「どうなの、最近の果歩は？」
　土日の午後の渋谷。
　同期の茜とショッピングをした帰り、お茶をしようということになって、茜行きつけのカフェにあたしたちは入った。
　そこは駅からすぐのホテルのラウンジ。
　窓ガラスからは渋谷の交差点が見える。
「え？別に…」
　その前に何を茜が言っていたのかわからないあたしは、思わず適当な答えを返す。
　ここ最近の土日のあたしは、心ここにあらず、だ。
　そんなあたしを、くすくすと茜が笑う。
「最近綺麗になったって評判だよ。好きな人でもできたんじゃないの？」
「そんなこと−」
　ない。
　そう言いかけたあたしの視界に、ずっと頭から離れない人が過る。
　幻覚？
　でも次の瞬間、あたしの視界には、隣にいる女性までもが映った。
「あ。あれ。秘書室の大平さんじゃない？え？誰よ、あの隣にいる男」
　茜がそう思っても仕方ない。
　だって、先輩は、会社では絶対に眼鏡を外さない。
　眼鏡を外した先輩は、まるで学生みたいにかわいくなって、仕事をするには不便らしい。
　だから、プライベートでないと、それも心を許した相手でないと、眼鏡を外さないと、そう言っていたことがあるから。
　だから、あたしの前でしか外さないと、そう言っていたはずだったのに。
　あれ？と声を上げて、茜が言う。
「もしかして、朝倉さん？」
　朝倉先輩は、会社の先輩で、うちの会社ではある意味有名人だ。
　仕事ができて、クールで、かっこいい。
　ちなみに、先輩はあたしと同じ部署で、ちなみに金曜の晩御飯も二人で食べていた。
　本当に、ただ、ご飯を食べていたのだ。
　一方で、大平さんは、朝倉先輩の同期で、眼鏡の似合う美人だ。大平さんも有能な美人秘書として、会社では有名人だった。
　その二人が、仲良さそうにホテルのロビーから出てくる。
　茜が小さく溜息をついて言った。
「やっぱり噂は本当だったのか」
「噂？」
「あの二人が付き合ってるって噂。まあ、まさに美男美女カップルだしね」
　仲がいいことは知っていた。
　でも、このシュチュエーション。
　どう考えても、ただ仲がいいだけじゃない。
「それにしても、朝倉さんってば眼鏡外すと雰囲気変わるんだ。
　なんか、学生みたいで可愛いね」
　茜がそう言ったところで、ふとチェックを終わらせた朝倉先輩が、あたしに気づいた。
「大谷」
　そう呼んでやってくる前に、あたしは思いきり走り出していた。
「あ、あれ？果歩？」
　茜の声が聞こえる。でもあたしはそれも無視して、ただひたすら、朝倉先輩から逃げ出した。

　

　ここ最近ずっと待ち遠しかった月曜日なのに、今日は違う。
　家を出る直前まで、あたしはなんとか理由をつけて休みたいと思った。なのに、気づいたらもう会社で、もうデスクの前に座っている。
「おい大谷」
　聞きたくない声がする。
　あたしは気づかないフリをして、パソコンの電源を入れた。
「おい」
　その声がいくらか荒立っている。
　でもここは会社。朝倉先輩は、声を抑えて耳元で言う。
「お前、聞こえてるのか？」
「オハヨウゴザイマス」
　返事はしたけど、顔を背けたままのあたしに、先輩は溜息を浴びせると、気づかなかったように明るく言った。
「昨日、渋谷で何してたんだ？」
「先輩こそ、デートですか？」
　言った瞬間、まずったと思った。笑いを含んだ声が、後ろからする。
「大谷、やきもちやいてるのか」
「違いますっ」
　あたしは音を立てて椅子から立ち上がると、そのままいそいそと給湯室に向かった。


　
　先輩とは、誕生日も祝ってもらった。
　それから何度も二人でご飯を食べた。
　キスも何度かした。
　『大谷は俺のものだ』とも言ってくれた。
　でも、一番聞きたい『好きだ』は言ってくれない。


　顔を上げると、給湯室のガラスにあたしの顔が映った。
『最近綺麗になったって評判だよ』
　茜はそう言ってくれたけど、全然そんなことはない。
　全然、大平さんの方が綺麗だ。
「ふう」
給湯室で溜息をついたところで、いきなり先輩の声がした。
「やきもち焼く前に、質問すればいいだろ？」
「ひゃっ」
　驚きすぎて、手にしてたグラスが床に落ちて割れる。
「大谷、何やってんだよ」
「ごめんなさい」
　慌てて破片を拾おうとした瞬間、あたしの肘が、同じようにしゃがんだ先輩の眼鏡にぶつかって、割れたレンズが床にパラパラと落ちていった。


　怪我はなかったけど、朝倉先輩の仕事事情は相当変わってしまった。
　代えの眼鏡も、コンタクトも持ってないから、裸眼で仕事をするしかなくなってしまったのだ。
　でも、あたしは知ってる。
　先輩の裸眼の視力は、０．１すらない。
「そんなんで資料読めるのか？朝倉」
「まあ、何とかなりますよ。今日は重要な会議もないし」
「しかしだなぁ」
　眼鏡を外した朝倉先輩は、瞬く間に女子社員の目を引いた。
　眼鏡の奥に隠されていたその端正な顔が、はっきりと現れたのだ。少し幼くも思えるその可愛い顔立ちに騒いだのは、若い女子社員だけじゃなく、お局様たちもで、それにいつも騒いでいるバイトさんも一緒になって、まさにアイドル級の扱いを受けるようになっていた。
　困り顔の部長に向って、お局様の一人が手を上げる。
「あ、わたし。読んであげます。その資料」
　反対する猶予すらなく、お局様がその資料を朝倉先輩から取り上げる。だが、そこでうっと声を上げた。
「英語…」
　部長が大きく肩を落として、先輩に言った。
「だったら、秘書の大平が後で来るから読んでもらえ。彼女は英語がペラペラだったはずだ」



　　部長の言った通りに、先輩は別件でやってきた大平さんに書類のことを頼んだ。そして二人は応接室に入ったまま、もう一時間も出て来ていない。もうすぐ終業時間のチャイムが鳴ろうとしていた。
「なんか怪しいわよね、あの二人」
　隣の席の安西さんが言う。
「そういえば、日曜にホテルから出てきたとかいう話聞いたわ」
　その噂の元は、きっと茜だ。あたしは仕事をしてるフリをして、じっと聞き耳を立てる。
「でもねぇ。あの大平さんなら。仕方ない、かな」
「男だったら、大平になびかないヤツはいないって」
「朝倉くんと大平さんだったら、お似合いだものね」
「ほんと。羨ましい」
　聞かなきゃよかったと思っても後の祭だった。
　そんな時、内線がなって、あたしはすぐさま手を伸ばす。受話器から聞こえてきたのは、今は一番聞きたくない声だった。
「朝倉だけど。Ｂ応接にお茶二つ、頼む」



「大谷。疲れた。読んでくれ」
　持ってくるよう言われたお茶を二つ、テーブルに置く。大平さんは、席を外しているようだ。
「英語全然できませんから」
「俺がやってる仕事は、それだけじゃない」
「じゃ、それも大平さんに読んでもらえばいいじゃないですか」
「おい」
　先輩がこっちを見てるのがわかる。
　でも、ダメだ。見たら、言わずにはいられない。
　そのとき、ノック音が鳴ると、ドアから大平さんがコーヒーを二つ持って現れた。
「あら−」
「おい、大谷っ」
　その隙にあたしは応接室から逃げ出した。

　

　先輩は、大平さんのことが好きなんですか？
　だから、あたしに好きって言ってくれないんですか？
　だったら、どうしてキスしたんですか？
　答えのない質問だけが、生まれてはもやもやとした霧のようになり、あたしをがんじがらめにする。
　そうして、あたしは一番大事なことを忘れてしまっていた。


　それからしばらく、あたしは外で時間をつぶし、それからこそこそと会社に戻ってきた。
　やってきたエレベーターのドアが開くと、そこには大平さんしか乗っていなかった。
「あら。おつかれさま」
「おつかれさま、です」
　ひっそりと乗りこむと、何だかいい匂いがした。
　大平さんの香水かもしれない。
　ちらりと大平さんを見ると、長い髪は艶やかになびいていたし、すらりとした長い脚はタイトスカートから伸びていた。
　そしてその長い睫をくるんとカールさせた横顔には、余裕と自信が漲っていた。
　完璧だ、この人。
　落ちこんで俯いたあたしに、大平さんが話かけてきた。
「信じてないのね。彼のこと」
「あなたには、関係ありません」
「意地張っちゃって」
「意地なんか、張っってません」
「確かに大谷さんのかわいいところは、負けず嫌いなところだって彼言ってたけど、意地の張りすぎはかわいくないわよ」
　え？と思って大平さんを見つめると、彼女は眼鏡の奥の綺麗な瞳を少し細めて言った。
「私ね、朝倉くんのことが好きだった。ふられちゃったけどね。
　でも、悔しくて、日曜日は誕生日だからってレストランで食事をしてたの。それが、日曜の顛末。
　彼が眼鏡をしてなかったのはね。今朝のあなたと一緒よ。レストランのウェイター間違って眼鏡を壊してしまったの」
　あ、と声を上げると、大平さんは小さく溜息をついた。
「でも流石ね。彼、眼鏡がなくても、あなただけはわかったみたいだから」
　顔を上げると、大平さんはしなやかに微笑んでいた。
「頑張って」
　その余裕。
　その優雅さ。
　絶対。あたし。この人には勝てない。



　デスクに戻ってくると、朝倉先輩があたしの席にどっかりと座っていた。
　勤務時間を過ぎて、周りにはもう誰もいない。
「仕事さぼってどこ行ってた」
「…すみません」
「よし、罰として、今日の晩飯の予定、空けておけ」
「あたしより、大平さん誘ってください」
「大谷」
「だってあたしは、大平さんみたく美人じゃないし」
　朝倉先輩は、ふーっと大きな溜息をついて言う。
「大谷ってホント強情なヤツだな」
「何ですか」
「俺は、お前のが好きだって言ってるんだ。
　語弊ないように言うと、別にお前の顔だけが好きなわけでもない。
　確かに大平は美人だと思うけど、別に美人だから好きになるわけじゃないだろ」
「でも」
「だったらお前は、福山雅治が目の前を歩いてたら、一目ボレするのか？追いかけていって告白するのか？」
「それは…」
　言葉を詰まらせたあたしを見て、まったく、というようにまたも先輩は溜息をつく。
「好きな男が、お前のことを好きだって言ってるんだから、いい加減素直になれ」
「好きな…男？」
　そんなこと、あたし一度だって言ったことないのに。
　すると朝倉先輩は、時折見せる、あのいたずらっ子の笑みを見せた。
「悪いが、お前が俺を見ている以上に、俺はお前のこと見てるんだ。
　お前が誰を好きかくらい、わかる」
　言い当てられて、あたしは言葉をなくした。
　そして、それはあたしが忘れていた、いちばん大事な気持ち。
「…すごい自信ですね」
　当たり前だというように、先輩が強い視線をあたしにぶつけた。
「違うって言う自信、お前にあるのか？」
　どちらからともなく、あたしたちは体を寄せ合った。
「ありません」
　
　
　三戦全敗。
　結局、あたしは先輩にも、大平さんにも勝てない。
　でも、あたしは幸せだ。
　それは、あたしが無条件で好きと思える人に出会えたから。