夕暮れの差し込む廊下には、バタバタと忙しない足音と、荒い息遣いが響いていた。
　テスト期間を目前に控えた放課後の校舎に残っている生徒は、ほとんどいない。
　かくいう成も、ここまで遅くなるつもりはなかったのだが、担任の日頃の愚痴も相まって、約束の時間から一時間近くが過ぎていた。
　萌子と一緒に登下校するようになってから、一週間ほどが過ぎていた。
　最初は一緒に歩くことに、緊張や恥じらいも覚えた成だったが、この頃はようやく慣れてきて、日常になっていた。
　それゆえに、ついつい担任に放課後呼び出されていたことも忘れ、萌子と帰ろうとしていたところで、クラスメートに呼び止められ、担任が探していたことを言われた。
「すぐに戻ってくるから、待ってて」
　萌子の教室でそう言ってから、もう一時間近くが経つ。
　今日は部活の定休日でもあって、帰りにアルジャーノンでも寄ってお茶して帰ろうと思っていたのだが、この調子だと、そんな時間もなさそうだ。
　職員室を出てから全速力で走ってきた成は、そのままの勢いで萌子のいる一組の教室に駆け込む。
「ごめんっ、萌子っ…」
　そこで言葉を止めたのは、教室に誰もいなかったからではない。
　教室には、一つの影が机に伏せるようにしていた。
「もえ…こ？」
　確認するように近づくと、萌子は机に投げ出した右手に右の頬を乗せるような形で眠っていたのだ。
「…寝てる？」
　そっと呼びかけてみたものの、萌子からの返事はなく、ただ安らかな寝息だけが教室に広がっていく。
　そりゃ、疲れるよな。あれだけ忙しいと。
　成はそう思い、萌子の前の席に腰掛ける。
　萌子と登下校を一緒にするようになって気付いたことに、マネージャーというのがいかに大変な仕事かということだった。
　朝は他の部員達より早く登校して、皆が練習しやすい環境を作り、練習中も常に動いている。その練習が終わっても、次の日の下準備や、週末の練習試合の調整やらで、帰るのは部員たちよりも遅い。しかも場合によっては部員たちからユニホームやジャージの修理を頼まれたりすることもあって、それを家に持ち帰ったりもしている。部員の中には、マネージャーは雑用係と思っていて、たまに部活に関係のない頼み事までする輩までいるが、どうやらそういうことも断らずに引き受けているらしい。
　一度それに気付いた由太が、部員と萌子に注意したことがあった。部員は素直に謝ったらしいが、萌子は別にいいじゃないと答えたそうだ。
　それで練習に集中できるんであれば、それでも構わない、と。
　そういったモチベーションを持ち続けられるのは、やはりマネージャーとしての夢があるかららしい。
　試合に勝つこと。国立の地に立つこと。つまりは、選手権での優勝だ。
　でも実際は彼女たちは試合には出られない。その夢は自分たちの力だけでは叶えられないものなのだ。だから、自分たちは選手に自分の夢を託して、縁の下の力持ちに徹する。その為には、どんなことでも厭わない。
　ほんと、頭あがらないよ。
　じっと見つめていると、ふいに萌子の体がびくっと震えて、身をすくませた。どうやら寒気を感じたらしい。
　三月とはいえ、まだコートは手放せない季節なのだ。
　成は慌てて自分の着ていたコートを脱ぎ、萌子にかける。すると萌子も安心したのか、表情がほわっと緩んだ。
　それにしても、気持ち良さそうに寝てるなあ。
　窓から差し込む夕焼けは、暖かな日差しで優しく萌子をオレンジ色に照らしている。
　ふいに成も眠気を感じた。
　そういえば、昨日はケンとゲームしてて、寝るの遅かったんだ。
　大きく欠伸をすると、萌子と向き合うような形で成も萌子の伏せた机の上に頭を乗せる。そうすると、萌子の安らかな吐息を自分の頬に感じた。
　成はそっと手を伸ばし、萌子の頬にかかっていた髪の毛をすくい上げる。掌をくすぐるようなしなやかな萌子の髪が心地よかった。顔にかからないようにしてあげると、ふいに萌子の頬が緩んでほほ笑んだ。
　もしかして起したとか？
　どきりとして手を止めた成だが、萌子はそうではないようで目を閉じたままで安らかにほほ笑んでいる。
　楽しい夢でも見てるのだろうか。
　思えばあの卒業式の日から、まだ一週間ほどしか経っていない。
　あの日は、泣いてばかりだった萌子が、こうして今はほほ笑んでいる。
『萌子のこと、頼んだぞ』
　成は朔哉からの言葉を思い出し、心の中で返事をする。
　これからは、俺が萌子のことを守ります。
　萌子の夢も、この笑顔も、全部。
　成はそう誓いながら、しばらく萌子の寝顔をじっと見つめていた。