大事な言葉の使い方
昼休み、自販機で飲物を買って教室に戻ろうとしたら、名前を呼ばれた。
振り返ると、ふわふわした茶色い髪の毛をウサギみたいにふたつに結わえた女の子がほっぺたを赤くしてわたしに小さな包みを差し出した。
「これ、もらってください」
上履きの色からすると、一年生らしい。
知らない子だったけど、こういうことはたまにある。
「あ、ありがとう」
受け取ったところで、その包みが二つあることに気づいた。
首をかしげるわたしに、
「菊地先輩と一緒に食べてください」
と、女の子が言う。ハキハキした、元気のいい子のようだ。
「ありがとう」
コウの分まで丁寧にそういうと、満足な笑みを浮かべて、彼女は口早に言った。
「わたし、菊地先輩と原田先輩に憧れてるんです。
だからお料理とかいっぱいがんばって、いつか、原田先輩みたいに理想のお嫁さんって言われるようになりたいです」
まだお嫁さんにはなってないんだけど、という言葉はのみこんだ。
代わりに、ぎこちなく笑みを浮かべてあらためて答える。
「ありがとう」
すると、その女の子は髪の毛が床につくくらいふかくお辞儀をしてから、小走りに去っていった。
残されたのは、美味しそうな丸いクッキーと、ため息をつくわたし。
美味しい料理を作れるのは、わたしじゃなくて、コウなのだ。
だから、理想のお嫁さんというのも、わたしじゃなくてコウ。
もっとも、そのことは知ってる人だけの秘密なので、言えないけれど。
ふう、ともう一度ため息をついていると、後ろからコウの声がした。
「どうした？美智」
わたしは無言で、クッキーの袋をコウに見せる。
「コウとわたしにどうぞって」
クッキーは、サッカーボールに見立てていて、本当においしそう。コウは、当然のように袋を開けて、そのクッキーを食べた。
「サクサクしてるな。この匂い・・・アーモンドプードル？」
唐突とも思えるコウの行動の理由は、単純に彼もお菓子づくりが得意だからで、食べているのはそういう意味で味見をしているのだ。
じっくり味わいながら一つ食べ終わったコウは、じっとみているわたしにも気づき、「食べる？」と差し出してきた。
食べてみると確かにおいしい。バターの量が絶妙なのか、サクサク感としっとり感がいい案配だ。わたしが作る堅くて口の中がぱさぱさになるクッキーとは全然違う。
こういう時、わたしの心は揺れる。
コウの隣にいるのが、わたしでいいのかなって。
コウは料理だけじゃなくて、勉強もサッカーも、何でもできるし、サッカー部でも部長をやるくらい皆に慕われている。
わたしは、というと、料理も掃除も、家事は全然できない。
人見知りもするから、さっきみたいな知らない子ともにこやかに話せない。
せっかくプレゼントしてくれたのだから、もっといい言葉はなかったのかなとも思うけど、無理。
この先の進路のことだってそうだ。
きちんと聞いてはないけれど、おそらくコウはサッカーができる最高の環境を選んで、この街を出て行く。きっといつかは世界にだって行くだろう。
その時、わたしはどうしたらいいのかと思う。
コウについて行って、内助の功みたいに支えてあげるようなこともできない。
かといってお互いがお互いの道で頑張ろうって言えるほど、わたしには立派な目標もない。
コウがそれこそ日の丸を背負うようになっても、わたしはこうして今と変わらない場所で、今と変わらず小さなことでうじうじ悩んでいるのが関の山だ。
そんなわたしを、本当にコウは好きなんだろうか。
やっぱりシュークリームやショートケーキが好きと同じ気持ちで好きだと言ってるんじゃないか。
考えれば考えるほど、わたしはそう思うようになっていた。
お気に入りの海辺の絶景スポットに座って海を眺めていると、隣で読書をしていたコウが本から顔を上げて、
「どうかした？美智」
と聞いてきた。
「え？」
「悩んでる表情してるから」
そういってコウは本を閉じる。
本を読んでいるのにわたしの様子も見ていたなんて、本当にコウの洞察力はすごいと思う。
わたしはすぐに白旗をあげて口を開いた。
「今日クッキーくれた女の子いたでしょう？あの子にね、理想のお嫁さんってまた言われちゃったの。
そんなこと、ないのに。
そう言われるたびに、本当の自分と違いすぎて、落ち込んじゃって」
さすがにコウの隣にいることがいいのかな、とは言えなかった。
ちらりと横目でコウを盗み見すると、腕組みをしたままうーんと唇を軽くかみしめていた。
きっと、わたしに返す言葉がないんだと思う。
だってそうなのだ。
理想のお嫁さんじゃないと落ち込むのなら、理想のお嫁さんになる努力をしてそうなればいい。
そうやって自分で自信をつければいいだけのこと。
つまり、わたしの問題。
眩しくわたしたちを黄昏色に染める太陽に向かって気合を入れて向き合って、気にしないでと言おうとしたところで、コウが先に口を開いた。
「俺は、そうは思わないよ」
思わずコウの方を見ると、コウは眩しそうに目を細めながら太陽を見ていた。
「他人が美智のことそう思うのだとしたら、それも美智の一部かもしれない。
でも、一部であって、全部じゃない。
料理が出来なくても、掃除が下手でも、きっと美智の何かが、そう感じさせるんじゃないか」
でも、と言おうとしたわたしの言葉を、コウは優しく押しとどめる。
「すくなくとも、俺にとって美智は理想の花嫁だと思う」
まあまだ結婚してないけど、とさらりとコウは続けた。
「とにかく、俺は今の美智が好きだから」
本当にこういうところ、ずるいと思う。
わたしがドキドキする言葉を、コウはいつもさらっと口にする。
そうしてちらりとわたしの方を見て、自信ありげに微笑むのだ。
とてもじゃないけど、そんなコウを見返すことができなくて、わたしは俯いて悔し紛れに言い返す。
「そんなさらっと言われると、なんていうのか、シュークリームやショートケーキが好きって言われてるのと同じレベルだと思っちゃう」
するとコウは、そうか、と妙に真剣な声で答えてから、突然に言った。
「愛してる」
「え？」
その言葉にあわてたのはわたしだ。
くるっとコウの方を見返したから、バランスを崩して、海に落ちそうになってしまった。コウがわたしの腕を掴んで、引き寄せてくれたからよかったものの、そうしてくれていなかったら、泳げないわたしは今頃海でおぼれていただろう。
「危ない、美智」
「ごめんなさい。突然でびっくりして」
「そうか。ごめん」
「ううん」
そう答えながらわたしは混乱した頭でさっきコウが言った言葉を思い返す。
愛してる。
たしかにコウはそう言った。
ここは日本で、わたしたちは高校生で、今日は記念日でも何でもない。
それなのに、そう言った。
「あのね、コウ。そういう言葉は、そう簡単に使う言葉じゃないと思うよ」
するとコウはそうかな？と首をかしげて答えた。
「俺の気持ちを美智にわかりやすく伝えるには、この言葉が一番だと思ったんだ。
それに美智にはこのくらい言わないと、気持ちが伝わらないだろ？」
コウはそういうと、わたしをじっと見つめながら、
「伝わった？」
と言ってきた。
伝わらない、わけがない。
どう答えていいかわからなくて、わたしは火照った顔をうつむかせた。
「でも、どうしてコウはわたしのこと…好きなの？なんでもできるコウとは違って、得意なことなんて、何もないのに」
むしろ不得意なことが多すぎるわたしの、どこが。
それは、とコウは考えることなく答えた。
「美智が、小さいことを気にかけて、じっくりと考えるからところ、かな。あえて言うと」
「それって―」
長所じゃなくて短所じゃない？
そう言おうとしたわたしを遮って、コウは話をつづけた。
「西田に言わせると、俺にはアクセルしかないらしい」
アクセル？
「そう。車の速度を加速させるペダル。俺には、ブレーキもバックもないんだと。さっさと進む道を決めると、ゴールまでひたすらに走り続ける。少しくらい、悩んだり、立ち止まったり、時には後退してもいいのに、そういうところがないって。
むしろ、少しくらい悩めって言われてる。
だから、原田が小さなところで、きちんと立ち止まって悩んで、それでも進んでることって、俺からするとすごいことなんだ」
だから短所なんかじゃない。
コウはそう力強くわたしに言った。
わたしはわたしのままでいい。
かつてわたしにそう言った同じ強い瞳で。
わたしの気持ちが少し落ち着いたのを確認して、コウは大きく伸びをして海を見つめて話をつづけた。
「お互い別々の大学に入ったら、もっと会えなくなるだろうし、この先きっと何度も美智を俺は不安にさせるかもしれない。そんなときは、今の言葉、思い出して」
コウの言葉に、やっぱり気づかれてたのかとわたしは思った。
そうしてわたしの不安な気持ちを、さらりと温めてくれるコウの優しさにも。
ありがとう。
…って。
「今の言葉って…？」
うじうじ悩んでるのがすごいってこと？
そう聞くと、コウは深いため息をついてから、わたしの肩に両手をおいて、いつにもまして優しい声で耳元で囁いた。
「何度でも言うよ。
愛してる、美智のこと」