名倉香苗（ﾅｸﾞﾗｶﾅｴ）。
その名前を聞いたのは、多分千寿からだったと思う。
　新卒の教師が産休してる担任の代わりにやってきた。
　えらく頼りない。
千寿（ｾﾝｼﾞｭ）から聞かされる、ここ最近のトピックスのひとつだった。
　オレは、ここ三週間、学校にいってない。
　家にも戻っていない。
　じゃあ、何してんだって？
　女の家に転がり込んで、ヒモしてる。
　火狩神楽（ｶｶﾞﾘｶｸﾞﾗ）、これでも中学二年生。


「神楽」
　あぁ？と間抜けに返事をすると、千寿が真面目腐った顔で言った。
　こいつってば、いつだって眉間にしわ寄せてやがる。
　だから同じ年の兄弟だってのに、一度も同じ年にすら見られたことがない。
「帰ってこいよ。誕生日だし、蘇王（ｽｵｳ）もお前に会いたがってるし、みんな待ってるから」
　帰る？どこに？
「火狩の家に決まってるだろう？」
　すくっと立ちがると、オレは千寿が持って来た着替えを投げて言った。
「お前一人で帰れよ。あそこはオレの家じゃない」
　オレの十四歳の誕生日は、こんな感じで始まった。


　この先のことなんか、考えちゃいなかった。
　誰も信じられなかったし、
　世の中が全部嘘っぱちに思えていた十四歳。


　それでも、千寿と蘇王だけは特別だった。
　世界一顔も見たくない男の、愛人の子供。
　オレたちは、同年のクラスメートで、兄弟で、友達だった。
　それでも、顔も見たくないときだってある。
　


「ハッピー・バースデーッ」
　家出するようになってから知り合った、友人と呼べるほど仲良くもない奴らが、祝ってくれたバースディ・パーティ。名前をきちんと覚えてない奴も、どうしてここにいるのか知らない奴も、初めて見るような奴も、オレの誕生日を祝ってくれていた。無責任な集まり。今のオレには心地よい。
　そんな中で、明らかに知らない、でもって場違いな男たちが顔を出してきた。
「おい、火狩神楽ってのはどいつだ？」
　恰好はまさしく田舎のヤンキー三人組。リーゼントに、パンチに、坊主。
　そろいも揃って、ふっといボンタンなんかはいてる。
　ってか、こうゆう奴って、世の中にまだ存在するんだ。
「オレだけど」
　座っていた机から、ひょいと下りてそいつの前に行くと、ヤンキー三人組はオレを囲んで、顔をまじまじと見つめた。
「こいつが火狩神楽？」
「こんなガキが？」
　ガキ。
　確かに、オレはまだ未成年ってやつかもしれない。
　けど、身長だってもう１７５はあるし、こんな奴らにガキ扱いされる覚えはない。
「こんなガキになんか用？」
　むしゃくしゃしていた。
　ちょうどいいカモだ。
　オレは不安がる仲間に手を振って、溜まり場を出て、路地裏にそいつらを連れていった。
車のライトがパッと走りぬけ、暗闇に包まれたところで、その中の一人、初めにオレの名前を呼んだリーゼントがいきなりオレの胸倉を掴んで、叫んだ。
「お前、妙子に何したんだよっ」
　うげっ、唾飛ばすなよっ。
　だいたい、その汚らしい手で俺の体に触れるなっつーのっ。
　オレはあーん？と夜空を見上げて答える。
「妙子？ああ、あの女か。別に、つきあってほしいっつーから、一度寝ただけだよ」
「なんだとぉ？」
　何だと、も何もない。
　こっちがお願いしたわけでもない。
　あんたの女か知らねぇが、向こうからお願いされたんだ。
　逆恨みされる覚えもねぇよ。
　そいつが拳を大きく突き上げる。その後ろで、他の二人もそれぞれに戦闘体制に入っていた。オレも、こっそりと背中で拳を握り締めたその時だった。
「待ちなさいっ」
　甲高い声が響いたかと思うと、オレとリーゼントの間に何かが飛びこんできた。リーゼントは後ろに突き飛ばされ、慌てて仲間のパンチと坊主がそいつを抱える。
　でもってその勢いで、オレも床にしりもちをついた。同時に携帯がガシャッと音を立てて壊れる音がした。
　げ？まじ？
　ショックで顔を歪めたオレの目の前には、スーツ姿の女が、手を大きく広げて立っていた。
　ベージュのハイヒールに、キャメルのＡラインコート。
　アキレス腱がくっきりと浮かび上がっている。
　顔は見えないけど、後姿はなかなかイケてんじゃん？
「おいっ、お前誰だ？」
　飛ばされた男が立ちあがって、女に聞く。
「名倉です」
「ナグラ？」
　ナグラ。どっかで聞いたこと、あったような…。
　オレはゆっくりと立ち上がる。
　下から見上げたときは、どんな大女が守ってくれるのかと思ったら、意外に小さかった。
　見積もって、１５５センチ。体重４３キロ。でもっておそらくＢカップ。
　その名倉チャンは、震える声で、それでも男を威嚇するように叫んだ。
「中学の教師です」
「あ」
　そういや、千寿が言ってたんだった。
　産休教師。２４歳。えらく頼りない。
　思わずオレが声を出したせいか、センセはちらりと振りかえってオレを見た。
　確かに、頼りなさそうな、線の細い体つき。
　小さな唇。丸い小鼻。
　どう見たって、社会人には思えない、童顔。よく言って、大学生。
　その小作りな顔の中で、唯一大きな目が、強くオレに何かを訴えていた。
　強い視線に、オレはその答えを求めて、ただ見つめ返していた。
　その一瞬の間を打ち破るように、リーゼントはセンセに手を伸ばす。
「うるせーんだよっ、このアマッ」
「キャッ」
　オレはそいつの腕を掴むと、もう片方の腕で、センセを背中に庇う。
　渾身の力をこめて、リーゼントはオレから腕を離そうとしたけど、オレの力の前に、その腕をわなわなと震わせるのが精一杯だった。
　唖然としてるセンセに、オレは肩越しににこっと笑顔を向けた。
「悪いけど、どいててくれる？センセ」
リーゼントの腕を締め上げて、オレはその鳩尾を思いきり蹴り上げる。
うっと声を上げて、リーゼントは床に転がった。
　憂さ晴らしにはちょうどいい。
　オレは少し斜に構えて、にやりと笑うと、後ろで構えているパンチと坊主に言った。
「来いや」
　先に手を出してきたのはパンチの方で、オレはその腕をしゃがんで避けると、思いきり脛を蹴り上げた。思わずしゃがみこんだところで、思いきり顎をひざで蹴り上げる。
「うっ」
　口を切ったのか、血が飛び散っていたが、そんなことオレには関係なかった。
　一瞬ひるんだ坊主は、鉄パイプを片手に、叫びながらもオレに向かってきた。
「うぉー」
　お前らオレをなめすぎてんだよ。
　大きく振りまわした鉄パイプを避けながら、オレは軽くその腕に蹴りを入れる。カランという音がして、痺れて動かなくなった手を握り締めて、坊主がオレを怯えた目でにらんでいた。
　まったく、憂さ晴らしにもなんねぇよ。
　オレがその鉄パイプを拾い上げた時、突然サイレンの音がした。と同時に、今までになかった金髪プリンが顔を出して坊主に言った。
「やべっ、サツだ」
　どうやら金髪プリンは、見張り役だったらしい。
　二人は急いで、リーゼントとパンチを起こすと、お決まり通り、
「覚えてろよっ」
のセリフを残して去っていった。
　あー、めっちゃくちゃ消化不良っ。
　っていうか、あのセンセはどこ行った？
　怖くて逃げ出したかな？
ふいに誰かがオレの手を強く引いた。振りかえると、探していたセンセだった。
「早くっ」
　早くって、どこに？
　それでも名倉センセはその小さな手で、オレの腕を強く引いた。そして、脇に止めてあったバイクに跨ると、オレに命令した。
「早くっ、出してっ」


　結局、そうしてオレはバイクとセンセと一緒に、埠頭に来ていた。
　誰が警察呼んだか知らねぇが、店にも入ってきたんだろうな。
　まったく、どうしてこんなことになってんだか。
「結構大事になるのね」
「は？」
「神楽君のピンチと思って１１０番押したんだけど、あんなにサイレンうるさいと思わなかったわ。はー捕まるかと思って、どきどきしちゃった」
　まじ？
　オレは頭を抱え込む。
　あいつらには言わないでおこう…。
　ふと目の前に、花柄のハンカチが差し出された。
「怪我、してるんじゃないの？」
　名倉香苗センセはそう言って、心配そうにオレの顔を見つめる。そのハンカチをオレは受けとって、ひらひらとはためかせると、おどけたように言う。
「残念デシタ。こう見えて、オレってケンカ強いんだよね。あんな雑魚、警察来なくても簡単にやっつけてたの。センセ、そのくらい知ってんじゃねぇの？」
　補導回数は両手では足りないくらい。
　今度は少年院にぶちこんでやるってのが、警察の常套句。
　学校も、放り出した問題児。
　このままの成績、出席日数では、どの高校にも行けない。
　おそらく、学校の調書にはそうやって書かれてるはずだ。
　ひらひらと泳がせていたハンカチを掴むと、センセはオレを強く見つめた。
　へぇ、黙ってれば、結構いい女じゃん。
　オレはおどけたようにはいっ、と言って片手を上げる。
「センセ、質問」
「何？」
「彼氏は？」
「いないわ」
　ふーん。
　するとセンセは同じように手を上げた。
「それじゃあたしからも、質問」
「何？」
「いつまでこんなことしてるつもりなの？」
　…結局、教師は教師でしかない。
　オレはくるりとセンセに背を向ける。
「センセに、関係ないね」
「関係ありますっ」
「オレが学校に行かなきゃ、センセの給料減らされるって？」
　くるりと振りかえると、センセが唇をかみ締めていた。
　あーあ、これだから教師ってのは。
「関係ねぇんだよ。そんなこと、オレには」
　そういって、オレは煙草を取り出す。口に加えて、火を探していると、センセは煙草を箱ごと取り上げた。
「あっ、おい」
　でもって、口の煙草も。
「未成年でしょ？煙草は駄目」
「うっせーなっ」
　返せよっ、と伸ばした手を、センセはするりと交して、オレに言った。
「とにかく顔を出しなさい、学校に」
　そして、不釣合いなヒールの音をカツカツ鳴らして、一人埠頭を去っていった。
　何なんだ。あの女。
　あーあ、せっかくのバースディパーティーが台無しだ。
　携帯も壊すし。
　おとなしく帰って、千代美にでもおいしいもん作ってもらおう。
　ジャケットのポケットに手をつっこんで、バイクのキーを捜す。だいたい、キーなんか挿しときゃいいのに、あの女、地球によくないとかで抜きやがって。
　あれ？
　ねぇよ。
一応、ゆっくりと探してみる。でも、ポケットにはない。
　煙草すら、ない…。
「マジ？」
　たぶん。ポケットには煙草とバイクのキーしかなくて、今その二つがないってことは、煙草の箱に、キーが入り込んでいたってこと。
　それに気づかずに、俺は煙草を吸い始めた。
　もちろん、今煙草の箱を持っているのは、あの女教師。
「…畜生っ」
　オレはそう言うと、バイクに蹴りを入れた。



　突然に現れた俺の姿を見て、職員室中がざわめきだった。
　何かを起こすんじゃないかと、ぴりぴりと神経を尖らせてる教頭。
　オレに何か言いたそうな体育教師。
　それと、憧れの視線を向ける幸運にも職員室に居合わせた女子たち。
　教師にはすこぶる評判が悪いオレだけど、学校じゃ「アイドル火狩三兄弟」として女子から騒がれていた。千寿に言わせると、
「それだから、学校も手足が出せない」
らしい。実際に、かつてオレを殴りつけた体育教師は、それから二週間後、女子のブルマを盗んだとかで、謹慎処分になっていた。実際、そいつが盗んだどうかは定かじゃない。けど、それ以上の騒ぎになることを怖がった学校サイドは、すぐに処分を下したって話だ。
　ったく、来いって言った本人がいねぇんじゃんか。
　オレがそう思って、職員室を出たところで、向こうから歩いてくるセンセが見えた。


　屋上には誰もいなかった。
　午後の授業が始まるチャイムが鳴っていたけど、センセは全然気にしてない。
「返せよ、煙草」
　久しぶりに着た制服は、何だか少し縮んでいた。どうやらオレは、また背が伸びたらしい。
　紺色のスーツ姿のセンセは、下から見上げるように、少しオレを睨んで言う。
「未成年のうちは駄目」
「煙草ん中にバイクのキーが入ってるんだよ」
「尚更駄目よ。神楽君は無免許でしょ」
　いたいとこ、つかれた。
「昨日、バイクの後ろに跨って、走らせろっつったのは、誰だっけ？」
「昨日のは、緊急事態よ」
　その理論、無茶すぎねぇ？
　だいたい、その緊急事態引き起こしたのは誰だっつーの？
「オレも緊急事態。あのバイク、オレんじゃねぇんだよ。返さなきゃなんねぇの」
　うーんとセンセは腕組をしてから、急に笑顔になった。
「私が運転するわ」
「へ？」
「一応免許、持ってるもの」
　


　結局、放課後に、センセはオレを掴まえて、タクシーで昨日の埠頭にバイクを取りに行った。スカートで運転？と思ってたら、途中でジャージに履き替えてまでして。
　そして、バイクの持ち主である昨日の店のマスター・馬木のジジを尋ねた。
　店はまだ開店前で、ジジだけがいた。センセは着替え中。
「昨日、大丈夫だった？サツが来てたけど」
「ああ、あのくらい。別にどうってことないさ」
　よかったよかった。
　ここでオレがホッとするのも変な話かもしれないけど、元凶はあのセンセなんだ。
　それがすっげー変な先公で…、
　と話し出したオレに、いつになく真顔でジジが言う。
「お前、携帯なくしたのか？」
「へ？ああ。そういや、昨日壊しちまったんだ。あのセンセのせいで。今は千代美の借りてんだ。それより、昨日なんか用あった？」
　ジジはいいやと答えると、そのまま無言で下準備を続ける。
　変なジジ。
　オレはぶらぶらと携帯を揺らす。
　でもジジはオレに顔も見せないで、俯いて作業をしてる。
「おい、神楽」
　カウンターに置かれたのは、小さなプレゼントの箱。
「なんだ、これ」
「プレゼント」
「へぇ？馬木のジジが？」
　早速と中を開いていく俺に、ジジの低い声が響く。
「オヤジさんから」
　ここの連中で、唯一オレの素性を知ってるのが、馬木のジジだ。
　素性といわず、全部話していた。
　ここに来ることになったきっかけも、全部。
「いいオヤジさんじゃねぇか」
　条件反射だった。
　オレはそのプレゼントを思いきり床に投げつけた。
　プレゼントは転がって、着替え終わって洗面所から出てきたセンセの足元で止まった。
「神楽っ」
　馬木のジジの声が聞こえたけど、俺はそのまま店を出ていった。


　カツカツと、オレを追いかけて足音がする。
　似合わないハイヒールを履いて。
　あ、ほら。今音が乱れた。
　何転びそうになってんだよっ。
絶えきれず振りかえると、センセは慌てて足を止めた。
「ついてくんな」
「でも」
「いいからっ、ついてくんなよっ」
「でも、これ」
「こんなもんっ、持ってくんなよっ」
　オレはセンセが差し出した親父のプレゼントを道路に投げ飛ばした。車が轢いて、グシャという音が微かに聞こえた。
「神楽君はお父さんが嫌いなの？」
「ああ」
「どうして？」
「うっせーっ」
　オレの大声に、センセがびくんと動きを止める。
「あんたに話してもわかるかよっ」
　わかるわけがない。
　オレたち家族の関係。
　わかるわけなんかない。
　オレが生まれた意味。
　わかってたまるかっ。
　走り出したオレを、追いかけるヒールの音は聞こえてこなかった。