノーコンで、お弁当箱はあたしよりも高いところに飛んできてたから、あたしは片手でサッシをぐっと押すようにして背伸びした。つま先立ちで、ようやくお弁当を掴んだとき、体がグラッとして、窓の外に放り出されるのがわかった。
うちの学校の窓って、大きくて、敷居も低い。しかもうちの教室にはベランダもなくて、３階の教室だ。
あ。っと思った。
「紗那っ」
悲鳴のような絵梨の声が聞こえた。
落ちる。
そう思ったとき、何故だか体がふわっと浮いた気がした。
でも時間が止まったとかじゃなくて、その時あたしは木がざわめくのも聞いた。
ぽろっと落としたお弁当箱が、近くの木をかすめる音まで聞いた。
でも、あたしだけは動いてなかった。
「紗那っ」
千寿の声がして、あたしはいつのまにか千寿に強く引っ張られて、教室の床に二人して転がっていた。その時には、もう時間が確実に動いてるのがわかった。
「大丈夫？」
「紗那、平気？」
蘇王と絵梨がすぐに駆け寄ってきた。千寿は体を起こし、上にかぶさる形になっていたあたしもそのまま自然と起き上がったけど、それでも千寿の制服にしがみついていた。
まだ、体が震えてる…。何？今の感じ。
ふう、と溜息がほほにかかって、顔を上げると、額に汗がいっぱいの千寿の顔がすぐそこにあった。倒れた衝撃で眼鏡は飛んでしまったみたい。つかんでいる
手から伝わってくる妙に温かい千寿の体温。あたしに回された千寿の力強い腕。千寿もあたしの視線に気付いて、その鋭い瞳であたしを見ていた。そのまま、あ
たしたちはしばし見つめあっていた。
「ちょっと、いつまでそうやってるのよ、紗那」
クラスの女の子にそう言われて、あたしはハッとして、すぐに立ちあがる。まだ地に足着いてない状態で、ふらっとするとすぐに絵梨と蘇王が支えてくれた。
「大丈夫？紗那」
「ごめん。オレが弁当投げたから…」
「大丈夫…。ねえ、それよりさ、今あたしおかしくなかった？宙を浮いてなかった？」
絵梨は首をかしげる。
「あたし、何がなんだかわからなくて」
蘇王に答えを求めようと見ると、蘇王はあたしと目が合った途端にすぐ顔を背けた。
蘇王？
「紗那。大丈夫か？」
振りかえると、女の子に囲まれて壊れた眼鏡を持った千寿が言った。
「あ、うん。ありがと」
千寿は溜息と一緒に軽く頷くと、自分の席に戻った。
そういえば、あの時。千寿ってごこにいた？自分の席に着いてなかった？
でも千寿の席って、廊下に近い…。
「絵梨」
絵梨にそのことを聞いてみると、絵梨はこう言った。
「ごめん。あたし紗那しか見てなかったの。でもすごかったよ、千寿君。あたしなんかすくんで動けなかったのに、突然目の前に現われて、ものすごく真剣な顔つきで紗那のこと抱き寄せて。でも、よかった。紗那が無事で」
下を見ると、壊れたお弁当箱が見えた。