Maybe Blue-第一部 海の鼓動
春興/1
「うわぁ、海だよ、海！キレー」
真新しい制服を着た高校生達は、一人が発したその一言に、一斉に走る電車の窓から海を見ようと顔を向ける。
家や建物の隙間から、ちらちらと光りが見え隠れしていたかと思うと、次の瞬間に広大な海が窓枠から外れて広がった。ほんの少し、歓声が上がる。
擦れてテカテカになり始めている制服を着ている高校生達も、何気なくその方向を見つめた。海は朝日を反射して、眩しいほどだった。青というより、黄金の海原だ。そして、春のまだ少し肌寒い中にいても、海の中ではサーファーたちが、穏やかな波に漂っている。
なんだか、トドみたい。
沢木萌子はそう思い、少し微笑んだ。歩いても登校できる場所に新しい家はあるのに、この電車が好きだからという理由で、入学式は特別乗ってしまった。
電車は「凪浜高校前」駅に着き、萌子も、一緒に乗っていた高校生たちもほとんどが降りる。小さな駅が、学生ばかりでごったがえしていた。
萌子にとっては、何もかもが嬉しかった。入学式という緊張感も心地よかったし、周りではしゃいでいる同級生となる高校生達も、海から直接吹いてくる強めの風も、その先にある海と同じ位にあおくて、晴れ渡った空も、学校へと向かう緩やかな坂道も、その両端で歓迎するように咲き誇っている桜も、すべてが嬉しかった。
もう2度も来ているのに、全部初めて見るものみたい。
萌子は、見えてきた校舎を眺めると、一度大きく深呼吸をして、校門を入っていった。
凪浜高校。
萌子がその名前を耳にしたのは、こともあろうに高校受験を2ヶ月後に控えた正月シーズンだった。
きっかけは偶然ついていたテレビである。
「萌子、ちょっと休憩したら？」
母親にそう言われて、広げていた参考書をしまい、リビングに出ていくと、そこでは何年前かは普通で、ごく最近では萌子の理想だった、お茶をいれる母親と、新聞を読んでいる父親の姿があった。そして、テレビでは、高校サッカーの試合が行われていた。
「寒いのに、元気ね」
母親はそう言って、萌子にお茶を出す。確かにテレビには単パン姿の高校生がグランド狭しと駆け回っている。
「帝王高校か、強豪だな」
「そうなの？」
萌子は父親に尋ねた。
「ああ。あそこは昔から強い。ニ回戦から帝王とは、相手もかわいそうにな」
父親がそう言ったとき、画面には帝王の相手選手の顔がアップになって映し出された。思わず萌子はその画面に釘付けになる。
口元を拭うユニホームが、見事なまでの青であり、そしてその選手の瞳には、どんなものにも屈しない強い光が浮かび上がっていた。拭っていた手が除かれると、そこにはキュッと引き締めた唇が現れた。頬にも頑固な強さが見られる。そして全身から溢れる闘志、自信、希望。
「凪浜高校…。なんだ、新しい家の街じゃないか」
新聞を見ていた父親がそう言う。萌子も聞き覚えがあった。
沢木家は高校入学と同時に、神奈川県凪浜への引越しが決まっていた。父・隆行が本社勤務となったのだ。凪浜は、海があり、夏には多くの観光客が訪れる。都心からはちょっと離れているが、出られないわけではない。萌子の凪浜に関する知識はこのくらいでしかない。そこに新たに高校の名前が刻まれた。
自分の部屋から高校の案内書を取り出し、凪浜高校というところで手を止める。
あった、私立凪浜高校。
萌子は部活紹介の欄に、サッカー部の名前を見つける。
強いんだ。
父親に呼ばれ、萌子が急いでテレビの前に戻ると、帝王が先制点を入れたところだった。
「やっぱり強いな。帝王は、今年も優勝か」
「そんなのわからないよ」
驚く父親に、萌子は続けていった。
「試合が終わるまで、勝負はわからないでしょう」
両親が顔を見合わせる中、萌子は強く願っていた。
だって、勝ってほしいんだもの。
そして、あのひたむきな瞳を思い出して、もう一度心で願う。
ほんの十分の休憩は、何時の間にか一時間になっていた。結果は2対１。凪浜の劇的勝利。
「それはそうと萌子、明日から大丈夫なの？」
母親に聞かれ、萌子は答える。
「大丈夫。けど、２，３日いるんだよね」
父親の挨拶と、新居選びとで両親は受験生の萌子に一人留守番させることにしていた。
萌子はどきどきしている胸を抑えて言った。
「あたしも行く。決めたの、この高校受ける」
中学の時とは違い、高校は新しいクラスメートたちのほとんどが顔も知らない。加えて萌子は高校からこの凪浜に来たために、知る顔など全くない。凪浜高校は、中等部からの持ち上がりもいて、そのグループはいっそう騒がしかった。
「へえ、それじゃあ萌子ってこっちに引っ越してきたばかりなんだ」
初めて萌子に話しかけてきたのは、大木久子という面倒見のよさそうな姉御肌の生徒で、持ち上がりである内部生の一人だった。しかし、その輪の中には入っていかなかった。
「馬鹿の集団みたいじゃない、見てるとさ。自分達は違うっていいたげで」
名前も「ちゃん」とか「さん」とか面倒だからと、萌子のことも呼び捨てで呼び、自分も久子でいいと言った。
久子は実際面倒見もよく、凪浜高校についてもいろんな話を聞かせてくれた。駅近くのハイブリのアメリカンドッグには、当りと外れがあるとか、学校途中の荒井屋のグラタンサンドは、妙な味がして、それは店長が甘党のせいだからとか、厳しい先生の名前、秘密の抜け道の場所とか…。
「部活、決めた？」
久子がそう聞いたのは、入学してから何日も経たない昼時で、二人は教室でお弁当を広げていた。
萌子は迷わず答える。
「サッカー部のマネージャーをやろうと思ってるの」
すると久子は驚いた顔をした。
「本気？」
「うん…。何か問題でもあるの？」
「大アリ。選手権で優勝なんかしちゃったからね。入部目当てで入学した男と、選手目当てで入学した女がそこらじゅう。選手志望は百人、マネージャー志望は三十人。少なく見積もってもそのくらいの入部希望者はいるね」
萌子は驚いて食べようとしていた卵焼きを落としてしまったくらいだった。
その時、突然教室ががやがやとうるさくなる。上級生らしき人達が教室に入ってきたのだった。
「おいでなすったか」
「え？」
「クラブの勧誘。三年の命令で、二年生が昼休みをつぶして勧誘に来るの。うるさくて、しつこいよ」
久子がそう言い終わった瞬間に、萌子は肩をたたかれた。
「ね、もう部活決めた？うちのテニス部楽しいよ。初めてでも先輩が優しく教えてくれるし、練習もそんなに厳しくないし。上下関係もあってないようなもんだし」
「ごめんなさい、部活はもう決めてあるんです」
萌子はそう言って、とりあえず話を止めた。黙っていればどんどん話を進めていくだけだと思ったからだ。
「何部？」
「サッカー部のマネージャーです」
サッカー部？と言ってから、その二年生は言った。
「あーやめやめ。あそこはきついし、厳しいし、辛いし、もう最低だね。マネージャーやりたいってんなら、テニス部でも受け付けてるよ。きみかわいいし…」
「それ以外はやりたくないんです」
萌子がそうはっきり言うと、残念そうにその二年生は去っていった。萌子はため息をついた。
最低なんてことはない。
その様子をみていた久子は、口に入れていたごはんを飲み込んでから聞いた。
「本気でやりたいの？サッカー部は本当に練習きついよ。休みも週一回。ないときもあるし、遠征もよく行くからお金かかるし、ニ・三年だけで七十人いる選手のくっさいウェア洗わないといけないし、朝練も毎日、午後も夜遅くまで。できる？全部、完璧に？」
萌子は力強く頷いた。
「部活の見学期間は、今日から三日間だったっけ…・」
久子はそう呟いた。見学期間が終われば、１週間の仮入部期間に入り、それが終われば入部という運びだ。
「協力したげる、萌子の入部に」
突然そう言われ、萌子は驚いた。
「それだけやる気があるんだったら、協力するよ。ちょうどいい知り合いがいるんだ。けど、あの噂が本当だったら、萌子はちょっと無理かもしれないけど」
「噂って？」
「かわいい子はマネージャーになれないって噂。萌子、かわいいから。あとは監督の好みってわけだ」
「わたしそんな…」
萌子が違うといいかけた時、久子は大きく廊下に向かって手を上げていた。
「グッドタイミング」
萌子が振りかえると、そこにはまだ幼い感じのする、かわいげのある男の子が片手にサッカーボールを持って立っていた。そして久子に気付くと笑顔でこっちに歩いてきた。明るくて、元気そうな男の子だった。
「アッチ」
久子はそう言って、アッチと呼ばれた男の子の肩を叩いた。
「どう？二組は？」
「まあまあかな」
「そんなこと言って、理香がいなくて寂しいんじゃないの？」
「うるせえよ」
じゃれあう二人を、ただじっと萌子は見ていた。どこかであったことのありそうな親しみやすさがあった。ふと久子は彼の腕をつかんで言った。
「ところでさ、実は折り入って頼みたいことがあるんだけど」
「いいよ、何？」
そう言いながら、彼の視線が萌子にあることに気付いた久子は、萌子を指して言った。
「沢木萌子。で、日比野篤志。みんなはアッチって呼んでる」
二人は簡単な挨拶を交わした。人当りのよさを萌子は感じた。
「萌子、マネージャーやりたいんだ。サッカー部の」
篤志は目を見開いて、萌子を見つめた。
「ほんと？」
「うん」
「沢木さんなら大歓迎するよ、まじで」
「あんたが審査するわけじゃないでしょう」
思いっきり笑顔の篤志に久子はそういっておとなしくさせた。
審査？と萌子は思った。久子はそこで声を潜める。
「あるんでしょ？審査方法。教えてやってほしいんだ」
篤志は少し悩んでいたが、顔を上げていった。
「ちょっと、待ってて」
そして教室の後ろに行き、一人そこでごはんを食べている男の子にサッカーボールを手渡すと、何か話をしていた。それを見ていた久子が呟いた。
「あいつもサッカー部なのかな」
藤原右京というその少年は、篤志と言葉を交わすことも無く、ただ話を聞いているようで、最後には頷いていた。
「もしそうだったら、マネージャー志望はあと十五人は増えるかもな」
萌子は右京の方を見た。
入学式、久子は右京を無口な美少年と呼んでいた。今は孤独な美少年に変わっている。右京はクラスで浮いた存在だった。まずそのルックスが飛びぬけてよかったこと。背は百八十はありそうで、手足も長く、体も引き締まって筋肉もついている。加えて顔は彫刻のように整っていた。その涼しげに整った目鼻立ちは、かっこいいというよりは美しいという形容詞があう、そんな品格も持っていた。そのルックスのせいであまり話しかける生徒がいないせいもあり、一人でいることがほとんどだったが、１週間が経とうとしている中で、それが本人の意思であることに周りは気付いた。
萌子はなんとなく気になっていたが、只の興味本位で他人の心に入っていくものではないとわかっていた。
「日比野君、サッカー部なの？」
「そ。小学校の時から。中等部でもね。ガキの頃からここでサッカーやること決めてたんだって」
「そんな前から」
「あいつの母さん、サッカー部の寮母してんだよ、それで監督とも小さい頃からのつきあいってわけ。知り合いでサッカー部の奴はもう一人いるんだけど、冷たい男だからな、高岡。それに理香はマネージャーの方だし」
「高岡君…と理香ちゃん？」
「高岡は中等部でキャプテンしてた男。マネージャーになれば、いずれ会うことになるよ。理香は中等部でマネージャーしてたんだ。篤志の彼女」
ちょうどその時、篤志が右京との話を終えて、戻ってきた。
「藤原もサッカー部？」
久子の質問に篤志は嬉しそうに答える。
「そう。あいつすごいんだぜ。中学選抜でさ、ユースにも選ばれたんだ。全国でも5本の指に入るゲームメーカーだぜ」
「なるほど、いい体してるわけだ。で、さっきの話の続きだけど」
篤志は周囲を見まわしていった。
「ちょっと他のところに行こう。もっと人がいないとこ」
そうして萌子たちは教室を出ていった。
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