天使の翼　神楽篇

3.割れた花瓶

「ちょっと、神楽」
　教室で華やかに女の子に囲まれている神楽に、あたしは廊下に出るよう手招きをした。牢かで待ってると、にやけた顔で、神楽が少ししてやってきた。あいつらの居候も、気付けば今日で三日目になってしまった。
「何だよ、呼び出しやがって。デートなら…」
「違うわよっ」
　叫んだ後で、あたしは焦ったように周りを見まわした。
　うん。人は少ない。
「買い物、付き合って欲しいの」
　お母さんに頼まれて、あたしはクリーニング屋にカーペットをとりにいかなきゃいけなくなった。でもか弱いあたしの腕じゃ、３畳分もあるカーペットを持てるわけないのよ。蘇王も千寿も部活で、ただ一人帰宅部の神楽に白羽の矢が当ったってわけ。
「放課後裏門のとこで立ってて」
「何で裏門で待ち合わせるんだよ」
　あたしはまたも周りを見まわして小声で言った。
「いい？あんたたちがうちに居候してることは、学校には内緒なのっ。一緒に帰ったりして、変な誤解されたら迷惑なのよ」
「へーへー」
　神楽はそのまま教室に戻ろうとした。
「いい？来なかったらあんたの晩御飯なしよっ」
　手だけヒラヒラふって、神楽は教室に入ってしまう。
　わかってんの？もう。


　でも、ちゃんと神楽はやってきた。
　ただし、３０分もあたしを待たせてっ。
「遅刻よ、遅刻っ。大遅刻っ」
　裏門はあまり人が使わないこと、加えて神楽の遅刻で下校時間が遅れたおかげで、周りには誰もいなかった。だからついついあたしも大声を出す。
「うっせー女だな。来てやっただけ、有難いと思えよ。予定キャンセルしてやったんだぜ」
　むっ、何よその高圧的な態度はっ。
　でも、確かに神楽の予定聞かないで勝手に決めちゃったし。悪かった、かな…。
「何ぼけっとしてんだよ、先行くぞ」
　むむっ。前言撤回っ。
　神楽はあたしを無視してさっさと歩き出す。
　ちょっと待ちなさいよ。
　裏門は、木が生い茂ってる細い道を通っていく。街灯もなくて、家もないところだから、夜道は痴漢が出るって噂もあって、あんまり生徒が利用しない。道も 舗装されてない砂利道。あたしが神楽を追いかけて、神楽が角を曲がっているところだった。その角は、一番暗い一角で、痴漢が出るというのもこの場所。一人 で通るのは怖い。
　だから待ちなさいってばっ。
　あたしが消えた神楽を追いかけて、その角を曲がったとき。
「ワァッ」
「キャーッ」
　突然神楽が大きな声であたしの前に現われた。
「ハッハッハッハ」
　何考えてんのよっ。急に脅かさないでよねっ。痴漢かと思ったじゃないっ。
　ムッとした顔で、大笑いしてる神楽をにらんでると、ザクッと砂利を踏む音がして、神楽の後ろのほうに、黒い服を着た男の人が立っていた。暗くて顔は良く見えない、ただ、鋭い視線だけ、ぞくっとするほど感じていた。
　なんか、やばそうな人。
　あたしは神楽のシャツを引っ張った。
　いこ、神楽。
　神楽があたしを振り向いたとき、その男は、黒い手袋をキュッとはめなおし、こっちに向かって歩き出した。
　何？何をする気？
　その男の標的は、確かにあたしたちだ。あたしは怖くて、その場に立ち尽くしていた。自然と神楽が背中であたしを庇う。神楽は真剣な目つきでその人をにらんでいた。
　庇ってくれるのは嬉しいけど…。ちょっと待って、神楽。あんた、ケンカ強いの？
　その人が、あと３メートルで神楽ってくらいの距離になって、神楽は突然しゃがみこむとしたの砂利をつかんで、男に投げつけた。男は驚いて、腕を顔の前でクロスさせる。
「逃げるぞっ、紗那」
　神楽がそう叫んで、あたしの手をつかんだ。そのすばやさにあたしは驚きながらも、神楽に少し遅れてついていく。
「待てっ」
　男がそう叫んで、あたしに手を伸ばそうとした時、神楽はくるっと振り返って下の砂利を今度は蹴り上げた。
「ウッ」
　砂が目に入ったらしく、男はその場にしゃがみこむ。
　痛そー…。
「何してんだっ、逃げんだよっ」
　神楽はそう叫んで無理やりあたしの腕を引っ張っていった。


　暗い道を抜けて、住宅地になったところで、ようやく神楽は足を止めた。
「ここまで来れば、もういいだろ」
　確かにあの男は追ってきそうにはなかった。神楽はつかんでいた手を離すと、ふうと溜息をついた。
「何ナノ？あの男」
「知らねぇ」
　でも、確かにあたしたちを狙ってた。逃げようとしたら、待てってあたしの腕をつかめようとしたもに。
　ってことは、もしかして、あたしが狙われたの？
　何で？
　気付くと神楽はさっさと歩き始めていた。
　ちょっと、待って…。
「痛っ」
　歩き出そうとしたあたしの足に、痛みが走る。そういえばさっき、足をひねったんだった。
「どうしたんだよ」
　神楽も着いてこないあたしに気付くと、振り返った。
　あんたが無理やりひっぱるから、捻挫しちゃったじゃないのよ。
「そうでもしなけりゃあいつにやられてただろ？」
　神楽は舌打ちしながら、あたしの足に触れた。
「痛っ、痛いってばっ」
　靴下を脱ぐと、右足首は完全に腫れていた。
「はー。しゃーねーな」
　神楽はそういうと、あたしの前で腰を屈めた。
　何よ。
「乗れ。おぶってってやる」
　やっ、やよ。
「こんなこと、ふつーじゃやんねんだぞ。特別サービスしてやる。ほら、早く乗れよ」
　だって。
「お前の体重が重いくらいわかってっから、ほれ」
　失礼ねっ。
「あいつが追ってきても、しんねぇぞ」
　…。


「襲われた？」
　蘇王のバカでかい声がリビングに響いた。
　ばかっ。お母さんが聞いたら心配するでしょっ。もっと小さな声で驚きなさいよ。
　お母さんは今、部屋でお友達と電話中。あと一時間は出てこない。
　部活から帰ってきた蘇王と千寿はごはんを食べながら、あたしの話を聞いてくれた。神楽は今、入浴中。信じられる？あたしよりも、お母さんよりも先に入ったのよ、あいつっ。居候の分際で。
「すっごく怖かったのよ。いかつい男でね、顔はよく見えなかったんだけど、きっとここら辺に傷が入ってたりしてるのよ」
　あたしはほほに、斜めに指を描いた。千寿はそんなあたしを無視して冷たい声で言う。
「思い当たることはあるのか？」
　あるわけないじゃない、あたしは善良な市民よっ。一国民よっ、かわいいかわいい女子高生よっ。
「お前は知らない間に山ほどの敵を作る女だからなぁ」
　なんですってぇ？蘇王っ。
「勘違いだろ。道でも聞こうと思ったんじゃないのか？急に走り出されたら、つい手も出るだろう」
　そうかなぁ。
「でもね、本当にあたしを狙ってるかもしれないじゃない、だから、蘇王。ボディガードしてよ」
「ボディガードだぁ？」
「そうよ、あんたはいわばうちの番犬なんだから、ご主人様を守ることが使命なの」
　柔道２段の蘇王がいれば、安心、安心。
「えーっ。俺部活あるぜ？朝は六時に家出るけど、お前起きれるの？」
　うっ…。それじゃ、剣道県大会で３位だった千寿、お願いね。
「お前のほうが強いに決まってるだろう」
　あんたたちってば、冷たいわねっ。
「だから、神楽でいいじゃん。今日だって助かったんだろ？」
「ふざけないでよ、この足首を見てよっ。神楽なんて…」
「俺が何だって？」
　そこにやっとお風呂を出た神楽が顔を出した。そして二人に言った。
「おう、お帰り」
　それより神楽、あんた何か着なさいよ。タオル一枚巻いただけで、リビングうろつかないでくれる？
「顔赤いぞ、紗那。男の裸見るの初めてか？」
　うっ。うるさいっ。
　神楽は冷蔵庫を開けて、コーラを出した。
「あっ、それウチのコーラよ、神楽」
「硬いこというなって。これも紗那のため。お前さ、あと３キロは痩せたほうがいいぜ」
　…な…何？
「なんかオレ、肩凝っちまってさ。お前をおぶったせいで」
　すると蘇王がぷっと笑った。
「神楽もとんだ迷惑かけられてんじゃん」
　なんですってぇっ？
「ちょっと待ってよ。あたしの怪我は、神楽のせいなのよっ。無理やりあたしのことひっぱり回したから捻挫したんだからねっ」
　おぶるのは、あんたの責任よっ。
「それじゃお前は、あの場にお前一人残していっても良かったっていうのかよ」
「戦えばよかったのよ。まあ、あんたのその体じゃ、勝ち目はないのかもしれないけどね、逃げるなんて一番最低なんだから」
「ばぁか。逃げるってのは、一番いい方法なんだぜ。相手も傷つけなきゃ、自分も傷つかない。一番平和的解決じゃねぇか。それによく言うだろ？負けるが勝ちって」
「あれは戦いに挑んで、でも負けちゃった人を称える言葉なのっ。挑みもしないでしっぽ巻いて逃げた人間にはね、称える言葉なんてないわよっ」
「へー、そうですか」
「だいたい、逃げるやり方って、神楽のお得意な方法だもんねっ。あんたは、誰にもきちんと向き合ったことなんかないんでしょっ、だから一人の女の人とも長 く付き合えないし、お父さんにも酷い態度とって。そうよ、最低なのは、あんたよ神楽。女からも逃げて、家族からも、世の中全てから逃げて、そうやって無責 任に、一番お気楽に過ごしてるんだもんねっ」
　それはずっと気になって、でも言う機会がなくて、ずっと思ってたことだ。あたしは言ってちょっとすっきりした。
　神楽は立ちあがって、あたしをにらんでいた。けど、ふいい顔を背けてリビングを出ていった。
　ちょっと待ちなさいよっ。
　あたしはそう叫ぼうとして、蘇王に止められた。
「喧嘩すんなよな、紗那」
　それから荒荒しくドアが閉められる音がした。千寿が呟くように言った。
「今夜も朝帰りだな、神楽は」
　どういうこと？
「女のとこに、それこそ逃げ込むってことだ」
　千寿はさっさとリビングを出ていく。しばらくして玄関のドアが乱暴に閉められる音がした。あたしの家のじゃない、神楽たちの玄関。あたしは蘇王に聞いた。
「ほんとに神楽、帰ってこない？」
「いつものことだから、気にすることない。それに明日はケロッとした顔で戻ってくっからさ」
　そうして蘇王も自分の部屋に戻っていった。神楽はほんとにその夜帰ってこなかった。千寿がお母さんに神楽は友達の家に泊まりに行ったと伝えた。


　次の日、神楽は遅刻して学校にやってきた。いつもと同じ顔をしてたけど、あたしが話かけようとすると、突然立ちあがってどこかに消えた。
　何よ…。きつく言いすぎたから、こっちだって謝ろうと思ってるのにっ。
　決めたっ。間違ったこと言ってないもんっ。絶対謝ってなんかやんないっ。


「買い物？」
　あたしは部活に行こうとクラブハウスに向かっていた蘇王を捕まえた。
「悪いけどオレ駄目。部活あんだ」
　部活、部活ってね、一日くらい休んだって罰は当たらないわっ。だいたいあんたたちが居候してるから、あたしはこのか弱い腕で重い買い物しなきゃならなくなったのよっ。
「だったら、千寿に頼めよ。今日は剣道部休みだから、図書館にでもいきゃみつかるだろうし、それか…」
　神楽のことを言おうと思ったのか、でもそこで蘇王は言葉を止めた。その時、上から蘇王を呼ぶ声がした。クラブハウスへの道は、教室のすぐ横で、丁度うちの教室は真上にあった。
「蘇王、掃除さぼんじゃねぇぞっ」
　やべっと呟いて、蘇王は逃げ出した。
「ま、そういうことだからさ」
　あ、ちょっと待ってよ、蘇王…。
　蘇王はもう１０メートルくらい先を走り出していた。その時小さなキャッという声がして、
「危ないっ」
という確かな声がした。上から聞こえたから、あたしは見上げた。太陽と重なって、眩しくてよく見えなかったけど、何かがあたしの上に落ちてきてるのが見えた。
「キャーッ」
　上からか、女のこの悲鳴が聞こえてる。でもこういう時って、どうしてだろう。足がすくんで動けない。おまけにあたしは怪我人。
「紗那っ」
　遠くで蘇王の声がして、あたしは落ちてくるものが一瞬にして細かい破片になるのがわかった。そして、そこからまたも太陽がまぶしくあたしの目に映る。
　何？
　次の瞬間には、視界は真っ暗になった。何かがあたしを覆い被さったから。それからぱらぱらという地面に何かが落ちる音がした。
「おいっ、蘇王っ。大丈夫か？」
　え？蘇王？
　視界が見えるようになって、あたしは自分の視界を遮っていたのが蘇王の腕だったことに気付いた。蘇王は地面にちらばったガラスの破片から、あたしを包み込むようにして守ってくれていた、そう、あたしは蘇王のがっちりした体に包み込まれるようにすっぽりとはまっていたのだ。
　蘇王って、こんなに大きかったんだ…。
「大丈夫だった？紗那」
　荒い息遣いの蘇王が、両手でしっかりとあたしの肩をつかんでそう聞いた。蘇王の額には、異常なくらい沢山の汗が流れていた。掴まれた肩には、不思議な熱が 伝わっていた。蘇王のくりくりとした目が、真剣にあたしを見つめていて、思わず息を呑んだ。そしてあたしはドキドキいう心臓を抱えて、そのまま蘇王と見つ めあっていた。
「おいっ、蘇王」
　クラスメートの男の子がやってきて、蘇王に駆け寄った。
「お前大丈夫か？」
　その男の子はあたしから蘇王を奪うと、肩についたガラスを払っていた。さっきの声もそういえば彼だ。蘇王は半分放心状態のように、ああと答えると、
「そうだ、オレ部活…」
と呟いて、はっとしたようにクラブハウスへと走っていった。
「おい？蘇王？」
　男の子はそんな蘇王を不思議そうに見つめている。
「ねえ、何が落ちてきたの？」
　あたしが聞くと、彼は答えた。
「花瓶がさ、落ちてきたんだ。危ないって思った瞬間にぱっと砕け散ってさ…。葉月にかかる直前に蘇王が庇って…。葉月も大丈夫？」
「うん、あたしは平気。蘇王がいてくれたから。でも、何で花瓶が割れたんだろう」
「よくわかんねえけど、あの時割れなかったら葉月危なかったんだぜ。塊だったから衝撃も相当あっただろうし」
　その時上から女の子の声がした。
「ごめんなさいっ、あの、大丈夫ですか？」
　遅いっつーの！