一週間で二度も、学校に姿を見せたってことでクラスはもとより、学校中がオレに視線を向けていた。でも、その中でもセンセはオレを無視するようにスタスタと廊下を歩く。流石に学校の中ってことで、似合わないハイヒールの耳障りな音はしない。
「だから、返せよ」
「返せってこれ、神楽君の携帯じゃないんでしょ」
　さっきからこれの繰り返しだ。
　昨日オレは、馴染みの店に、借りていた携帯電話を忘れていた。気づいて店に戻ると、なんとセンセが持って帰ってしまったのだという。連絡先を知るわけもなく、オレは学校に来るしかなかった。
　ああもうっ。
　オレは面倒になってつい話してしまった。
「オレのパトロンがオレに持たせたの。それないと、あいつも困るわけ」
　センセはぴたりと足を止めて、
「パトロン？」
　と聞き返した。
「藤村千代美。二十一のＯＬ」
　いつでに言えば、つい三ヶ月くらい前にクラブで逆ナンパされた。
　金もあるし、束縛しない、いい女だ。
　ごそごそとスーツのポケットを探ると、センセは千代美の携帯を見つめて、ぽつりと言った。
「いいわ、返す」
　変なとこでてこずらせんなよっ…って、おい！
　手を伸ばしたオレから、センセはするりと携帯をジャケットのポケットにもう一度戻した。
　返すっつったじゃねぇかよっ。
「ただし、条件があるの。今日の授業で最後に簡単なテストするから、それで七十点以上取りなさい」
　なんでそうなるわけ？その携帯は、センセのじゃねぇだろう？
「でも神楽君のでもないでしょ」
　…。たしかに。
「そ…だけどさ」
　なんて引いてしまったのがいけなかった。
「じゃ決定。範囲は千寿君とか蘇王君に聞いておいてね」
　足取り軽やかに、センセは廊下を歩いていく。
　…やられた。



「よく頑張ったわね」
　赤ペンを片手に、センセは笑顔をオレに向ける。
　放課後の職員室。
　他に先生はあまりいない。
「もとがいんだよ、元が。だから授業受ける必要がないんだ」
　はっはっは。
　これも千寿のカンペのお陰。
　まあ実力でやっても、そこそこ取れるだろうけど。
　だけど、センセはふっふっふと不敵に笑うと、解答用紙をオレにつきつけた。
「六十七点。残念デシタ」
　まじ？
「いいじゃん。三点くらい」
「駄目よ。この三点が、重要なんだから」
　畜生…。
　うなだれるオレに、センセはくすくすと笑うと、こう言った。
「明日から三日間、授業に出たら、免除してあげる。わかった？」
「うへー」
「返事ははいっ、でしょ？」
「はいはい。了解いたしました」
「じゃ、これ先に返しておくから」
　センセはそういって、携帯をオレに渡すと、立ちあがった。
　へ？もう返してくれるわけ？
「今約束してくれたでしょ。三日間授業に出ること。それに、いつまでも携帯なかったら持ち主だって困るだろうし」
　けど、明日からオレ学校来ないかもしんないよ？
「だから、ほら。約束っ」
　センセはそう言うと、オレに向かって小指を出してきた。
　まさか、あんな子供だましをするっていうんじゃ…。
「指きりげんまん嘘ついたら…」
　センセ、今年でいくつだよ？
　二十四じゃねぇの？
それでも、センセは満足そうに指切りをして、それじゃ明日ね、と職員室を出ていった。
　残されたのは、俺と千代美の携帯。
　女って、よくわかんない生き物だとは思ってたけど。
　名倉香苗は、それを上いく存在だ。



　それから二日間。オレはきちんと学校に通った。
　約束、しちまったわけだし。
　破ったら、本当に針を千本飲まされそうな気がしたし。
　どうせ暇、だったし。
　あと一日。明日でそれも終わり。
「神楽」
　馬木のジジの店で一人酒を飲んでると、ふいにジジが話かけてきた。
「んあ？」
　ほろ酔い気分のオレは、ごろんとカウンターに持たれかかって適当に相槌をうつ。
「俺なぁ、今まで好き勝手やってきて、ひとつだけ後悔してることがあるんだ」
「ん」
「勉強、もっとやっとくんだったってな」
　ぴくん、とオレは目を開けた。
　ジジの顔は真剣だ。
そういえば、バイトの文香が言ってた。最近、場違いな童顔の女が顔を出すんだって。
　最低だ。
　一気に酔いが醒めた。
　オレはおきあがり、ジジの顔を見つめなおした。
「…どういう意味？ジジ。オレに説教してるわけ？学校行けって」
　あのセンセに何を言われたってうんだよ。
「いつまでも逃げてるばかりじゃ、お前の為にならんからな」
　もう一度だけ、きちんとジジの顔を見つめなおした。
　ジジは視線を逸らさずに、オレの非難する視線を受けとめていた。
　そのとき、店のドアが開き、名倉香苗が顔を出した。
　オレは何も言わずに、その脇をすり抜けて、店を出ていった。


　また追いかけてくるあの、足音。
　耳障りなヒールの足音。
　何かを思い起こさせる、足音。
たまらなくなって、オレはまた振りかえった。今度は、センセも驚くことはなかった。
「いったいなんなの？あんたは？オレにつきまとってそんなに楽しい？ああそうか、オレのこと好きだったりするわけ？」
　酔っていて、足元が覚束ない。
　揺らぐ視界の中で、それでもセンセははっきりと言った。
「ええ、好きよ」
「嘘いうなよっ、偽善者っ」
　思わず電信柱に寄りかかり、思いきり叫んだ。
　でも、それでもセンセははっきり言った。
「多分、好きなタイプだと思うわ」
　くっくっく。
　笑っちまうね。
　たかが教師のくせして。
　単なる偽善者のくせして。
　ここまで聖者でいようとしてる。
　…その仮面、はがしてやろうじゃん。
「だったら、こんなことしても、いいわけだ」
　オレは思いきり手を伸ばした。その腕にセンセを掴まえる。びっくりしてるセンセを思いきり抱き寄せ、その顔に、その唇に、キスしてやろうと思った。驚かしてやろうと思った。
　抱き寄せた途端に、センセの甘い匂いがオレの鼻をくすぐった。
　そのとき、何かが変わった。
　驚いたのはオレの方だった。
　いつも、してることなのに。
　何人もの女に、してきたことなのに。
　オレは、ドキドキしていた。
　ドキドキしていて、引き寄せるのも、キスをするのも、どこか躊躇っている自分がいた。
　だから、キスはできなかった。
　あと少しで、止めた自分がいて。
　その瞬間に、頬を思いきり殴られていたから。


　仕事から帰ってきた千代美は、飲み会帰りのせいか、妙にテンションが高かった。
「かーぐーらっ、どうしたの？そのほっぺたは」
　そうして、くっきりと赤くはれたオレのほほをつつく。
「うっせー」
　結構いてぇんだから、触るなよ。
　そっぽを向いた俺に、それでも千代美は絡んできた。
「わかった。まぁた女でしょ？」
　意味は違うけど、女には変わりない。
　どうして女って生き物は、こう勘が鋭いんだろう。
「…やきもちか？」
「ううん、全然。だってここに神楽がいてくれるから、それでいい」
　千代美はそういうと、壁にもたれるオレを、そのままギュッと抱きしめた。酒と、香水の匂いがオレの鼻についた。
　でも、どきどきしない。
　何でだ？
「なあ、千代美」
「ん？」
　オレは、千代美の髪に、顔をうずめたままで言う。
「キス、してくれ」
　くすくすと千代美は笑うと、オレから体を離した。
「甘えん坊だなぁ」
　そして、額に、頬に、鼻に、そして唇に。
　千代美は音を立ててキスをしていく。
　それでも、どきどきしない。
　そのうちに、千代美はオレのシャツのボタンをひとつひとつ外して、その唇を首筋に、鎖骨に、胸元に落としていく。
　そっと、オレは自分の左胸に手を当ててみた。
　それでも。
　それでも、オレの心臓は、規則正しく鼓動を打つだけだった。


　
　ついに約束の三日目も、オレは来てしまっていた。
　しかも、一時間目がセンセの国語だったから、朝っぱらから。
「神楽っ」
「なんだよ、蘇王。馬鹿丸出しの笑顔浮かべやがって」
　昨日の今日で緊張してんのに、軽く話しかけるなって。
　それでも、蘇王はニコニコと笑顔をオレに向けた。
「嬉しいんだよ。神楽が最近学校に来てくれるから」
　それはっ。
　それは…。
「…きもいこというなよ」
　照れ隠しにそう言ってオレはそっぽを向く。するとガラガラとドアが開いて、一時間目の教師が入ってきた。ドキッとした心とは裏腹に、現れたのは四十過ぎた腹の出たおっさん。
「先生、名倉先生は？」
　誰かがそう聞いた。おっさんは、
「今日、名倉先生は風邪で休みだ」
とだけ答えると、さっさと授業を始め出した。



　学校で聞いた住所のところに行き、インターホンと押すと、すんなりとドアが開いた。
「あら、神楽君」
　化粧っ気のない顔。
　熱があるのか、少し赤い。
　センセは、ごくごく普通にそう答えた。
「見舞いに、来た」
「どうぞ」
　あんまりにも普通に、しかもあっさりと、オレはセンセの部屋に上がりこむ。
　しかも、センセの表情には、
　緊張、とか、
　戸惑い、とかが全くなかった。
　昨日のことなんか綺麗さっぱり忘れてるみたいに。
　オレは、こんなにどきどきしてるのに。
　キッチンに立って、コーヒーをいれ始めたセンセに、オレは思わず叫んでいた。
「お前馬鹿か？一人暮しの家で、パジャマ姿のくせに、男をすんなり入れるなんて」
　センセはコーヒーをこたつの上に置くと、自分のコーヒーを飲んで言う。
「男じゃないわ」
　長い睫が、頬に陰を落としている。
「子供よ」
　子供？
「悪いけど、俺もうとっくに女と寝たりしてるわけ。だから全然子供じゃ―」
「子供よ。そんなことで大人になれると思ってるところが、子供。
　いつまでも逃げて、大人のしたで庇われながら、粋がってるところが子供。
　だいたい、大人とか子供とか気にするところが子供」
　すらすらとセンセはそう言った。
　コーヒーの湯気の向こうで、ガキみたいな甲高い声で。
　それでも年上の、大人の女の顔して。
　悔しいけど、勝てないって、オレはそう思った。
　だって、センセの言ってることは、全部当たってるから。
　悔しいけど、センセはセンセだったから。
　悔しいけど、悔しいけど。オレは…。
　コトンとセンセはカップをこたつに置く。思わず顔を上げると、センセが真っ直ぐオレを見ていた。
「…でも、神楽くんはまだ十四歳。まだ子供なんだもの。普通のことよ」
　悔しいけど、悔しいけど。
　オレは、このセンセだったら、教えてくれる気がしていた。
　このどきどきの意味も。
　オレの、生きていく意味も。
「学校に、来なさい」
　センセははっきりと言った。
「子供には、子供のやるべきことがあるの。全てを学校で教えられないけれど、少しは助けてあげられると思うわ」
　子供のやるべきこと。
　オレにはわからない。
　でも、学校に行ったら、わかるのかな。
　わかったら、オレのやるべきことも、わかるのかな。
「偉そうだな」
　照れ隠しにそう言うと、にっこりとガキみたいな笑顔でセンセは言った。
「ええ。だって、先生だもの」



　いつか、
　今は無理だとしても。
　オレは絶対、センセに男として見てもらえるようになってやる。
　あと５年、いいや、２年後には必ず。
　今度はオレの運転するバイクの後ろに乗せて。