「ただいま」
　サッカー部の練習が終わって、家に帰ってきた萌子は、疲れきった体を溜息と共にリビングのソファーにうずめた。 　
　インターハイも初戦敗退し、関東大会も四位だったために、全日本ユースにも出られない凪浜高校の目標は、三大大会の中でも、最も難関な選手権大会となっていた。
　しかも、インターハイのことがなくとも、昨年の覇者ともなれば、そのプレッシャーは相当なものである。そのせいか、ここ数日の練習は、とても張り詰めていて、見ているだけでも疲れてしまう、そんな状況だった。
　練習がそうなのだから、自然と部室も同じような雰囲気になっており、それが余計に疲れを誘うのだ。
　ふう、と溜息をついた萌子の耳に、ふとダイニングから陽気な鼻歌が聞こえてきて、萌子は起き上がり、料理をしている母親に声をかける。
「どうかしたの？」
「何が？」
　振り返って萌子を見つめる母は、無条件な笑顔を萌子に向けた。
「だって。すごく楽しそうだから」
「そうかしら？」
「うん」
　母親は、ジャガイモをむきながら、さらに鼻歌を続けた。萌子がじっとそんな母を見ていると、それに気づいたかのか、こう言った。
「それじゃ、あの花のおかげかもしれないわね」
　そう指指したのは、ダイニングテーブルに置かれた薄紫色の花であった。
「あのお花、なんていうの？」
「カンパニュラ。今日、日比野さんからいただいたの。かわいらしいでしょ？」
　サッカー部の寮母をしている日比野昌江は、花屋も経営している。
　鼻歌と共に、母親が萌子に尋ねた。
「練習、みんながんばってるみたいね」
「…うん」
「残念だったものね。インターハイ」
　周囲を期待を裏切っての初戦敗退は、応援していた選手の母親たちにも影響があったらしいことは、うすうす萌子も感じていた。
　昨年度の選手権で優勝したこともあってか、ここ凪浜では、サッカー部の試合のたびに町内会の人が、応援に来るほど、凪浜高校は人気だった。
「でも、今度の選手権があるわ」
　そう答えると、母親は穏やかそうに、そうねと答えた。
　萌子はテーブルに置かれたカンパニュラを見つめながら母親に話しかける。
「そういえば、お母さん。昔は全然家に花飾らなかったね」
　今にして思うと、家の中はおろか、庭にも花はなく、かろうじてつくろったような緑があるだけだった。
　　母親と二人のときですら、あったのはベランダにポトスが一株だけだ。
「そうだったかしら？
　　でも、そうね。お花って、いただく以外で、そんなに自分では買ってなかったかもしれないわ」
　実際、あのころ父親と別居を決めた母親は、そのかわりに自分と萌子を養うために働いていたのだから、家のことには構っている余裕がなかったのだ。
　今日ね、と母親が萌子に話しかける。
「日比野さんが言ってたの。お花が家にあるだけでね、雰囲気が和やかになるんですって」
　その時チャイムが鳴って、ただいまという父親の声が聞こえた。母親は少女のような笑みを浮かべて呟いている。
「お父さん、あの花に気づいてくれるかしら？」



　萌子が花瓶を部室に置いて、一息つくと、ドアが開いて湊と知朗が入ってきた。
「おはよー」
「うっす、萌子。あ？」
　萌子が置いた花瓶に気づいた知朗が目を細めている。
「おはよ、湊。知朗」
　湊もそれに気づいたのか、萌子の手元に視線を馳せた。
「何？萌子」
「何って花よ」
「花ぁ？なんか実みたいだぞ」
　そう言って、花びらを握ろうとした知朗から、萌子は花瓶を取り上げた。
「サンダーソニアって名前の花よ」
「ふーん」
　知朗は不思議そうに、その花をじっと見ている。
「でも、急にどうしたんだよ」
「こういうのもいいかなって。どう？」
「うむむ」
　答えに詰まっている知朗に代わって、湊が爽やかに答えた。
「いいんじゃないのかな。なんか、明るい雰囲気で」
「ありがとう」
　するとドアが再び開き、次々と一年部員たちが姿を現した。
「おはよう。あれ？なんだそれ」
「サンダーライダーだってさ」
「知朗ってば。サンダーソニアよ」 　



　休憩時間に入り、グランドから出たところで、どかっと腰を落とした柳田は、隣にやってきた笠間に言った。
「何なんだ、あの部室の花は」
「沢木が持って来たらしいよ。和んでいいと俺は思うけど」
　すると柳田は大きくくしゃみをして叫んだ。
「俺は花粉症なんだよっ」
　そしてまた大きくくしゃみをする。笠間ははははと笑ってタオルを柳田に投げた。
「けど、お前のってスギ花粉だろ？」
「でもさっきから鼻の調子が悪い」
「そりゃ、この時期だから、ブタクサだな」
「ブタクサ？」
　そして再びくしゃみをする柳田に、笠間は笑顔で答える。
「大丈夫。あれはサンダーソニアって花らしいから」
　その花の名前を聞いた朔哉が、少し離れたところで、呟いた。
「サンダーソニア…か」
　思い出す女の子は、園芸部のせいか、よく花言葉を知っていた。
　薔薇は情熱、百合は威厳。
　そしてサンダーソニアは。
「…祈り」
　その呟きが聞こえたのか、隣にいた俊平が朔哉に聞き返した。
「何？朔哉」
「いや、何でもない」
　その花を萌子が故意に選んだのか、花言葉を知っているのか、朔哉にはわからない。
　だが、もし萌子が花言葉を知って選んでいるとしたら、その祈りは、神に届けられるんだろうか。
　もし、俺が叶えられるものだったら、俺は何だってしてみせる。



　萌子がテーピングを取りに部室に入ると、中には成がいて、サンダーソニアの花に触れているところだった。
「あ」
　ばつの悪そうな表情を浮かべ、慌てて成はその手を離す。だが微かに、その花は揺れていた。
「どうしたの？成」
「うん。スパイクのひもが切れたから、新しいのにしたんだ」
　成はそう答えて、花を指して萌子に言う。
「この花、萌子が持ってきてくれたって」
「うん。どう、かな？」
「いいと思う。すごく、いいと思う」
　日焼けした肌に、真っ白な歯がのぞく。
　その笑顔を見て、萌子は安心した。
「ありがとう。そういってもらえると、嬉しい」
　実際に、何気なくだが、部内のあの異常な緊張感はなくなってきていた。
　だが、それは決して緊張感がなく、だらだらと練習をしているというのではなく、いい意味で力が抜けたと言えた。
「萌子の、おかげだよ」
「そんなと、ないよ。わたしは、ただ−」
「おい、成っ。監督が呼んでるぞ」
　ふいに外から声が聞こえてきた。
「わかった。それじゃ」
　片手を上げて、成は部室を出ていく。
　萌子もそれに答えて手を上げ、成の姿が見えなくなると、今度はその視線をサンダーソニアの花へと移す。
　花言葉は、祈り。
　萌子はそっと、目を閉じて、両手を胸の前で合わせた。
　どうか、神様。
　選手権で、優勝できますように。
　目を開けると、そこには昨年度の選手権で優勝した時の写真があった。

FIN

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