女の覚悟の決め方1
淳子ちゃんの様子がおかしいのに気づいたのは、ほんとうは月曜日の朝だった。だけど、何となくあたしが聞けずにいると、金曜日の朝に、淳子ちゃんから話してくれた。
「え？淳子ちゃん、寺原君とキ−」
大声じゃなかったけど、素直に淳子ちゃんの言葉をくりかえそうとしたあたしの口を、淳子ちゃんが真っ赤な顔で抑える。
昼休みの女子トイレ。
誰もいないことはわかってるのに、淳子ちゃんは慌てていた。
「もう美智ってば。大きな声で言わないでよ」
「あ、ごめん。でも…」
キスしたんでしょ？と小さな声で言うと、淳子ちゃんは、真っ赤な顔して必死そうにうなづいた。
淳子ちゃんがずっと好きだった寺原くんに告白したのは、つい一ヶ月くらい前。付き合ってくださいと言った淳子ちゃんに、寺原君はあっけなく、「いいよ」と答えたそうだ。
それから一ヶ月。ふたりが仲良くデートしてることは、淳子ちゃんから聞いてたけど、まさか、もうそんな仲だなんて。
日曜日、淳子ちゃんは、恋人の寺原くんの家にお呼ばれされた。緊張しながらいってみると、家族は誰もいなくて、寺原くんひとりだった。淳子ちゃんは普通に寺原くんの部屋で、音楽を聞きながら、おしゃべりをしていたそうだ。それはいつもとまったく同じ空気。
でも突然、寺原くんが淳子ちゃんにキスしてきたそうだ。淳子ちゃんにとってはあまりに突然で、しかもほんとうに一瞬のできごとで、現実のことだって思うようになったのが、昨日くらいかららしい。
「だってね、突然だったんだもん。キスされたの。
きっと、美智だって、そろそろだよ」
え？そろそろって？
だいいち、あたしには付き合っている人がいない。
やっと、好きだって思えるようになった人はいるけど。
「だって、美智もあたしも、そういうオトコノコの気持ちに、疎いでしょう？」
それは、そうだ。
しかもあたしは、オトコノコに限らず、他の人の気持ちに疎くて、いつも知らないところで傷つけてしまう。
少しばかり反省したところで、淳子ちゃんは、
「心の準備、しておいたほうがいいよ」
と小声で教えてくれた。
準備、と言っても。
あたしと想い人の菊地光一クラス委員長は、まだ付き合ってもいない。
仲がよいのはたしかにそうだけど、そのせいで、まわりの人には付き合ってるって思われているけれど、委員長の気持ちを、あたしは知らない。
『原田のそういうところが好きだ』
とは言われたけど、その本当の気持ちを聞くタイミングを逃して、あたしと委員長の関係はあれからなにもわかってない。
ずるずるタイミングを逃していると、決めた気持ちもぐらぐらと揺れてきて、
だってもしかしたら、とんでもない勘違いかもしれない、
なんて思ったときには、何も聞けないでいる今までのあたしがいた。
結局つきあって、といわれたわけでもないあたしと委員長の関係は、やっぱり恋人同士とはいえないし、だから淳子ちゃんのいう『心の準備』も必要がない。
だけどやっぱり、確かめたい。
委員長の言う、好きの意味を。
委員長の本当に好きな人を。
そんな風に席にすわってため息をついていたら、隣の席の委員長に話しかけられた。
「原田」
「あ、はい」
「明日、空いてる？」
明日は土曜日で、あたしには塾も習い事もなかった。
うなづくと、良かった、と委員長が言う。
「じゃさ、明日うちに来ない？」
その言葉に、斜め前の席の淳子ちゃんが、にやにやしてあたしをふりかえって見ていた。
ピンポーン、とチャイムを鳴らす。
何の反応もなくて、あたしは首をかしげながらもう一度押したとき、ようやく玄関のドアが開いた。
「誰？」
出てきたのは、小学生の高学年くらいの男の子。
野球帽を被ったユニホーム姿に、バットとグローブ。
これから野球の練習にむかうだろうことは、いくら鈍感なあたしにもわかる。
「あの、委員長…菊地君の、クラスメートの原田です」
何か反応してくれるかと思ったけど、彼はふーんとだけ言った。
愛想はよくないけど、端正な顔立ちは、委員長と似ている。
ってことは、弟さん？
「ちょうどいいや。兄ちゃん、出てるけど、すぐ帰ってくるから。部屋にあがってなよ」
え？でも。
そそくさと靴を履いて、
「二階の上がった右。助かった。留守番がいなくて困ってたんだ。兄ちゃんの大事な彼女が来るっていうのにさ」
え？
彼女？
びっくりしているあたしに、ぽんと鍵を投げて、
「じゃ、あと頼んだから」
そう言って、委員長の弟さんは、家を出て行ってしまった。
鍵を持たされてしまった、なのに外に立っているわけにもいかず、あたしは誰もいない委員長の家で留守番することになった。
家族の誰もいない家に、他人のあたしがひとりきり。
悩んで鍵はかけないで、リビングにいることにした。
委員長の家。
リビングは、意外とシンプルにまとまっていた。
整理整頓がきちんとされてるあたりは、委員長の家っぽくて、どこか安心した。
でも、ここで委員長は育ってきたんだと思うと、急にどきどきして。
あたしの知らない委員長がここにいる。
…だけど、委員長の大事な彼女って…誰？
そう思った瞬間。
プルルルルルッ。
突然電話が鳴り出して、びっくりしたあたしは慌ててソファから立ち上がっていた。
それでもお構いなしに電話は鳴り続ける。
出ようかどうしようか悩んでいると、電話が留守電になった。
ほっとしたのもつかの間で、あたしは電話の向こうから聞こえてきた女の人の声に、びくっとした。
「光一？いる？」
まったくもう、と続ける声は、若々しくて、とてもお母さんとは思えない。高くて、でも柔らかな声は、委員長を名前で呼び続ける。
「来いって言ったの、光一じゃないの。それなのに家にいないってどういうこと？
そういう意外と自分勝手なところ、直した方がいいって言ってるじゃない。あーあと、無駄にかっこいい言葉はくところもね。誤解するから、女の子は。妄想の塊なんだから」
柔らかな声は、するどくあたしの心を突き刺すと、そのまま、またねと言って消えた。
だけど、あたしの心にはその声が深く残っていて。
そういう自分勝手なところ、直した方がいい。
無駄にかっこいい言葉はくところも。
誤解をするから、女の子は。
誤解をしてたんだ、あたしは。
あたしの知らない委員長を、知っている女の人がいる。
それは、あたしと委員長をつないだ委員長の秘密なんかよりも、ずっとずっと大切なことに思えて。
恋する女の子の勘というので、鈍感なあたしにもわかってしまった。
きっとこの人に、あたしは太刀打ちできない。
本当に委員長の大事な彼女は、きっとこの人なのだ、と。