THE FLOWER GARDEN
「はじまり」
小高い丘の上に立つ大きな木の幹に寄りかかりながら、日向は黙ってしずかのされるがままになっている。
日当たりのいい場所なのだろう。辺りには様々な草花が鮮やかに咲いていた。
穏やかな風にのってきたのは、甘く濃厚、それでいてすがすがしい香り。
ライラック、あたりだろうか。
そう思い辺りを見回している日向の前で、雅やかな気持ちを蹴散らすようにしずかが怒鳴る。
「動くなよっ。手当てしづらいだろっ。
だいたい、何考えてんだよ。黙って殴られ続けるなんて。
あたしとあんたなら、あれくらいの人数でも、勝てるのに」
あの時の苛立ちを思い出し、しずかはそれを日向の傷口へと向ける。消毒液をつけ、ぐいぐいと押し付けると、流石の日向の表情も僅かだが歪んだ。
「もっと優しく手当てできないのか。こっちは怪我人なんだぞ」
「だったら、てめぇでやれっつーの」
売り言葉に買い言葉で、しずかは持っていた消毒液も脱脂綿も全て日向に押し付け、背を向ける。
苛立ちは日向だけのせいではない。
何もできなかった自分に対しても、感じていた。
それは偶然だった。
泊っていたホテルを出たところで、さてどうしようかとなった。
目的だったしずかの母親の遺灰を海に撒くことも、すでに終えてしまっていて、二人がこれ以上一緒にいる理由はもうない。
しかし、戻る家のある日向とは違い、しずかには戻る場所はない。とりあえずの生活に困らないお金は持っていたけれど、行くべき場所も、行きたいところも、何もなかった。
このまま日向と離れるのも物悲しいけれど、ひきとめる理由も言葉もなく、だからといって「どうする？」なんて自分の未来を日向に任せたような言葉も口にしたくなくて、はっきりしない自分に対してしずかは苛立っていた。日向というと、そんなしずかの気持ちを知ってか知らずか、だんまりを続けている。
そうして、立ち往生していたところで、二人の前にバイクが数台止まり、その中の一人が二人に声をかけてきた。
「お、朝帰りかよ。お熱いねえ」
さりげなくかわそうと顔を背けた日向とは対照的に、しずかはその男に突っかかっていった。
「黙れ、関係ねぇよっ」
その言い方に、相手の男はにやにやしながら答える。
「関係ないって、あんたとその男のこと？」
言い返そうとするしずかの腕を、やめろと日向がひきとめたが、それを振り払ってしずかは答えた。
「そうだっ」
男たちはそんな二人の様子ににやにやといやらしい笑みを浮かべる。
「だったら、俺たちと遊ぼうぜ」
そして日向を振り払ったのとは逆のしずかの腕を男は掴んだ。当然、しずかはそれを振り払う。
「ざけんなよっ」
けれど今度は逆の腕を別の男に掴まれてしまい、そのまま羽交い締めにされてしずかはどうにもできなくなった。
「おい」
日向がその男に手を伸ばそうとしたが、別の男が間に入り、近づくなと日向を威嚇する。
「あんたは関係ないんだろ。俺たちは、こっちのネェチャンに用事があるんだよ」
日向がにらみ返すと、相手の男も一瞬たじろいだ。が、すぐに後ろにいる自分たちの仲間の存在に気付き、強気な態度に再び出た。
「ふられた男は、さっさと帰んな、みっともねぇ」
「お前らだって関係ねぇだろっ。放せよっ」
何も言わない日向に代わって、しずかはそう叫びジタバタと暴れてみるが、しずかを掴んでいる男は武術の心得があるのか、逆にしずかの腕をねじあげた。思わずしずかが小さく悲鳴を上げると、日向が素早く動いた。あっという間に日向と自分の間にいた三人の男が倒れ、しずかの目の前に呼吸も乱れていない日向が
立っていた。だが、次に動こうとした日向の動きは、そこで止まる。しずかもまた同様に動きを止めていた。しずかの頬には、鋭くとがったナイフが突きつけられていたのだ。
「おっと、それ以上暴れるんじゃねぇぞ。このネェチャンの顔に傷がつく」
最初に声をかけたリーダー格の男が、そう言って日向の前に立った。
「うちのメンバーにやってくれたなぁ。おい」
その声に、他のメンバーが集まってきて、日向を取り囲んだ。日向に倒された男たちも、仲間の助けを借りて、立ち上がるとその輪の中に入る。
「やれ」
「おいっ、やめろっ」
しずかがそう叫ぶと、リーダー格の男がにやりと笑って答える。
「あんたには関係のない男なんだろう？だったら、黙ってな」
その言葉にしずかが何も言い返せずにいると、それを了解と取ったのか男が早くしろ、と命令をする。
相手の男は八人ほどだ。日向なら、全員を倒せるはず。
だがしずかのその希望も空しく、日向は防御の姿勢は取りながらも一度も抵抗することもなく、騒ぎに気付き警官が駆け付けるまで、その暴行は続けられた。
「だいたい、なんでやり返さないんだよ」
額の切り傷に自分の手で絆創膏を貼りながら、日向が答えた。
「お前を人質に取られて、どう動けと言うんだ」
「別にナイフの傷、一つや二つくらい」
「よくはない。これ以上、キズものになってどうする」
「でも、警察から逃げることないだろう？こっちは全然悪くなんかないのにさ」
実際、かけつけてきた警官に気付くと、男たちはしずかと日向を置き、バイクでさっさと逃げ出した。自由になったしずかは、慌てて日向に駆け寄ったのだが、無事を確認するしずかに答えることなく、日向はしずかの腕をとると、男たちと同じように急いでその場を立ち去ったのだ。
「逆に質問されて、俺たちはなんて答えられる？住所は？保護者は？」
冷静に日向に言われ、しずかは思わず息をのんだ。それみたことかと日向は言葉を続ける。
「よくて実家に戻されるか、最悪、学園に逆戻りだ」
それはつまり、日向と離れ離れになるということでもある。
浅はかな自分の考えに気付いて、しずかは自分自身を殴りつけたくなるが、むろんそれもできない。
ならば素直に謝ればいいと思うのだが、どうしてか日向の前だとそうはなれない。
畜生。
さっきだって、そうだ。日向のこと関係ないなんて、思ってないこと言わなきゃ、まだマシだったかもしれないのに。
苛立ちを隠せずに、地面に落ちている小石をけり上げると、自らの手当てを終えた日向が言った。
「少し黙っててくれ。寝不足にさっきの騒ぎで、流石の俺も限界だ」
「寝不足？昨日はホテルで泊まれたのに、寝てなかったのかよ」
学園から抜け出してからこの街に来るまで、野宿したことも何度もあった。それに比べれば昨日はホテルで宿泊できたわけで、おまけに二人ともベッドを使うことができたのだ。寝れない理由などないと思うしずかに、日向がため息交じりに答える。
「隣にお前がいて、そう簡単に寝れるわけないだろう」
「ふさけんなっ！誰がお前のこと襲ったりするかよっ」
そう言い返してしずかが振り返ると、すでに日向は眼を閉じていた。
「…なんだよ、もう寝たのかよ」
肩すかしをくらった気がして、しずかはふてくされた表情でそう呟く。当然だが、眠っている日向から返事はなかった。
ふいに今朝起きたばかりの日向とのやりとりを思い出す。
『お前がいると、毎日に張りがあって楽しいから笑っただけだ』
からかわれるのは好きじゃない。だが日向とのやりとりは、今のしずかにとって唯一の安らぎでもあった。
だから、別れたくない。
だがその思いが、日向を引き留め、今回のようなもめ事に巻き込んでしまったのも事実だ。
こいつには、こいつの人生がある。
あたしがそれを、引き留める権利はないんだから。
少年のようにやすらかな表情で眠る日向を見て、しずかはそう思った。
本当は、すごく感謝してる。
一緒に学園を出てきてくれたことも、
最後まで付き合ってくれたことも。
あの花園の中にいた時も、何度もしずかを助けてくれたことも、全部。
ありがとう。
だから、もう。お別れ、言わなきゃな。
面と向かってだと、また素直に切り出せないからと、しずかはこのまま日向に何も言わずに去っていくことを心に決めた。
そしてそよ風に額の髪を揺らせる日向を見て、しずかはそっと近づくと、膝をつき、絆創膏の貼られている額にそっと唇を寄せた。
今まで、本当にありがとう。
想いを額に残して、しずかが立ちあがろうとすると、閉じていたはずの日向の目がぱっと見開いた。
「うわっ」
思わずのけぞりそうになったしずかの腰を、日向の腕が掴んで支える。バランスを失ったしずかの手は、日向の肩を掴んでかろうじて留まった。
どういうことだと、瞬き一つせずに自分を見つめる日向の視線に耐えられず、しずかは思わず口にした。
「ぉ…お別れのキスだよっ」
しかしその言葉にも、日向は表情一つ変えない。逆に自分がどんどん顔が赤くなっていくのを感じ、しずかはさらに声を張り上げた。
「外国じゃ、き…キスくらい挨拶だろっっ。もう、お前にも会えなくなるからなっ」
無理やりにそう言って、日向から体を放そうとしたしずかに、日向はだったら、としずかの言葉に重ねるようにして繋げた。
「だったら一緒にいればいい、俺と」
「え」
「ずっと一緒にいれば、もう会えないなんてことにはならない」
何を言っているんだと言い返そうとしたしずかの言葉を、日向は遮るようにして、しずかの頭の後ろに回した腕を強引に引き寄せる。
「いい加減、素直になれ」
そしてバランスを失ったしずかを支えるようにして、日向はしずかに口づけをした。
最初は抵抗するように日向の肩を掴んでいたしずかも、その想いを受け止めるように、そっと日向の背中に手を回す。
甘く爽やかな香を含んだ柔らかな風が、二人を包み込むようにして吹いていた。
ライラック（紫）：花言葉は「愛の始まり」