THE FLOWER GARDEN
序章1
しずかは、ゆうに五メートルはあるその門の天辺を見上げて思った。
高いな。
越えるのは楽じゃない。
けど、できないこともないか。
そうして、そう思った自分に笑いたくなった。
今、この学園に入学するためにやってきたというのに、そしてこの学園にあと２年間いなければならないのに、何故自分は抜け出すことを真っ先に考えたんだろうか。
今までなら、学校の校門なんてあってないようなもので、いつもしずかは軽々と飛び越えて入っていた。
だから？
そう思いながら、しずかは手にしていた荷物を一旦下ろすと、鉄格子の校門を、力いっぱい押し出した。門はギィという鈍い音を立てて、ゆっくりと動いた。
しずかが通れるだけ開ければよかったものの。最後まで開けてしまったところで、エンジン音がして、ぬるく臭い空気がしずかの長い髪を吹き上げる。黒塗りの車が、今しずかが開けたばかりのスペースを平然と通りぬけていく。
なんだよ。
なんとなく自分が損をした気持ちになった時、車が止まり、中からしずかと同じ年くらいの女の子が降りてきた。そしてしずかが手についた錆を、叩きながら落としているところに彼女はやってきた。
「門を開けてくださって、ありがとうございました」
「別に、あたしだって、中に入ろうとしてただけだからさ」
素直にお礼を言われて、しずかのそれまでちょっとむっとしていた気持ちが急に照れに変わる。
「あの、よろしかったら、車で寮まで行きませんか？ここから車でも十分ほどかかるらしいですから」
しずかが顔を上げると、彼女は笑顔を向けていた。透き通るような白い肌に、ストレートの黒髪と、同じ位に黒々した瞳が印象的だった。
少ししずかが悩んで、でも荷物を持って、車に入ろうとすると、逆に彼女は門の方に歩いて行こうとする。驚いて、しずかが振り返ると、彼女は門をつかみながら、言う。
「あなたが、門を開けてくれたのだから、私が閉めないと」
門の重さをしずかは知っている。その細腕では、門はびくともしないだろう。
ふうとため息をつくと、しずかは、まだ錆のとれない手を広げた。
名前は、遠山雅（とおやまみやび）。年はしずかと同じく十七歳。
そう自己紹介をして、雅は同じことをしずかにも聞いた。
「西御寺（さいおんじ）しずか。同い年」
「同じクラスになれるといいですね」
素直に笑顔で答えられると、しずかは照れて何も言えなくなった。仕方なく窓の外を眺める。それにしても、広い学校だった。校門から車で５分は走っている
というのに、校舎らしきものはまだ見えてこない。もっとも、周囲には背の高い木々が立ち並んでいて、それで見えないのかもしれなかった。まるで森の中を
走っている感じだとしずかが思っていると、ふいにその木々の緑の中に、白い馬が見えた。
「あ…」
「どうかしました？しずかさん」
しかも、その馬には、瑠璃色の制服らしきものを着た人が乗っていたように見えた。
「いや、馬が見えて。あと人と」
雅も言われた方向を見るが、何も見えなくて首をかしげる。
「いないみたい、ですけど。きっと、生徒じゃないですか？乗馬クラブの」
乗馬クラブ？そんなもん、前の学校にはなかったぞ。
しずかは、そう思いながら、お嬢サン学校にはそういうハイソなものが存在するんだと理解をした。
この聖桜学園だって、立派なお坊チャマお嬢チャマ学校なんだ。今までとは違う。
その中で、しずかは退学されられることもなく、留年することもなく、うまくやっていかねばならなかった。そう、約束したのだ。
車はそれから数分走ったところに、急に現れた洋館の前に止まる。それが、聖桜花学園の寮だった。
聖桜花学園は、全国の名家の子息・令嬢の集まる全寮制の一貫教育を行う名門校。規律の厳しいことで有名。
転校先となる学校のしずかの予備知識はそのくらいだった。そもそも、その情報自体、友人の智広から聞いたくらいで、正しいかはわからない。しかし、今回ばかりはその情報は正しいかった。
舎監によって、語られる寮則、校則は、今までしずかにとっては当然のことを否定していた。
「ばっかじゃないのか？お前。そんなくだらないこと約束してさ」
智広に話したとき、言われた言葉を思い出した。
くだらない約束。でも。交わしてしまった。
「だいたい、無理でしょ。今まで２回も学校辞めさせられてるお前が」
やってみなきゃ、わかんないだろ。
そういって、智広にくってかかった自分を後悔した。しずかがため息をついていると、正面にいた舎監が立ち上がり、部屋に連れて行くと行った。
授業中のせいなのか、寮は静まり返っていた。しずかがうなだれていると、雅が心配そうに尋ねた。
「どうかなさいました？さっきから元気がないようだけれど」
「いや、別に―」
何でもないと続けようとすると、舎監が立ち止まり、こちらをにらみながら言う。
「公共の場での、必要以外のお喋りは校則違反です」
唖然としているしずかとは反対に、雅はすみませんと謝り、しずかに小声で後でと言った。
しずかがちらりと窓の外を見ると、そこには制服らしきものを着た人間が、３人ほど歩いていた。らしきと思ったのは、色の違いと装飾にある。聖桜花学園の
男子の制服は黒の詰襟に、袖口、襟、止め合わせに濃紺のラインが入っている。女子は黒のブレザーに、同じようにラインが入っていた。しかし、今しずかの視
線の先に映るのは、紫紺に輝く制服だ。そして、胸には何か光るものを着け、腰には何か剣のようなものを携えている。
光の加減？
軽く舎監の咳払いが響き、しずかは慌てて、二人に駆け寄っていく。
「あの、あれ。何ですか？彼らだけ制服が―」
「誰のこと？」
雅がそう言った。確かに、もういちど外を見たが、しずかがさっき見た生徒は消えていた。
「でも、今いたんだ。濃い紫の制服を着た―」
「わたしたちには、関係のないことです」
舎監の声が廊下に響いた。
関係のないこと？
たしかに、聖桜花学園は共学でありながら、寮も校舎も男女別々になっていて、一緒に行事を行うこともあまりないらしい。
それでも、関係ない？
しずかがその先を聞く前に、舎監が部屋の前で足を止めた。それぞれの部屋番号を告げると、最後にその機械のような声で舎監は言う。
「この学園で巧くやっていくには、従うということです。それから花の香りには、気をつけて」
「花の…香り？」
しかし、しずかの問いに答えることなく、舎監は今きた道を戻っていった。
「それは本当か？」
男は声を荒立てて、情報を持ってきた人物にそう聞き返した。
「見かけた程度なので、確認は取れませんでしたが」
考え込む男の隣で、控えていた人間と情報を持ってきた人間との会話は進められる。
「しかし、あの方に妹君などいらっしゃらなかったのでは？」
「親戚筋かもしれません、或いは―」
「他の組には気付かれたか？」
話を遮って、男はそう聞いた。ちょっと悩んでから返事が返ってくる。
「いいえ。まだかと」
男は椅子から立ちあがり、大きく手を振った。突然起こった風に、テーブルの花がゆれ、黄色い花粉が落ちていく。そして男は抑えて声で命令する。
「連れて来い。他の組の奴らに気付かれる前に」
「はあー」
ため息を思いきりつき、しずかはベッドにダイビングした。スプリングが軋んで、小さく体が弾む。
お嬢様ってのは、皆あんなのか？
仰向けになって、しずかは先ほどの食事風景を思い出す。皆がおしゃべりすることなく、黙々と食べているだけなのだ。その中でしずかの食器の音がひときわ大きく響いていた。
あと２年間、やってけるのか？
「どうかしましたか？西御寺さん」
心配したのか雅がすぐに尋ねてきた。二人は途中入学のせいか、隣同士の部屋だった。
「なんかさ、あたしこういうとこ初めてなんだけど、厳しそうだなと思ってさ。いろいろと」
部屋には、簡単にベッドと机とタンスが置かれているだけだった。
「でも、緑がたくさんあって、素敵よ。校則は…ちょっと厳しいけど」
雅はそういって、ジュースを見せた。校則の中には、部屋での飲食を禁止している。プシュッという爽快な音がした。そして雅はそれをしずかに差し出した。
まだよくは知らないが、しずかは雅と知り合ってでよかったと思った。直感でそう感じた。きっと本能が思うことで、それは正しいことなのだ。
しずかは、ぼんやりと天井を眺めていた。そして、いろんなことを考え始める。
「なんでそんな約束したの、しずか」
母親は、はじめ少しばかりしずかを責めるように言った。
「あなたががんばることじゃないのよ。私の問題なんだから」
そうは言っても、しずかには自分が問題で母親に波及しているとしか思えなかった。
「もう決めたんだよ。自分のためにも。２年したら立派なレディって奴になって帰ってくるから」
誰が悪いわけでもないが、ただ自分が母親のお荷物になるのだけは嫌だった。
自分で、決めたことだ。
「あら、これ何かしら？」
現実に引き戻す雅の声で、しずかは目を開ける。雅が手にしているのは、チェーン部分が剥げ欠けているペンダントだった。しずかは慌てて起きあがって、雅からそれを奪い取る。雅はそんなしずかの慌てた様を見て、驚いた顔で手を口に当てた。
「ごめんなさい、大事なものなのね」
「いや…。うん」
しずかは雅から隠れるようにして、自分の首にかける。さっきベッドに飛び込んだ弾みで落ちたようだった。
「ロケット？」
しずかは無言で頷く。恋人？意味ありげに微笑む雅に、しずかは驚くほど自然に答えていた。
「いや、母さんの写真が入ってる」
まだしずかが小さく、二人で幸せに暮らしていた頃の写真だ。別れるときに、母親が自分のものをしずかに渡したのだ。
「お守り、なんだ」
しずかはぎゅっと握り締める。
「素敵ね」
しずかは驚いて、顔を上げる。雅はそんなしずかに笑いかけた。
「お母様と、大事にしてる西御寺さん」
はっきりと言われたしずかは自分が恥ずかしくなって、またベッドに伏せた。
「そんなこと、ないよ」
小さい頃から、片親ということで、しずかは母親とともにクラスメートたちに蔑まれてきた。それでも、しずかは母親を恨むことはなかったし、ずっと大好きだった。それは今でも変わることはない。
「そんなこと、なくないわ。素敵。私は…。そうね。これがお守りかしら」
雅はそういって、髪に結ばれた紺のリボンに触れた。
「綺麗だな」
「ありがとう。母の形見なの」
あまりにあっさりと言われてしずかは驚いた。
「ごめん、その…。知らなくて」
「いいのよ、気にしないで」
雅はそう言って、しずかに笑いかける。
「もう１４年も前の話だから」
ということは３歳の時に、と考えてしずかは落ち込む。雅はむしろそんなしずかを励ますように明るく言った。
「悲しいとか寂しいとか、よくわからないような幼い頃でよかったのかもしれないわ。お守りっていうのも変かしら。ただ、母に関する唯一の記憶がこのリボンだけなの」
リボンをほどくと、雅はそれを大事そうに手にした。
「だから羨ましいんだわ。西御寺さんとお母様が」
照れてふーんと言い、しずかは雅に背を向けるように寝返りをうつ。そして、さっきから言いたくて仕方なかったことを口にした。
「しずか、でいいよ。呼び方」
少し間があって、雅が答える。
「ありがとう。しずかさん。素敵な名前ね」
真夜中の静けさの中で、その気配にしずかはパッと身を起こし、辺りを見まわす。誰もいないようだ。一応窓の外も見てみるが、気配は別のところにあるようだ。とっさに、立てかけておいた木刀を出した。微かな物音は隣の雅の部屋から聞こえてくるようだ。しずかは妙な胸騒ぎがして、剣を片手に廊下に出た。廊下には誰もいなく、静まり返っていた。しずかは雅の部屋のドアを小さくノックしてみた。
「雅？」
声をかけて様子を伺ったが、反応はない。物音が微かにしていたのが、逆に急に静まった。しずかはそっとドアノブに手をかける。力を入れるとノブはぐるりと回り、ドアが開いた。鍵はかけられていなかった。
誰かいる。
しずかは木刀を握り締めると、一気にドアを開けた。中では雅が、２，３人の黒い服を着た男たちに羽交い締めにされていた。
「お前ら、誰だっ」
月明かりの中で、その男たちが振りかえった。しずかは逆光でその格好がよく見えない。それでも剣を構える。
「しずかさんっ」
口を抑えつけられていた手をはがして、雅が叫ぶ。男たちも、腰に携えていた木刀を構えた。光りが反射する。
真剣？
しずかは思った。まさか。
それでもしずかはひるまなかった。
「夜中に女の部屋に忍び込んでくるなんで、男の風上にもおけない奴らだな」
そして、自ら突っ込んでいく。身軽なしずかは、まず一人目の肩を突く。突かれた男はうっと声を上げて剣を落とした。そして、しずかは二人目にかかってい
く。雅も自分を捕らえていた男の手を思いっきり噛んだらしい。痛っという声が聞こえた。しずかは二人目のみぞおちに柄を突くと、その男は膝から崩れていった。結局男たちはしずかには歯が立たないことを知ると、開いていた窓から飛び降りていった。
「おい待てよっ」
しずかの声に、一人が振りかえる。月光の中で、しずかはその男が、影武者のような黒い服を身にまとい、マスクを被っていることに気付く。そして、開け放たれた窓から、急に強風が吹き込んで、突然そのマスクが除かれた。驚いた目がじっと見据えているしずかを捉えると、はっとしたように慌てて他の男たちに続いて窓から降りる。
「おいっ」
追いかけようと窓に駆け寄るしずかだが、下を見ても男たちが、森の中に消えていくのが見えただけだった。しずかは振りかえって雅に尋ねる。
「大丈夫だったか？」
「ええ。しずかさんのお陰で」
ふと鼻に何か濃厚ないい匂いが漂ってきた。
「なにか匂う」
雅がしずかの質問に答える。
「花の香りかしら」
花、としずかは呟いた。舎監の言っていたことをふいに思い出した。
暗がりの中で、男は負傷した肩を抑えながら、椅子から立ちあがった男に報告した。
「確かに噂通りでした。姉妹…いえ、生き写しではないかと思うほどに」
男は無表情のままに尋ねる。
「それで本人はどうした」
ややあって、返事がする。
「それが隣の部屋の女に気付かれまして、その女がかなり腕の立つ女で―」
「取り逃がしたというのか？」
男の瞳が鋭く光り、手に持っていた百合の花を投げつける。象牙色の制服には、黄色の花粉がついてしまったことだろう。百合の花粉は二度と落ちない。それは、そのまま彼の汚点という意味でも。
そんな時、柔らな声がした。
「おやおや、随分と騎士らしからぬことをするんですね。百合組は」
風もないのにカーテンがはためいたかと思うと、すぐに窓から優男風の男が現れた。
「鞍馬（くらま）」
そう呼ばれた男は、ささっと立ち上がり始めた取り巻きに一瞥加えると、ただじっとその中心にいる男を見ながら言った。
「女性の寝室に夜中押し入った上に、取るべきものは取り忘れ、しかも女との戦いに数で優勢でありながら負けるとは。陛下が聞けば、どんなにお嘆きになることか」
そのやわらな物腰に隠された真意を確かめるように、男は慎重に聞く。
「何が条件だ」
すると鞍馬は優しそうな笑顔を見せる。
「本命の姫君候補も見つかったわけだし、白鳥華夜乃（しらとりかやの）から手を引いていただきたい」
「いいだろう」
男は素直に答える。
もともと、そうするつもりでいたのだ。あんな淫乱、この百合の品位を汚すだけだ。
鞍馬はもういちど、創り物のような笑顔を見せた。
「流石は物分りのよい、速水隊長だ」