Maybe Blue 第一章 海の鼓動
春興2
放課後、グランドに現れた萌子を見つけ、篤志はホッとして、そのままじっと見つめて、ストレッチをしていた。
すると突然、頭を叩かれた。
「ってぇ。…理香」
そこには二つに髪を結わえて、少し怒った幼なじみの顔があった。篤志は立ち上がり、その時理香がジャージ姿であることに気付いた。
何やら用紙のような物を持っている。
「お前、何してんだよ。マネージャー希望なら、見学してろよな」
「残念でした。あたしはもう決まったの。監督がそう言ったのよ」
小池理香は、幼稚園の頃からの篤志と付き合いがある。当然凪浜高校サッカー部にも係わりは強く、中等部でもサッカー部のマネージャーをしていた。篤志が小さい頃から凪高でサッカーすることを夢見ていたように、理香も凪高でサッカー部のマネージャーをすることを夢見ていた。
理香は突然、篤志の隣にしゃがみこんで言った。
「どうして昼休みの部室掃除、来なかったの。皆やってたんだよ、そりゃ強制じゃないけど」
篤志は一瞬の間があってから答えた。本当のこと、つまり萌子にマネージャーになる方法を教えていたとは言えなかった。
「…用事があったんだ。そう藤原に言っといたからいいだろ」
ふーんといって、篤志の顔をしばらく覗きこんでいたが、すぐに理香は立ちあがった。そしてグランドを見まわす。
「ま。いいけど。それにしても集まったなあ、部員も、マネージャーも」
入部希望者は、初日で部員百二十人、マネージャー四十人という久子の予想を上回っていた。
「で、お前の持ってるその紙はなんなわけ？」
篤志はさっきから気になっていることを聞いた。
「マネージャー志望の子に、名前とクラス書いてもらうの。あ、あの子。沢木萌子でしょ？」
ふと理香がそう言って、萌子の方を指す。篤志はそんな理香に気付かないように、せっせとストレッチに励んでいる。
「なるほど、噂通りのかわいい子だね。教室まで見に言ったかいがあったでしょ？アッチ」
「うん…、ってお前誰がそれ…」
正直に答えて、ハッと篤志は気付く。理香の顔はしてやったりの顔になっている。
「ひーちゃんと仲いいんだってね。いい子だって言ってた」
篤志は無言のまま黙々とストレッチを続ける。そんな篤志を見ながら理香は言った。
「それじゃ、あたしは名前聞きついでに、沢木さんと友達にでもなっておこっと。アッチはちゃんと練習やってなきゃだめだよ」
篤志は理香にアッカンベーと舌を出しながら、ふとその先に見える萌子が気になった。
理香に言われたとおりだった。七組にかわいい子がいるというので、篤志は出かけていった。一応右京に用事があるという面目で。
そして教室に顔をのぞかせて、探そうと思ったときに久子を見つけ、手を上げた時、振り返ったのが萌子だった。篤志はドキッとした。さりげなく萌子の隣に立ってはいたが、鼓動は早まっていた。
彼女がマネージャーをやってくれれば。
だから久子の頼み事を、篤志は快くというより積極的に引き受けたのだ。
萌子はグランドにやってきて、篤志に言われた通りにセンターラインの近くに立った。そこには十五人くらいの女子生徒が立っていた。萌子は篤志に言われたことを思い出す。
「練習は一年生は四時から。だからその時間にはグランドにいること。監督は時間にうるさいから。それから立っている場所だけど、絶対にゴール裏はだめ。あそこは選手を間近で見れるけど、練習を見るのには向いてない。センターラインのところがベスト。それから、ここがまず重要なポイント。絶対に友達と来ない こと。一人で自分の意志で行動できないようなら使えないって監督は判断するんだ」
萌子は篤志が説明を始める前に、ずっと思っていたことを話した。
「久子の気持ちは嬉しいけど、やっぱりよくないよ。なんていうか、カンニングしてるみたいな気分」
「萌子の気持ちもわかるけど、たった三日間で決まるんだよ。三日で人間の本質なんてわかりゃしない。萌子がただのミーハーだと思われることもある。とにかく聞いて、納得できなかったら自分の思うようにやればいいよ」
加えて篤志も言う。
「それに沢木さん。監督は基本的に女の子のマネージャーは取ったことがないんだ。そこからハンデがあるんだよ。それに選手権の騒ぎで、相当ファンには怒ってるし、もしかしたら今年も取らないかもしれない」
「今年もって…」
「今のマネージャーは男の人だよ、三年生の。去年も希望者はいたけど、結局監督が落としたんだ。十八人」
十八…。
「それからサッカー部は仮入部が本入部と同じ扱いになるんだ。途中人部も基本的に見とめていない」
入試よりも難しいと思っている萌子に久子が言った。
「三日間が勝負なんだ。それに聞いたからって、皆が皆入部できるわけでもないんだよ。要するに、本人次第なんだ、結局のところは」
「入部希望者の人は、これに名前とクラス書いてください」
そう言いながら理香の渡したノートに、女の子達がわいわい言いながら書いていく。そうして萌子のところにもやってきた。
名前、クラス、経験の有無、他のクラブの見学の有無。
「名前を書くのは特に問題無いけど、他のクラブの見学は無しにして。後で口で聞かれるだろうけど、サッカー部一筋だって答えればいい。字は丁寧に。監督は丸字嫌いだから」
篤志の言葉を思い出しながら、つくづく厳しい先生だと思いながら、萌子は名前を書く。
「ひーちゃん、元気？」
ふと理香に声をかけられて、萌子は戸惑う。初めて見る女の子だったからだ。それに、格好からしてサッカー部の一員のようだが、篤志によれば女のマネージャーは取ったことがないはず。
不思議そうな萌子に、理香は笑顔で言った。
「小池理香。久子の友達」
それで萌子も思い出す。ひまわりがよく似合いそうだと思った。
「ああ、日比野君の彼女」
途端に理香は顔を赤くする。
「ひーちゃん、そんなこと言ったの？やだなぁ、あたしとアッチはただの幼なじみなのに」
萌子はすべて書き終わって、ノートを理香に返す。
「小池さん、部員なの？」
「理香でいいよ。まだ、部員じゃないけど、あたしもマネージャー志望なの。あんまりにも入部希望者が多いから、手伝いに回されたんだ」
そういうと、理香は手を差し出した。
「よろしくね、萌子」
「こっちこそ、理香」
二人は固く握手をした。
陽は落ちかけていた。グランドは暗くなり始め、そろそろ練習が終わる時間だった。気がつけば、マネージャー志望の女の子は、萌子ともう一人しかいなかっ た。その子は一人でやってきていた。大きな瞳で、じっとグランドを見つめていたが、時々振り返ったりもしていた。萌子と目が合うと、微笑には応じた。他の女の子のうち半数は、練習が始まって３０分くらいした時に、お目当ての選手がいないことを聞かされて、グランドを出ていった。優勝メンバーで今年も残った 部員の何人かは、監督共々今は高校選抜のメンバーとして海外遠征に行っているのだった。加えて選手権での活躍でスター選手となった福山朔哉が、その日は足 の具合により練習に不参加ということを聞くと、ほとんどの人間が帰ってしまった。つまりほとんどのマネージャー志望の女の子達は選手目当てだったのだ。
萌子は篤志の言葉を思い出した。
「練習は最後まで見ておくこと。初めの一時間くらいじゃその日の練習の目的がわからないから。最後のミーティングまでいた方がいいよ」
そして萌子の目の前では、ミーティングが始まっていた。不在の監督に代わって、コーチが中心となっている。ありがとうございました、という声がして、萌子はミーティングが終わったことを知った。
「マネージャー志望の子、だよね」
ふいに声をかけられた萌子は、先ほどからの様子でその人がマネージャーであることに気付いていた。その人はもう一人の女の子も呼ぶ。
「マネージャーやってる、三年の笠間」
「沢木萌子です」
「椎名、美都です」
「うちの部は厳しいよ。朝錬は毎日だし、休みは基本的に週一回、月曜日。土日はたいてい遠征にいくからお金もかかる。練習も夜遅くまでやってるし、内容も厳しい。マネージャーも楽じゃない。今だって、ニ・三年だけで七十人近くいるし、一年もこの様子じゃ、大人数になる」
「わかってます、頑張ります」
「何か聞きたいことがあれば、僕に聞いて欲しいのと…。とりあえずはそんなくらいかな。君達はどうも、朔哉のファンではないみたいだね。誰のファン？」
「凪高です」
萌子が胸を張って答える。笠間はちらりと萌子のほうを見て、それからその答えを流すようにして言った。
「そう。それじゃ今日は帰っていいよ。あと二日、見学期間はあるけど、他に気になる部があれば見てきていいよ」
そして笠間はグランドを出ていく。
ふうと萌子がため息をつき、自分が緊張していたことに気付いた。そしてグランドをあとに、自分も帰ろうと思っている、理香が声をかけてきた。
「ねえ、二人とも。一緒に帰ろうよ」
理香はすでに美都とも友達になっていた。
「ちょっと待ってね。カバン持ってくるから」
理香はそう叫んで走っていく。萌子は美都を見た。美都はおとなしく清楚な女の子という印象だった。にっこり笑うと、笑い返してくれる。
「あっ」
突然美都が声をあげる。自分のカバンをグランドの隅に置いたままであることを思い出した。
「取ってくるから、ちょっと待っててくれる？」
そういって美都はグランドに走っていった。ふと萌子の足元にボールが転がってきた。拾ったところで誰かがこちらに走ってくるのが見える。夕暮れも近づき、顔はわからなかったが、だんだんと近づくにつれ顔がはっきりしてくる。
「悪い、取ってくれる？」
相手はそう言った。少し下がり気味の目じりが優しそうで、笑顔が爽やかだった。萌子はえいっとボールを投げる。力が足りなく、途中で転がったボールを、彼は足で受け止める。ありがとうと言って、のぞく白い歯が、日焼けした肌によく似合っていた。
「がんばろうな、これから三年間」
え？と萌子がその言葉の意味を確かめようとしたとき、後ろから彼を急かす声がした。
「何やってるんだよ。早く片付けろ、早坂」
早坂と呼ばれた彼は、わかったと答え、もう一度萌子に言った。
「それじゃ。また明日」
萌子は思わず走り去っていく後姿に言った。
「お疲れ様っ」
彼は立ち止まり、笑顔を見せて戻っていった。
早坂君、か。
美都は自分が置いたはずの鞄が見当らずに困っていた。
どうしよ…。お財布も、定期も入ってるのに。
「おいっ」
その時ふてぶてしく、少し高めの声がした。振りかえった美都は、あっと言ってしまった。
「お前の鞄？」
そこには美都がサッカー部の見学にきた原因となった男の子と、ここにいる原因になった鞄とがあった。
彼は片手にトンボを持ち、もう片手にその鞄を持っていた。驚いて答えられない美都に、イライラして彼は強い口調で言う。
「これお前の鞄かって聞いてんだよっ」
「はっはいっ」
驚いて美都が答えると、すぐさま鞄が飛んできた。それを美都はなんとか受け取る。
「こんなとこに置いとくと、グランド整備の邪魔なんだよ」
「ごめんなさいっ」
そう言って、美都は一旦頭を下げると、ゆっくり上げながら彼の顔を見つめた．
確かに三日前の入学式の翌日に会った彼だった。去っていこうとした彼に、美都は言う。
「あのっ、ありがとう」
彼は素っ気無い態度で、振りかえりもせず走っていく。
三日間探して、ようやくサッカー部の部室に入るのを見かけて追いかけてきたのだ。
そうだ、名前っ。
「あのっ…」
言いかけた美都の声は小さすぎて届かなかった。しかしその時、美都は彼のジャージにかかれたイニシャルを見つけていた。
Ｋ．ＫＩＴＡＵＣＨＩ
キタウチくん。
「ありがとう。キタウチ君」
そう美都は呟いた。
あの時も、ありがとう。
美都が凪高を選んだことは、大した理由もなかった。ただ単に、自分の学力に見合い、家からも一時間以内の距離にあり、海が目の前にあって環境も、評判もいい学校だったからだ。ただ、それだけのことで、それゆえサッカー部のことなど考えてもいなかった。
入学が決まり、通学に海沿いを走る路面電車を使うことになった。人込みが苦手な美都は、ラッシュの時間を避けようと思っていたのだが、入学式の翌日は、 まさにピークの時間に乗ることになってしまった。その人の多さに酔いかけながら、あと五つで学校、あと四つ、あと三つ…と思っているうちに降りれなくなっ てしまった、そんな時だった。
ふと自分の足に触れている手に気付いた。
もしかして…痴漢？
それでも美都は思った。ただの自分の勘違いかもしれない。こんなに混んでいるんだから。手が当るのもしょうがない。
しかしその手は、執拗に美都の太ももの辺りをなで始める。
どうしよう…。
周りに美都の友達は誰もいなかった。一人で声を上げるほどの勇気も美都には無かった。そして車両を替えられるほど電車はすいてなく、また途中下車する時間の余裕もなかった。
どうしよう…。
美都が困り果てていると、後ろの方から声がした。
「おっさん、朝っぱらから痴漢してんじゃねえよっ」
ふてぶてしい高めの声が電車中に響く。皆の視線が自分の方に集まっているのを美都は感じた。
恥ずかしい…。
「私は何も―」
痴漢はそう何か言おうとしたが、駅に電車がちょうど止まり、ここぞとばかりに電車をさっさと降りてしまった。
よかった…。
美都はほっとしてお礼を言おうと思ったのだが、彼に向き直るには、美都は１８０度回転しなければならなかったが、その余裕はなかった。それでも何とか動いて顔を見たところで、電車は凪浜についてしまった。
「あのっ」
美都の小さな声もアナウンスに消されて、彼はさっさと電車を降りていく。
「あの…」
気がつくと凪高の生徒は皆電車を降りて、ドアが閉まりかけていた。急いで美都は電車を降りたが、彼の姿は見当たらなかった。
目がくりくりとした細面だった。胸の高鳴りに、美都は一目ぼれをしたことを知った。
サッカー部に見学に来たのも、本当は新しい友達が朔哉のファンで、美都も誘われたついでだったのだ。しかし、直前になってその友達が、用事があるから先に言ってくれと言った。仕方なく一人でやってきたところで、偶然助けてくれた彼を見つけた。少しでも近くで見たいと、ベンチの横にやってきた。彼はそこで ストレッチをしていた。見つけたとき、美都はよかったと思った。走ったり、飛んだりしてる姿を見て、嬉しくなった。やって来ると言っていた友達は結局来 ず、美都は何時の間にかミーティングの時間を迎えてしまっていたのだ。
去っていく彼の後姿を見ながら、美都は思う。
あたし、絶対にサッカー部に入る。