女の覚悟の決め方2
恋すると、相手のこと、何でも知りたくなっちゃう。
どんなまめつぶくらい小さなことでも。
淳子ちゃんが前に言ったとおりだ。
うちひしがれたあたしは、そのままソファにしなだれ込む、なんて乙女っぽいことはしないで、果敢にも委員長の部屋にもぐりこんでいた。
階段を上った右側の部屋、そこが委員長の部屋だった。
リビングと一緒で、シンプルにまとまった部屋。
ベッドと、机と、オーディオと。それから本棚。あるのはそれだけ。
壁にはあたしの知らないサッカー選手のポスター。
本棚にはいくつかの、表彰状とトロフィー。
一緒に飾られた写真には、小学生の委員長がいる。
やっぱり弟さんなんだろうな。とても似てるもの。
なんてあたしは当たり前のことも思いながら、ずっと探していた。
委員長が好きな人の写真。
どこかに飾られてないか。
ひっそりと、隠してないのか。
それを見ても、どうにもならないってことはわかってたけど、止められなくて。
本と本の隙間を目がぶつかるくらい近くで見つめて、
そのくせ、その本を引っ張り出す勇気はなくて。
結局何も見当たらなくて、ため息をついて、ベッドに座り込むと、グシャとお尻の下から音がした。
慌ててお布団から踏んでしまったものを取り出すと、それはアイドルの水着の写真集。
うわ。
そのアイドルが誰なのか、有名なのか、新人なのか、あたしには全然わからなかった。
わかるのは、その子がすごくかわいくて、すごくスタイルがいいってこと。
柔らかな笑顔と、ふっくらとした胸の谷間。すらりと長い足。
思わず自分の胸を見下ろすけど、ぺちゃんとしていて、谷間なんかあるわけもない。
委員長も、やっぱり、こういう子の方がいいのかな。
委員長の好きな人も、やっぱりこういう子なのかな。
しゅん、と落ち込むと、
「原田？」
といういつもの声がして。
あたしが慌ててベッドの上に立ち上がると、委員長がドアのところに立っていた。
「あ」
もちろん、誘ったのは委員長だったけど。
「えと」
勝手に部屋に入ったのは、あたしだ。
「そ…の」
しかも、人のもの（写真集）まで勝手に見てる。
なんていっていいのか、わからなくて、あたしは写真集を握りしめて、そのままで立ち尽くす。
怒るかな、委員長。
出て行けって、怒鳴られるのかな。
そう思ったけど、委員長は、小さくため息をついただけだった。
「もしかして、原田。大輔に、留守番頼まれた？」
「大輔？」
「野球少年の弟」
やっぱりそうか、と思って、うん。と頷くと、委員長は笑いながらため息をつくという複雑な表情をみせた。
「部屋に上がってろって？」
「うん、あ。ごめんなさい。勝手に」
すると委員長は、いいんだ原田は悪くない、と言った。
でも、このままだと弟の大輔くんが悪者になっちゃう。
「あのね、委員長」
委員長はスタスタとあたしの前にやってくると、握りしめた写真集をさして言う。
「それ、大熊の忘れ物」
「へ？」
「ほら」
ひょい、と委員長はその写真集をあたしからとりあげて、裏を見せる。たしかに、そこには、由美子ちゃんＬＯＶＥ、BY大熊勝志、なんて文字が書かれてあった。
あ、とあたしは声をあげる。
委員長は、そんなあたしを見ないで、その写真集を机の上に投げた。ゴミを捨てるみたいに、ぽんと。
バサッと落ちたその音が、なんだか委員長の怒りのように思えて。
「ごめんなさい、委員長」
そう言ったけど、委員長はなかなかこっちを向いてくれない。
やっぱり怒ってるのかな。
誤解、しちゃったこと。
それから部屋に勝手に入ったこと。
あたしという存在、全部。
それだけは嫌だった。もう一度謝ろうとしたときに、委員長は背中越しに、
「だけど、原田」
と言った。はい、と答えたあたしは、初めて委員長のつむじを見つけた。
ベッドに立つあたしと、委員長の身長は、ちょうど同じくらい。
だけど、夕陽の当たる背中は、なんだかとても大きくて。
あたしと、全然違うんだな、って感じた。
委員長との間には、長い長い距離があるんだなって。
そして、きっとあの留守電の女の人と委員長とは、そんな距離なんて全然ないんだろうなって。
俯くあたしに、委員長は言った。
「俺も男だから」
「だから？」
え？と思わず顔を上げて聞き返すと、戸惑ったのは委員長の方で。
「その、つまり。
呼んだのは、たしかに俺だけど。
こういう、状況。原田は気をつけたほうがいいと思う」
「こういう状況？」
鸚鵡返しのように聞き返すあたしに、委員長は頷いて、答える。
「…男と、部屋に二人っきり、とか」
恥かしそうにそう言って、委員長がそっと顔をうつむかせる。
委員長？
意味のまだわからないわたしに、淳子ちゃんの言葉がよぎる。
『突然だったんだもん。キスされたの』
『だって、美智もあたしも、そういうオトコノコの気持ちに、疎いでしょう？』
ってことは…。
つまり。
今がキスするタイミングだってこと？
「…はい」
かみ締めるようにそういって、あたしは思い切り目をつぶる。
よくわかんないけど、
今がそういうときなら、覚悟、決めるしかない。
あたしはそう思った。
目をぎゅっと瞑って、
両手はスカートを握りしめて、
歯もぐっと食いしばって。
だけど、委員長はそんなあたしに、
「原田？」
と、どうかんがえてもびっくりしてるという声で尋ねた。
「はい」
それでもあたしは目をつぶったまま答える。
握りしめた手も、そろそろ痛くなってきた。
「どう、したの？」
委員長のどうしたって戸惑ってる声に、あたしはおそるおそる片目をあける。委員長が心配そうにあたしを覗き込んでいる。
「だから、つまり覚悟を決めたわけなんだけど…」
「覚悟って？」
「だから−」
キスの。
そういおうとして、ぽかんとしている委員長を見て、あたしははたと気づく。
どっ、どうしよう。
あたしってば、思いっきり勘違いだ。
慌てて俯いたあたしは、そのままベッドに正座して、膝の上で両手を握りしめた。
いつも、そうだ。
ひとが言っていることに、きちんとついていっていると思ってても、実際は違っていて、話がかみあわなかったりするのも、全部あたしの勘違いなのだ。
委員長があたしのことを好きだと思ったように。
今がキスするタイミングなのだと思ったように。
「ごめんなさいっ」
すると、委員長は優しくあたしの名前を呼んだ。
「原田」
「はいっっ」
「…俺の言った意味、わかってる？」
「ごめんなさい。わかって、ない、デス…」
「いや、謝ることじゃなくて…」
委員長はそういってから、小さく小さく息をはく。
「つまり、俺は原田が思ってるような、品行方正の委員長じゃないこともあるんだってこと」
わかる？と委員長は、言ったけど、あたしは首をかしげた。
だって、委員長は委員長で。
いつだって、ドラマに出てくるようなヒーローだ。
強くて、優しくて、太陽みたいな存在だ。
そう言おうとしていると、ふいに立っている委員長の手があたしの肩にのせられた。
びっくりしていると、委員長が腰をかがめて、ゆっくりと顔を近づけてくる。
も、もしかして。
今度がほんもの？
委員長の太陽の匂いが鼻をくすぐって、あたしたちの距離はもう二十センチもない。
あと、十五センチ。
あと、十センチ…。
委員長が完全に目をつぶる前に、あたしは思い切りぎゅっと目をつぶった。
その瞬間、
「光一？あれ？帰ったの？スフレ作ってくれるっていうから急いでかえ―」
ドアが開くのと同時に、あの電話と同じ声がして、それから、
「あらまあ」
とその声はため息をつくように言った。
慌てて目を開けると、あたしの肩にあったはずの委員長の腕は、いつのまにか腕組みされていて、その片方の手を上に上げて委員長は器用に顔を覆っていた。
入り口に立つ女の人はその様子を見て、ニヤニヤと笑っている。
綺麗な人。
でもって、少し誰かに似てる、ような。
「ごめんなさい、お邪魔しちゃったみたいね、あたしってば―」
「姉貴っ」
珍しくいらだった委員長と、
それから委員長のいった言葉に、あたしはびっくりした。
「お、姉さん？」
似てる「誰か」は、委員長だったのだ。
委員長は小さく頷いて、それから顔を抑えてないほうの手を、お姉さんに向けた。
「結婚して北海道にいった姉の苑子。今こっちにいるんだけど、スフレ作るって言ったら、来るってうるさくて―」
え？つまり。
委員長の大事な彼女は、お姉さんじゃなくて。
え。
それじゃ、もしかして…。
「何言ってるのよ、あんたが来る？って言ったから、来てやったのよ。
それにしても、光一も、まったくすみにおけないわね。こんな可愛い子を―」
「お、おお、お邪魔しましたっっ」
真っ赤な顔であたしはそう叫ぶと、委員長のお姉さんの脇をすり抜けて、慌てて委員長の家を出て行った。
「美智っ、お・は・よ」
月曜日、教室にやってきた淳子ちゃんがあたしにそう話しかけた。
「…おはよう」
でもあたしはそれだけ答えると、するっと机に伏せる。そんなあたしを見て、
「あれ？元気がない？どうかした？」
と淳子ちゃんが言う。
だけど、土曜日の出来事を、どうやって淳子ちゃんに話していいのか、あたしにはわからなかった。
すると、教室に爽やかな声が響き渡る。
「おはよう」
「おはよう、菊地君」
委員長だ。
思わず体を起こすと、委員長と思い切り目が合った。
「おはよう。…原田」
「オハヨウ、ゴザイマス」
お互いぎこちない小さな声でそう答えて、委員長はあたしの隣の席に座る。
だけど、いつもと違って、あたしに何も話しかけない。
当然あたしも黙ったまま。
だって、昨日のことをどう聞いていいのか、わからない。
大輔君の言っていた大事な彼女は、あたしですか？なんて、とてもじゃないけど、聞けないし。
それに、あの委員長の言葉の意味も、その後の行動も。
そのくせ心の中では、委員長の気持ちを聞きたいのに。
見かねた淳子ちゃんが言う。
「あれ？どうかしたの？美智？菊地くん？」
だけど、あたしも委員長も、顔を赤らめて伏せたまま、ホームルームの開始を告げるチャイムがなった。
結局、あの日のことは、それからしばらく経って委員長には聞いた。
あの日の続きも。
だけど、それはまた、もっとずっとあとのこと。