「すみませんでした」
　今日、あたしと朝倉先輩はこのセリフを数え切れないほど吐いて、数え切れないほど頭を下げた。
　もともとは、あたしの仕事のミス。ようやく社会人になって１年間が過ぎようとしている頃。あたしは大きな発注ミスをした。納品の期限が迫っていて、あたし一人じゃどうしようもできなくなって、お目付け役の朝倉先輩が助けてくれた。社内でも仕事ができる男として有名な朝倉先輩も、冗談を言ってる余裕などなく、なんとか手配を済ませ、事態は収拾した。けれど先輩は、一安心する時間もなく、迷惑をかけた関係各所にあたしを連れて謝りまわった。
　その間、ミスについて、意地悪な朝倉先輩は何も言わなかった。
「ふざけるな」も、
「何をやってるんだ」も。
　それどころか、謝る先にも、
「こいつのせいで」とか、
「まだ新人なんで」とかもいわなかった。
　会社に入ってから感じたんだけど、オジサンたちって言った言わないとか、何でもかんでも相手のせいにして、責任逃れをしてるのに、朝倉先輩はすごく潔かった。
　とりあえず、先輩はいつもの冷静な表情のまま、謝り続け、大事に至らずに無事収束。そうしてようやく謝罪行脚をあたしたちは終えたのだった。


「ふぅー」
　デスクに戻ってくると誰もいなかった。もうそんな時間になっていた。
　朝倉先輩は、ネクタイを外し、ワイシャツのボタンを二つほどはずすと、眼鏡もはずして天井を仰ぎ、眉間に手を当て、目を閉じていた。
　朝からこのあたしのミスのせいで、先輩の机の上には書類が山積みになっている。
「…すみませんでした」
　素直に頭を下げると、先輩がちらりとあたしを横目で見て言った。
「ペナルティーだな」
　当たり前のことだ。
　先輩にミスを救ってもらったんだから、仕事の手伝いくらい、しなきゃいけない。
「…はい」
　あたしの返事を聞いた先輩は、眼鏡をかけると突然起きあがって、元気よく言った。
「よし、お前明日眼鏡かけてこい」
「は？」
　意味がわからずそう聞き返すあたしに、朝倉先輩はにやりと笑う。にっこり、じゃない。にやり、だ。
「持ってるだろ、眼鏡。お前目が悪いから」
「持っては、いますけど」
「よし、じゃ決まりだ」
　呆然としてるあたしの前で、先輩はそのにやりとした笑みを、少年のように乾いた笑いに変えて、くすくす笑いながら言う。
「皆驚くだろうなぁ」
「あの、どうして？」
「俺が見たいの。眼鏡フェチってやつ」
　はい？
　そう聞き返したかった。
　でも、もっとその前に、あたしは聞きたかった。
　あなたはあの、ニヒルで意地悪そうな朝倉先輩ですか？って。
　だって浮かべてる笑顔は、まるでガキ大将のような無邪気な笑みだったから。
　先輩は、声さえもまるっきり変えて早口に言う。
「あ、それからペナルティーだってことは、誰にも言うなよ。ほかのやつらに聞かれたら、『コンタクトが入らなくて』とか答えろ」
「あの…」
「すっげ、楽しみ。お前のこと気に入ってる第二の工藤課長にも言うなよ。あのおっさんも眼鏡好きらしいからな」
　そこまで言って、朝倉先輩は、本当に楽しそうに笑う。
「俺だけが知ってる、大谷の秘密。最高」
　自慢じゃないけど、朝倉先輩には誕生日も祝ってもらったし、
　それから何度か二人でご飯を食べることもあった。
　でも、こんな表情なんて一度も見たことがなかった。
　いつだって先輩は、ニヒルな笑みを浮かべるだけで、あたしは先輩の気持ちがわからなくてイライラしてるくらいだった。
　そんな時に、素直な笑顔を見せられると、本当にどきどきして困る。
　でも一緒に、その笑顔は、あたしの中のいやらしい気持ちを思い出させた。

　それは、今日の行脚でのこと。
　先輩は、何気に社内の女性に人気がある。平均以上のルックスで、有能でクールだから。
　ただ一人、そんなクールな先輩に、フランクに話しかけた人がいたのだ。
「大変ね、朝倉くん」
「ま、仕方ないから」
「相変わらず面倒見いいのね、見かけによらず」
　その人は、先輩の同期で、秘書の大平さんだった。
　大平さんは、いかにも美人秘書って言葉が似合う人で、あの朝倉先輩ですら、軽い笑顔を浮かべながら、掌で転がされるように話をしていたのだ。
　そのことをちょっとだけ、思い出して、ちょっとだけ、あたしは嫉妬をした。
「眼鏡の女性なら、秘書の大平さんがいるじゃないですか。彼女と先輩、仲がいいわけだし」
　それにあたしは、自分の眼鏡顔が嫌いだった。
　野暮ったさが、更に増すから。
　眼鏡は、おしゃれな人がかければ、もっとおしゃれに見えるけど、それ以外の人がかけると野暮ったくなる、おしゃれのバロメーターみたいなものだと思う。大平さんには似合うけど、あたしには絶対に似合わない。
　でも、朝倉先輩は引かなかった。
「俺は大谷の眼鏡が見たい」
　そう言われても。
「お前は絶対に眼鏡似合うぞ」
　そんなことありません。
　でも、朝倉先輩は、いつものワンマンっぷりそのままに、コートを羽織るとご機嫌な笑顔で言った。
「じゃ。明日な」



「珍しいね、大谷さんが眼鏡なんて」
　いつもと違うあたしを見て、隣の安西友江さんが話かけてきた。
「ええ、ちょっと。コンタクトが入らなくて」
　背中越しにくすくすという笑いが聞こえてきそうで怖かったけど、おそらくパソコンに向かって仕事している朝倉先輩の声は聞こえてこない。
「でもすごく素敵よ。似合ってる」
「ありがとうございます」
　いつもパリッとスーツを着こなしてる安西さんにそういわれると、あたしも素直に嬉しい。そこにさらっと第二の工藤課長が会話に加わってきた。
「本当だ。大谷くん。すごくいいよ、似合うね」
「どうもありがとうございます」
「あ、安西くん。これ経理に持っていってくれないか？」
言われた安西さんは、書類を受け取って、席を立つ。そこにいるのは、あたしと、工藤課長と、背中越しにいる先輩だけ。
　工藤課長はにやにやと笑いながら、さり気なくあたしの肩に手を置く。
　やな予感。
「君、今日の夜−」
「おい、大谷」
　あたしと工藤課長の間に入ってきたのは、朝倉先輩だった。
「はい」
　初めて正面から見たあたしの眼鏡顔。
　昨日あれだけ楽しそうにしてたのに、朝倉先輩はあたしの顔も見ずに、書類を投げるように手渡した。
「やっとけ。昨日の後処理だ」
　どさどさと、あたしのデスクに書類の山ができあがる。
　…ペナルティーって、眼鏡のことだけでしょ？


　エレベーターのドアが閉まる直前になって、大きな手がそのドアを止め、朝倉先輩がすべりこんできた。下りのエレベーターにはあたしと先輩の二人きり。
　しばらく続いた沈黙の後で先輩が言った。
「だから、言ったろ？似合うって」
　何が、だから言った、よ。
　無視無視。
「おい、無視するな」
「仕事中ですから」
　小さい溜息が背中越しに聞こえる。あたしはひたすら下がっていくエレベーターのランプを見ている。
「…ペナルティって、眼鏡だけじゃなかったんですか？」
「それは俺の個人的趣味。仕事のミスは仕事で返せ」
　あたしは思わず振りかえる。先輩は腕を組んで壁に寄りかかり、あたしににやりと笑いかけた。そこであたしはまたどきりとする。そしてそれに気づいて、悔しくなる。
「先輩って、絶対にSですよね」
「今ごろ気づくな。新人」
「でもって、二重人格者」
「尚更、気づくのおせーよ」
　また言葉が乱暴になる。
　会社での先輩は、きっとクールなオトナな男性。
　でも本当は、いたずらっ子のガキ大将。
　そして、あたしは先輩にとってはいじめられっ子なのだ。
　あたしはやっと気づいた。
　先輩の眼鏡は、その悪戯心を抑えるための、隠すための道具なのだ。
　ふと思う。
　あたしはどっちの先輩が好きなんだろう。
　眼鏡をかけた先輩と、
　眼鏡を外した先輩と。
「鈍感なお前に、言っておくが。俺は独占欲が強い」
　眼鏡の奥から、先輩の目が子供みたいにキラキラと輝いている。
　どういう意味ですか？
　思わずそういいそうになったのを堪えて、あたしはいい返す。
「ジャイアン、みたいですね」
　どういう意味かを聞いたら、あたしは先輩に負けるような気がしていた。
　ジャイアンと聞いた先輩はにやりと笑うと自信たっぷりに言った。
「ああそうだ。俺の物は俺の物。大谷の物は俺の物。それから大谷も俺の物だ」
　そういい終わるかどうかってところで、あたしは強く引きよせられた。
　そして避ける余裕もない早さで、あたしは先輩の口づけを受けていた。

　結局、眼鏡をかけていても、かけていなくても、
　先輩は先輩で。
　そしてあたしは、そんな先輩を確実に好きだと思う。

　二戦連敗。

　あたしは強く先輩の背中を抱き寄せていた。