「えー！典ちゃんこれなくなったの？」
　大きな声が駅前の噴水広間に広がって、周りの視線に気づいた私は慌てて口を押さえるとしゃがみこんだ。
　今日は、会社の同僚の人たちとの温泉旅行の日。
　同僚と言っても、私は同期の典ちゃんに誘われたクチで、もう一人の女の子メンバーである真菜ちゃんとも仲がいいけれど、典ちゃんが誘ったと言う営業の男の人三人とはほとんど話したことがない。
　もともと、中学校から短大まで、女の園で育ってきたから、男の人の免疫が少ない上に人見知りの性格。
　今回の旅行だって、行くかどうかも悩んでいたけど、同居しているお姉ちゃんに男の免疫をつけるためにも行くように命令されたのと、面倒見のいい典ちゃんがいるからって、行くことにしたのに。
　その典ちゃんが、来れない。
「ごめん、花。風邪ひいちゃってさ」
　電話から聞こえてくる典ちゃんの声は、完全に鼻声。熱も三十八度あるっていう話だから、旅行なんかしてる場合じゃないのはよくわかる。
　でも、どうしても典ちゃんに来てほしい理由が、今の私にはある。
「大丈夫、真菜がいるじゃん」
「それが真菜ちゃんもまだ来てなくて」
　そういうと、典ちゃんは真菜は気紛れだからなあと呟いた。
　確かに真菜ちゃんには、約束してたランチとか、飲み会とか、何回かすっぽかされたことがある。
　それでもひょうひょうとしているとことが、真菜ちゃんのいいところだけれど。
「…典ちゃん、あのね実は」
　その理由を説明しようとしたところで、くしゃみをした典ちゃんが私の声を遮った。
「うん、きっと真菜も来ないよ。
　前原さんには連絡入れておくからさ。今日は私も花も行けなくなっちゃったって。
　だから、花も今日は帰っていいよ。
　あー、私だって本当に行きたかったのに」
　私よりも真菜ちゃんよりも、典ちゃんが一番楽しみにしてたのは、私もよくわかってる。
　でも、今となっては、旅行に行かないとまずい状況なのは、私なのだ。
「あのね、のりちゃん―」
　その理由を言おうとしたけど、大きなくしゃみをしてまた典ちゃんが私の言葉を奪って言う。
「ごめん。花。ほんっとごめん。それじゃ」
「あのね―」
　聞こえてくるのは、ツーツーという空しい機械音。
　完全に電話は切れた。
　嘘でしょう典ちゃん。
　自分でも、顔が青ざめているのがわかる。
　顔だけじゃない。
　体中から、すっと熱が引いて行く感じ。
　どうしたらいいんだろう。
　しゃがみこんだままの私に、上から柔らかな声が聞こえてきた。
「えっと…、新垣さん？」
「あっ、はい」
「大丈夫？」
　心配そうに私の顔を覗き込むのは、旅行メンバーの一人、須藤希一さん。
　典ちゃん曰く、今うちの会社で密かに女子社員から狙われている男子社員らしい。
　ぱっと目立つ華やかさはないけど、確かによく見ると整った顔立ちで、物腰も柔らか。
　なるほど、と納得はする人だとは思うけど。
　何せ、ちゃんと顔を突き合わせるのも、話すのも今日が初めてという私にとっては、見惚れたりすることよりも、緊張が先に来る。
　そう、典ちゃんに言いたかったのは、このことなのだ。
　私がすでにここにきていることを、須藤さんは知っているってこと。
　そして、典ちゃんが連絡すると言っていた前原さんは、まだここには来ていないってこと。
　加えて言うならば、真菜ちゃんもそうだけど、もう一人男性メンバーの市川さんも来ていない。
　そう。
　集まったのは、私と須藤さんだけ。
　待ち合わせの時間を過ぎたのに、他のメンバーは来ない状況。
　しばらく待った後で、お互いが初対面に近い私と須藤さんは、この旅行を企画した典ちゃんと前原さんに電話をして確認をしようということになったのだ。
　その結果が…これ。
　私はくらくらする頭を押さえて、ゆらゆらと立ち上がりながら、今の話を須藤さんに話す。
「あの…それが…のりちゃん…じゃなくて、殿山さんが風邪で来れないって…」
「え？」
　柔らかな須藤さんの表情が少し強張った。
「…すみません」
　そう謝ると、
「いや、いいよ」
　と答えながらも、須藤さんの表情は曇っている。
　困ったなあというように、大きくて骨ばった手で顎のあたりを覆った。
「あの、前原さんは？」
　期待を持って私はそう尋ねる。
　前原さんとは何回か話したことがある。明るくて、面白い人。
　人見知りな私からすれば、前原さんのような人がいてくれるととても助かる。
　だけど、須藤さんは小さな溜め息の後で、言いづらそうにこう言った。
「あいつも、急にクライアントに呼ばれたとかで、その。
　いけないって」
「え？！」
　頭が真っ白になりかける私の前で、須藤さんの携帯が鳴った。須藤さんは着信を確認すると、
「あ、市川だ。ちょっと待って」
と言って、私から数歩離れて電話に出る。
　市川さんは前原さんほどじゃないけど、一応仕事で数回はやり取りがある。
　仕事はきっちりした人だったけど、寝坊したとかで遅れてるのかもしれない。
　真菜ちゃんも、確かに気紛れだけど、今日は、今日だけは来てくれるはず！
　何とか前向きに考えたところで、私の携帯がメールを受信する。
　そのメールを見たところで、私はもう一度、
「え？」
と声をあげていた。
　市川さんとの電話が終わった須藤さんが、くるりと振り返る。
「…ごめん、市川んとこ、いきなり両親が押し掛けてきて、東京観光しなきゃいけなくなって、行けないって。
　どうかした？新垣さん」
　携帯を持ったままで、完全に青い顔になった私に、須藤さんがそう言う。
「…実は、真菜ちゃんからもメールが来て…今日は、急用が入っていけないって」
　実際の真菜ちゃんからのメールは、
『ごめーん、実は今回の旅行で、メンバーに男もいるのが彼氏にばれて、行けなくなっちゃった。
　今度ランチでもおごらせて♪』
って書いてあったけど、そんな理由、須藤さんに言うわけにはいかない。
　というよりも、結果残されたのは私と須藤さんの二人だけ。
　初めて話す男の人と、二人だけで温泉旅行なんて…。
　どうしよう。
　行くのをやめるのは簡単かもしれないけど、そうできない理由が、私にはある。
　お姉ちゃんがどうして私を旅に行かせたのかというと、実は最近できた彼氏を家に呼ぶため。
　つまり、家に帰っても私は邪魔者。
　車がエンストしても、電車が動かなくなっても、野宿してでも家には帰ってくるなと言われているのだ。
　だったら友達の家にとも思うけど、就職の為に都会に出てきた私には、友達も少ない。
　典ちゃんは実家だし、真菜ちゃんはきっと彼氏とラブラブ中。
　お金だってそんなに持ってるわけじゃないから、どこかに一人で泊まるわけにもいかない。
　困ったな、どうしたらいいんだろう。
　両手に持った荷物が、いやに重く感じた時、それがいきなり軽くなった。
　えっと顔をあげると、須藤さんがその荷物を肩にかけていた。
「それじゃ、行こうか」
「え？」
　その意味を尋ねる前に、須藤さんは爽やかな笑顔を見せて言う。
「荷物トランク入れるけど、いいかな」
　どうやら須藤さんとしても、行きたくないわけじゃなさそう。
　少しずつ話し始めたら、何となく慣れてきたし、
　柔らかい雰囲気の須藤さんなら、二人きりでも何とかなりそうな気がした。
「は…はいっ」
　私はそう答えると、須藤さんが開けてくれた助手席のドアから、青い車に乗り込んだ。