Maybe Blue 第一部 海の鼓動
向夏5
「ねぇ。七夕祭の話、知ってる？」
そう話を切り出したのは理香だ。グランドでは、今週末にインターハイ県予選準決勝を控えた選手たちが懸命にボールを追いかけている。
日曜の試合から、３日が過ぎていた。トーナメント形式の神奈川県大会では、負ければ終わる。いくら今年の選手権に優勝した凪浜といえ、油断をすれば全国大会にも出れなくなる。それが強豪ひしめく神奈川県予選だ。
その選手たちを見つめながら、三人はグランドの隅でボールを磨いていた時だった。
「七夕祭？」
美都ははじめて聞いたらしい声を上げる。ボールをひとつ磨き上げた萌子は、籠に入れながら理香に言った。
「聞いたよ、早坂君から」
あまりにも萌子にあっさりと答えられ、理香は独り言を言う。
「なんだ。ちゃんとやることやってんじゃん」
にやりと笑ってぶつぶつと呟いている理香に、萌子は聞きなおす。
「何？」
「何でもない、何でもない」
フフフと微笑む理香に、萌子は妙な不安を覚えたが、美都が七夕祭のことを聞きたがったので、理香が説明をした。
一年目がブス、二年目がシーラカンス、そして三年目がミイラ。
「二人とも凪高ブスにならないように頑張ってよ」
萌子の肩をぽんと叩く理香だったが、萌子は冗談めいたように理香に言い返した。
「わたしより、美都でしょ」
それで理香も、美都の肩も叩くのだが、美都は落ちこんだ表情を見せるだけで、かろうじて弱気な声で言った。
「…うん」
黙り込む美都に、萌子は理香と顔を合わせ、心配そうに尋ねた。
「どうかしたの？美都」
二人とも、その時になってこのところ美都の話を聞いてなかったことに気づいていた。美都は、あのね、と小さな声でまず言った。
「この頃、なんか無視されてるような気がして…。嫌われてるのかなって思って」
前までは、美都がミスすれば、すぐに和美の怒鳴り声が聞こえた。しかし、この頃の和美は何も言わない。優しくなったのだと前向きに考えようと思うのだ が、和美は美都の挨拶も無視だ。それどころが、視線も合わせようとしない。たしかに、怒鳴られていた時は、怖かったし、泣きたい気持ちにもなったが、無視されるよりはましだった。
話すにつれて、どんどん小さくなっていく美都の声と、どんどんうなだれていく美都の頭に、焦ったように理香は話す。
「何言ってんのよ、和美君なんていっつも何考えてるかわかんないし、挨拶なんかあたしだって無視されるし。そういう奴なのよ、きっと。
あ、悪い意味じゃなくて…その…」
言いすぎたと思った理香に、萌子がフォローをいれる。
「シャイなのよ、きっと」
それでも美都は顔を上げない。
「好きな人がいるかも、知らないし」
萌子と理香は思わず顔を合わせた。と、理香が慌てて言う。
「それは、いないよ、きっと。いるわけないじゃん。和美君に…。あ」
どうも理香は和美の印象がよくないようだ。萌子は美都に励ますように口を開いた。
「サッカー漬けで、きっと女の子どころじゃないよ」
けれど、そうだとは美都には思えなかった。
「右京っ、パスッ」
右手を上げて知朗はボールを持っている右京にセンタリングを要求した。右京のボールは、そのまま知朗の思ったところに飛んできて、パスは見事につなが る。ボールを持ち、知朗は、目の前に立ちふさがった横田と向き合う。右に傾き、進もうとする知朗に、ぴったりと横田はついてくる。右に、左に、ボールを蹴りながらシュートしようとする知朗を、横田は執拗なまでに追いかける。しびれをきらした知朗が、強行突破を図ろうとする。身構える横田。
しかし、次の瞬間、知朗のスピードは急に落ちたと思うと、ボールは横田の両足の間をすり抜けていく。股抜きだ。知朗が横田の脇を抜け、ボールを蹴ろうとする前に、横田の足が入ってきて、ボールはクリアされてしまた。
「ちっくしょうっ」
素直に叫んだ知朗に、横田はハハと笑いながら言う。
「途中まではよかったけどな。またまだ、甘いぞ、友近」
試合後のわずか１時間、どっぷり落ちこむと知朗は、すぐに復活した。落ちこんでる暇があったら俺は走りこんでやる、と気合を入れて、こうして毎日練習に励んでいた。
次の試合のスタメンはまだ決まってない。太田は、もう普通に練習に参加している。つまり、知朗と同じ土壌にたったということだ。とすれば、もともともレギュラーである太田の方が、スタメン入りする確率は高い。
例えそうだとしても、と知朗は思う。太田が出る試合に、切り札として知朗が出場し、活躍した場合、それはそのまま全国大会のメンバーとして大きくアピールすることができるのだ。ぐっと拳に力を入れ、定置に戻る横田に向って、知朗は強気に言った。
「まだまだ、これからっ」
そして、自分も戻ろうとした時、右京の異変に気づいた。
「おい、大丈夫かよ」
右京はグランドの中央で、座りこんでみだり足に触れていた。石橋がグランドに入ってきて、右京に言う。
「藤原、お前はもう上がれ」
「平気です」
そう答える右京だったが、石橋は今までの試合で右京が相手に削られていることに気づいていた。もちろん、ゲームメーカーとしては当然のことだが、１年でそれだけ厳しくマークされてるということが、それだけ右京を恐れている証拠でもある。ただ、生憎今の右京には、まだそれを跳ね返す体がない。
「これから試合が続くんだ。少しは休め。今日は軽めのメニューでいいから。沢木、テーピング」
右京は軽く溜息をつきながら、グランドを出ていった。
グラウンド脇で黙りこんだままの右京の足に、テーピングをしながら萌子はそっとその表情を盗み見る。険しくもなく、悔しげでもなく、痛みを感じてるわけでもなく、ましてや笑顔でもない。右京との距離を縮めることのできない萌子は、そんな自分に苛立っていた。
何を、どうしたら。
そして、何気なくこう言った。
「今度の試合、ユースの監督が見に来るんだってね」
それはつまり、右京をメンバーとするかどうかの問題でもある。
萌子はいつかの、右京のクラブ時代のチームメイトの言葉を思い出す。
俺はお前に勝って、ユースメンバーに入ってやる。
あの挑戦状を、右京は受け取ったのだろうか。それとも、気にも止めてないのだろうか。右京は、ただひとりの世界に住み続けているのだろうか。
「だから、余計に頑張るの？」
一瞬、右京が睨むように萌子を見据えた。そして、治療が終わったのを確認すると、すっと立ちあがった。
「無理、しないでね」
萌子はそういうのが精一杯だった。
グランドを飛び出していったボールを追いかけてきた篤志は、そそくさと帰っていく園部を見つけた。
「あれ？園部帰るのか？」
「悪い。ちょっと、用事があってさ」
「監督には？」
「話した。じゃな」
習慣になっているグランドへの一礼をして、園部は部室に向かう。よほど急な用事が入ったのだろうと手をひらひらと振りながら篤志が見送っていると、グランドからは鋭い声が響いた。
「篤志、練習に戻れ。どうかしたのか？」
返事をしない篤志に、由太はそう声をかけながら近づいた。そして、部室に消える園部を見つけた。
「園部がさ、帰るっていうから」
グランドに戻ろうとした篤志が見たのは、険しい由太の表情だった。慌てて篤志は付け加える。
「用事があるんだって。監督にも話したって言ってから。由太、そんな怖い顔すんなよ」
中等部時代、後輩たちが恐れていたのは監督の怒鳴り声でなく、由太の冷静な対応だった。厳しい態度は、キャプテンとしては充分だったかもしれないが、一 部で反発があったのも事実だ。その仲介役となっていたのが篤志だった。篤志は、この前の園部のことも思い出し、動く気配のない由太を見てふうと溜息をつい た。
また一波乱ありそうだ。しかも、この厄介なメンバーたちと。
翌日の昼休み、職員室に呼び出された厳己は、担任教師の前に立って、うなだれていた。
「このところ、集中力がないようだが、何かあったのか？授業中も居眠りばかりしているだろう」
３時間目は担任の授業で、寝ていた厳己に気づいた担任は、問題を当てた。一馬に起こされて、何とか答えたものの、こうして職員室への呼び出しを受けたのだ。
厳己は素直に謝った。
「…すみません」
厳己は教師受けのよい生徒だった。真面目で、勉強もでき、何よりも素直だった。担任の声が少し柔らかくなる。
「練習がきついのか？」
もしそうだったら、厳己もこれほど後ろめたくは思わないだろう。寝不足の原因は、始めて１週間ほどになるバイトにあるのだ。
「いえ、違います」
「そうか…」
どこか担任の声が残念そうに聞こえた。しかし、厳己はそんなことよりも、こうした自分の授業態度が親に伝えられてしまうことのほうが怖かった。溜息が聞こえてきて、担任は真剣な声で言った。
「部活もいいけどな、川瀬。お前は頭がいいんだから、きちんと勉強しろよ。このままいけば、国立は確実なんだ」
何が言いたいのか、厳己にはすぐわかる。結局担任も親と同じなのだ。
サッカーよりも勉強をして、いい大学には入れ。その方がお前のためなんだから。
何か言い返したい厳己だったが、言葉は浮かんでこなかった。
「…はい」
素直にそう答えて、厳己は職員室を後にした。
「大槻先輩」
石垣に腰掛けながら、スパイクを履いていた司が顔を上げると、萌子がいた。
「なんだ、沢木か」
練習はもう始まろうとしている。なのに司が余裕でいることと、溜息混じりに言われたことで、萌子はちょっとムッとした気持ちを抑えて言った。
「ちょっとお話があるんです」
「なんだよ」
司は萌子が真剣な顔つきでいることで、話をしたくないようだった。
「真面目に答えてください。和美には、本当に好きな人がいるんですか？」
美都の落ちこみようがいつも以上なので、萌子はもう一度司に尋ねることにしたのだ。もしいないのであれば、美都は少し元気を取り戻すに違いない。
「んなこと本人に聞きゃいいだろ」
一瞬だけ視線を上げて萌子を見た司だったが、すぐにまた視線を落としてスパイクの紐を結び始める。
「本人が教えてくれないから聞いてるんです」
それでも司は萌子を無視し黙ったままでいる。
「教えてくれるくらい、いいじゃないですか」
その沈黙に耐え切れなくなって、萌子が責めるように言うと、ようやく司はスパイクから手を離して顔を上げた。
「悪いが、俺は親切でも、いい先輩でもねぇんだよ。誰でもそう簡単に、教えろといわれてハイハイと答える奴だと思うな」
真剣な司の言葉に、萌子は反論もできずに黙り込む。司はそんな萌子をじっと見て言った。
「お前さ、今まで男とつきあったことあるわけ？」
はっきりと聞かれたことに、萌子は思わず大声で言い返す。
「先輩にはっ…関係、ないですっ」
初めは元気の良かった萌子も、口から言葉が出ていく毎に、和美のことも自分には関係なく、また司に尋ねることも、そして司が答えてくれるということも、関係ないのだと気づいて、段段と弱くなっていった。
「そ、ならいいぜ」
それ以上何も言えなくなった萌子の前で、司はゆっくりと腰を上げてグランドに向って歩き出す。萌子はうなだれたまま、自分のことを責めたてていた。
土を蹴る足音がふいに止まったかと思うと、司が萌子に向って言った。
「北内に何度聞いても、無駄だぜ。あいつはいないって答えるに決まってるからな。あの天邪鬼が、正直に答えるわけねぇだろ」
思わず萌子が司を見つめようとしたが、その前に司はさっさと歩き出していた。
それって、つまり…、いるってこと？
「頑張ってるな、名取」
大きく蹴ってしまったボールを追いかけていると、そのボールは誰かの足元に転がっていき、ケンが顔を上げると笠間がボールを手にして立っていた。
準決勝を明日に控え、レギュラー選手たちは軽い練習メニューとなっていたが、未だＢチームのケンには関係がなかった。それでもいいのだとケンは思う。
「まだまだっすよ。とりあえず上に上がらないと、試合にも出れないっすからね」
ライバルは自分自身だという知朗の言葉が、ケンの心に深く刻まれていた。
赤坂でも、成でもない、自分なのだ。
笠間はそうかと呟きながら、わざとさりげなく言う。
「監督がお前のこと褒めてたぞ」
ぴくんとケンが頭を上げたのを見て、笠間は持っていたボールをケンに返す。
「その調子で頑張れば、インターの本選頃にＡにいけるかもしれないぞ」
途端にケンの目は輝き出した。きちんと練習をしてれば、認められるのだ。
ケンは笠間に軽く頭を下げると、そのままグランドに駆け戻っていった。そんな後姿を見ながら、笠間は溜息をつく。
こっちが上がれば、あっちが下がる…か。
視線の先には成がいた。成に届くはずのボールは、上の空である成の頭上を越えて、笠間の方に飛んでくる。何してるんだという三年と、すみませんと叫ぶ成の声が聞けてきて、ボールはまたも笠間の足元に転がってきた。
息を切らせて走ってきた成は、追いかけてきたボールが笠間の手にあるのに気づくと足を緩めた。
「どうした、早坂」
投げられたボールを受け取った成は、一瞬きょとんと笠間を見つめる。
「最近調子悪いな。練習に集中してない。上の空って感じだぞ」
サブに選ばれたこともあったのに、今ではベンチ入りさえ危ういところに成はいた。
「…すみません」
うなだれた成は、その理由も自覚をしていた。気づけば萌子を目で追っていて、練習中も、気を抜くとそうしている。加えて、ケンや他の１年がどんどん実力を上げてきていることが、成の気持ちを不安にもさせていた。
笠間はふうと溜息をついた。
「謝るよりも、頑張ってほしいんだ」
「はい、すみませ…。頑張り、ます」
そうは思っているのだが、でも…。
「何かあったのか？」
心配そうに聞かれて、慌てて成は首をふる。
「いいえ。何でもないです」
まさか、萌子のこととは言えるわけがない。
少し赤くなった成を見て、笠間はゆっくりと腕組みをした。
「なるほどプライベートなことか。恋の悩みか」
「えっ？！」
言い当てられた成が、驚いて笠間を見ると、その反応に更に驚いた笠間と目が合った。まずいと俯いた時は遅かった。
「冗談のつもりだったんだけど、当たったみたいだな」
そう言われた成は、ますます顔を赤らめた。ハハハと笑った笠間さえ、一瞬何も言えなくなるくらい素直すぎる反応だった。
笠間はバシッと軽く成の背中を叩くと、こう言った。
「ま、頑張れよ。両方とも」
萌子から司との話を聞いた理香は、決意を固めると、グランド整備をしている和美に声をかけた。
「北内君。これ、美都に渡しておいてよ」
差し出されたのは、ピンクの花柄のタオルで、そのかわいらしさに和美は顔をしかめて、受けとらずに答えた。
「何で俺が」
そして、理香を無視して黙々と作業を続けようとしたとき、持っていたトンボの柄に、理香がポンとそのタオルを置いて早口で言った。
「あたし、仕事があるの。じゃ、お願い」
おい、と和美が言っているのが理香にも聞こえていたが、知らないフリをしてグランドを駆けていった。
美都が和美に無視されることは、今日も続いていた。美都はますます落ちこみ、元気もない。司の話は萌子と話して、美都には言わないことになった。
まったく、美都ってばどうしてあんな男が好きなんだろう。早く忘れた方がいいのに。それに、萌子と成くんの恋を早く実らせられるよう、少しでも美都の方 を早く片付けなくては。だいたい、美都のことがなくても、萌子は人の心配ばかりで、自分のことはどうでもよくなってるんだから。
そう思った理香の、作戦だった。
ひとつの仕事を終えて、理香は安心感と満足感を味わいながら、ふとこれが成功するのかと考えた。
けどまさか、あそこまでされれば、美都に渡すしかないでしょ。それでも、話しかけないんだったら…。
理香はそこで、ふと足を止めて考えた。
だったら、そう。それだけの男ってことで、美都も気持ちが整理できるだろうし。
「おいっ、小池」
立ち止まった理香に、もう１度声をかけた和美だったが、再び理香は歩き出した。和美は舌打ちして、手にしたタオルを見つめた。
「今ので２３回目だ。溜息」
救急箱を片付けて、立ちあがろうとした時に声をかけられ、美都が顔を上げるとそこには優しく微笑む湊が立っていた。そして湊は、ゆっくりと美都の正面に座る。
「何かあった？」
優しい言葉をかけられて、美都は思わず泣き出してしまいそうになる。
あのね、と話そうになって慌てて口をつぐむ。何でもかんでも人に頼ってしまうから、自分はしっかりできないのだと気づいたはずなのだ。美都は無理やりに笑顔を作った。
「何でも…ないの。明日準決勝でしょう。ちょっと緊張しちゃてて。もし、勝ったらインターハイに出れるし、そうなったら、もっと仕事ちゃんとしなきゃって」
言いながらも浮かんでくるのは和美の後姿だった。無視されるのは相変わらずと耐え忍んでいたのだが、今日のことはさすがに堪えた。偶然なのだが、荷物を かかえて前が見えなくなっていた美都は、誰かとぶつかった。転んでからそれが和美だったことに気づいたのだが、和美は美都を怒鳴ることもなく、無視して さっさと歩いていった。ごめんなさいと言ってみたけれど、何の反応もなかった。すぐに近くにいた厳己が荷物を拾ってくれたおかげで、美都は何とか泣かずに すんだ。
しかし、そんなことがあったとは知らない湊は、笑って答える。
「やる気は決勝まで保ってよ。確かに２位でもインターハイには出れるけど、狙ってるのはインターハイの優勝なんだから」
「そう、だね」
考えながらも、美都は潤んでくる自分の目に気づく。それを必死に堪えていると、湊が立ちあがった。
「無理しないで、肩肘張らずにお互い頑張ろう」
「…うん」
「おつかれさま」
トンボを片付けようとしていた成は、明るく萌子に話しかけれて、ドキッとしながら同じように返した。ドキッとしたのは、それまでどうやって萌子に話しかけるかを考えていたからだ。
「おつかれ…」
気づけば周りにはもう他に部員もいなかった。萌子は心配そうな表情を見せる。
「最近どうかしたの？集中力がちょっとないみたいだけど」
チームもＡかＢかの境目まで落ち込んできた成のことが、萌子は気になっていた。
「あ…、うん。何でもないんだ」
「相談にのれることがあったら、いつでも言ってね」
成の心など知らない萌子がそう答える。成は笑顔で答えるしかなかった。
「サンキュ」
話はそこで尽きたように、一瞬お互いが無言になってから、思い出したとでもいうように、同時に二人が言った。
「あのさ」
重なり合った声に、二人はお互いの顔を見つめるだけだ。
「何？」
「沢木こそ」
「早坂君からどうぞ」
「いや…。レディファーストだよ」
そう？と萌子は言いながら、明るい声を思いきって出した。
「明日の試合、百合も応援にくるのよ」
こうして周りの部員がいない時を見計らってきたのも、それを伝えるためだった。百合が今度こそ試合後に成と会いたいというのを、遠征だし、準決勝だし、時間がないと思い切って萌子が伝えると、百合はせめて自分が行くことだけでも伝えてほしいと言ったのだ。
思いきって萌子が言ったわりに、成の反応は無いに等しかった。
「そう…」
息を吐き出しながら成は自然にそう答えた。萌子は一瞬成に好きな人がいるのかを聞こうかと考えたが、すぐに止めた。
いつまでも黙り込んで、その続きを言わない萌子に向かって、成は平然とした表情で問いかけた。
「それで？」
戸惑ったのは萌子の方だ。
「あの…。それだけ、なんだけど。早坂君は？」
次に戸惑ったのは成の方だった。
萌子に話しかけようと思っていたのは確かだが、しかし何をはなすというわけでもない。ただ、知朗とさっき話しこんでいたことが気になっていただけなのだ。
何を話していたんだろう。もしかして、沢木は付き合うことにしたのかもしれない。そうでなくても、知朗がデートに誘ったとか。
だから、何を話してたんだ。と、そう聞きたかっただけなのだ。けれど、そんなことは聞けない。第一、何故？と聞かれて答えに詰まるのは成のほうだ。
「俺？俺は…、今度は知朗残念だったなって」
何とかそう言った成は、萌子の反応を見る。
明日の準決勝のスタメン発表で、知朗はついに太田にその座を奪われ、サブになった。その後なのだ。萌子が知朗を励ますためにか声をかけていたのは。
二人は笑顔で話をしていた。ぜいには入っていけない雰囲気があった。だからこそ、気になってしまっていた。
いったい、沢木はどんな言葉で励まして、それに知朗はどう答えたんだろうか。そうおもうと成は二人から目を離せなかった。
しかし萌子はあっさり答えた。
「そうね。でも、知朗は俄然やる気が出てきたみたい。さっきそう宣言してたから」
その答えに、成はどれほど安心しただろう。しかし、成はその気持ちを隠すように答える。
「ふーん」
興味のないような答えが返ってきて、首を傾げたのは萌子だった。
「それで？」
安心しきっていた成は、またも戸惑う。
「いや…。それだけ。なんだけど」
静まり返ったグランドで、二人はお互いに自分が何を言いたいのかを考えてしまった。
「あの二人、結構いい感じだろ？」
自慢げに言われたケンは、うんうんと頷いた。
「成と萌子か。なるほどな。けど、あっち、見てみろよ」
ケンの指す方向には、しゃがみこんで話している湊と美都がいる。
「あっちもいい感じだろ」
「けど、椎名は北内のことが好きだったはずだけど」
確かに理香はそう話していたと篤志は思った。そしてそのことは、ケンにもばれているはずだと。
「北内ねぇ。俺は湊の方がいいと思うぜ。だって北内ってつかみどころねぇし、すぐ切れるし、自分勝手だし。椎名みたいなおとなしー女ってのはさ、湊みたいな優しい男の方が似合ってると思うぜ」
「まぁ…な」
言われてみて、篤志も納得をした。どうみても、美都と和美が一緒に歩くイメージは浮かんでこない。が、相手が湊だとすぐにイメージできるし、美都が仲良く会話する男といえば、篤志には湊しか思い浮かばなかった。
「俺、思ったんだけどさ。椎名ってもしかしてあいつ追いかけてサッカー部来たんじゃねぇの？うちの部のことどころか、サッカーのことも全然知らないみたい だしさ、どう見たってマネージャー似合ってるとは思えないだろ？彼の側にいたいのっ、そのためなら何だってするわっ、ってタイプだろ？」
ケンは両手を合わせて上目遣いで空を見上げる。
中学時代、バレー部のマネージャーをしていたという美都だったが、美都の中学では部活動が義務付けられており、またバレー部に部員は１５人いて、マネージャーはなんと９人もいたというのだ。ケンの理想とする形だ。そして、つまりは、ほとんど仕事はなかったということだ。
確かに、朔哉のことも知らなければ、オフサイドも知らず、ましてや初めは何人で追うレーするのかも知らなかったことからずれば、ケンの勘は外れているとは思えないような気がした。
「…ありうるかもな」
だろーと言って、ケンは両手を握り締めたまま、篤志にウインクした。ふぅと溜息をついて、それよりさ、と篤志は切り出した。
「女の子ぶりっこする真似やめてくれよ。気持ち悪い」
「なんだとっ」
冗談で掴み合う二人を尻目に、足音がひとつ、遠ざかっていった。
フェンスの隙間から、百合はグランドを見つめていた。下校時間はとっくに過ぎていて、教室にはいられなくなった百合はこうして外に出てきたのだ。今、百合の視界には、萌子と成が映っていた。
だって、あたしが言ってって言ったんだから。
百合はそう思いこもうとした。七夕まで２週間もなかったのに、百合はなかなか成と話しができずにいた。萌子の話によれば、七夕の日は午前中で練習が終わるという。けれど、成の予定が埋まっているのかも百合にはわからない。
早坂君にとって、あたしはどんな存在なんだろう。
ただ同じ学校の子？それとくらいは気になる存在？それとも、やっぱり萌子の友達？
「早坂君って好きな子いるのかな」
今日の昼休み、思わず呟いた言葉に萌子は一瞬の間を置いて答えた。
「聞いて、みようか？」
萌子が自分からそう言うのは珍しい。百合は頷こうとして、はっと気づいた。
もし、萌子が早坂君に聞いたら、もし早坂君が萌子のことを好きだったら、きっと早坂君はこう答える。君が好きなんだって。
「いい。聞かなくていい。そういうことは、自分から聞きたいの。それに、いてもいなくても、好きな気持ちに変わりはないから」
百合の言葉を聞いた萌子は、そうだねと答えた。
信じよう。そう百合は決めたのだ。萌子が言っていた通り、早坂君は萌子にとってただの部員。友近君や藤原君を呼び捨てにしてるのに、早坂君だけ名字で呼ぶのだって、それほど仲良しじゃないってことなんだから。
そうだよね、萌子。
百合はぐっとフェンスを握った。
「和泉」
部室で着替えていた和美は、ごった返している１年の中で、入ってきた湊を見つけてそう呼びかけると、イズミ湊と、川瀬イズミが同時に振りかえった。
「湊、厳己、どっち？」
親切にそう口を開いた篤志に視線を向けた和美は、もう１度言った。
「湊」
その一言で、その場が何となく和んだ。
今まで和美は部員の中で、微妙に浮いた存在で、輪の中に入ろうとしなければ、特に親しい友達もいなかったのだ。
「何？」
湊が温かい笑顔で和美の横にやって来る。和美は着替えの上に置いていたタオルを湊に投げつけた。緩やかに投げられたタオルを受け取った湊は、それが女物であることに気づく。
「椎名に渡しておけだってよ」
「けど、どうして俺に。北内が渡せ−」
湊が最後まで言い終わる前に、和美は自分の荷物を持ち、さっさと部室を出ていった。
さよならも、おつかれも言わずに出ていく和美を見て、ケンが言った。
「なんだ？」
部室を出たところで、和美は苛立たしさを隠しきれずに落ちていた小石を思いきり蹴り上げた。自分の頭の中に自然と浮かんでくるのは、美都の笑顔だ。その笑顔の先には、必ず湊がいる。そして同じように湊も微笑んでいるのだ。
椎名みたいなおとなしー女ってのはさ、湊みたいな優しい男の方が似合ってると思うぜ。
理香から渡されたタオルを持ちつつ、仕方なく美都を探していた和美の耳に聞こえてきたのは、グランドの隅で自分の悪口を言っているケンと篤志だった。腹立 たしくなって、殴りかかってやろうかと思ったときに、このせりふが聞こえてきたのだ。二人が見ているのは、仲良く話しこんでいる美都と湊だ。それが見えた とき、和美は二人に声もかけずに部室に直行していたのだ。いた脱気持ちを抑えることもなく、着替えを済ませた和美は自分の心にこう結論を出した。
あいつらのことに、俺は関係ない。関係ないんだ。
しかし気づくと、また足もとの小石を蹴り上げることで、気持ちを落ち着かせようとしている自分がいた。