それから一週間、赤平は学校にもマンションにも姿を現さなかった。
　学校には父親から、風邪をひいたのだと連絡があったそうだが、本当は別の理由だろうということは、想像できた。
　何があったの？赤平？
　元気にしてるの？
　気づいたら、授業中ですら、私はポケットに携帯を持つようになっていた。
　いつ、赤平から連絡が来ても受け取れるように。
　だけど、連絡が入ることはなかった。
　気付いたらもう、内部受験の日で、それなのに赤平は風邪のまま学校には来なかった。
　担任曰く、今までの成績もあるから、追試を受け、大学に進学することになるのだと言う。
　それじゃ、赤平は医者になる夢は諦めてしまったんだろうか。
　家に戻って、一人静かなリビングに座ってそんなことを考えていると、チャイムの後に荒々しくドアが叩かれた。
「亜香子っ、開けてくれっ」
　インターホンに出るまでもなく、私は慌てて玄関のドアを開ける。
「赤平っ、どうしたの？」
　赤平は何も言わずに中に入ると、ドアの覗き穴で外を確認してから、乱暴に私の手首を掴んだ。
「逃げよう」
　いきなりの展開に、頭が真っ白になりかけながらも、私は赤平に聞き返した。
「どうしたの？お父さんのご容態は？」
「あんな親父の嘘にひっかかった俺が馬鹿だった」
　へ？嘘？
「あれは、俺を亜香子のところから戻して、家に閉じ込めておく為の嘘だ。
　おかげでこっちは学校にも行けなくてずっと監禁状態だったんだ。
　それを振り払って何とか逃げ出してきた。
　亜香子、早く荷物まとめて」
「え？」
「だから逃げるんだよっ」
「逃げるってどこに？」
「そんなことを考えてる暇はない。そろそろ俺が逃げ出したことに気付いてるはずだし、そうすればここにも誰か来るだろうから、その前に逃げないと」
「でも」
　なかなかうんと言わない私に、苛立った赤平が叫んだ。
「気付いてないと思ってんのかよ？俺が、亜香子の嘘に」
　最後に会った時、私は赤平に言ったのだ。
　赤平は、私にとって生徒でしかない。
　それは、たしかに私がついた嘘だった。
　でもそう言わないと、赤平は家に戻らないと思ったし、そう言うべきだと思ったのだ。
　例え、本当はそれ以上の感情があっても、それは言うべきじゃないと。
　ふざけんな、と小さく呟き、赤平は私に向かって怒鳴り続けた。
「お前の嘘なんか、簡単にわかる。
　どれだけ俺が、亜香子のこと見てたと思ってるんだよ。
　どれだけ俺が、亜香子のこと知ってると思ってるんだよ」
　だとしたら、赤平は、あの時嘘をついた私の気持ちも全部、見抜いていたというのだろうか。
　それでも、その嘘を問い詰めるわけでもなく、受け止めたと言うのだろうか。
　時間がないんだと、手を引く赤平に、私は呟くように答えた。
「でも…ダメよ、そんなの」
　それを聞いた赤平が、私を睨みつけた。
　また嘘をつこうと思ったら、それもできた。
　でも、また赤平にばれてしまうのかもしれない。
　だとしたら…。
　私は、腹をくくると赤平に向き合って答えた。
「そんな風に逃げても、何も解決しないじゃない。
　医者になるって夢は？どうするの？
　受験まではあと一カ月以上あるでしょう。
　それまで、まだ説得する時間があるってこと。
　赤平には、自分の道を自分の力で切り開いてほしいと思ってるし、そうできると思ってる。
　私が、惚れた男だから」
　一瞬だけ、赤平の目が大きく見開かれた。
　そして何かを言おうとしたところで、再びチャイムが鳴った。
「坊ちゃん？こちらにいるんでしょう？帰りましょう。旦那様がお待ちですっ」
　赤平が何か言う前に、私がドアを開ける。するとドアの前に立っていた黒服の男たちが玄関に入ってきて赤平を捕まえた。
　そうして黒服の男たちに両腕を取られて、赤平は家に帰っていた。
　抵抗することなく、だけど、じっと私を見つめながら。
　車に乗り込んだところを見て、私は静かに部屋に戻った。
　リビングに入った途端に、力が抜けて床に座り込む。
「…言っちゃった」
　顔が風邪を引いた時みたいに熱い。
　思わず、両手で頬を抑えると、指に何かが触れた。
　涙だ。
「やだ…もう、どうして」
　それからしばらく私は泣き続けた。
　もう私の頭を優しく撫でてくれる赤平はいなかったけど、それでも涙が止まる頃には、気持ちがすっきりして落ち着いていた。



　　　　　◆　　　　　　　　　　◆　　　　　　　　　　◆



　桜のつぼみがようやく見え始めた頃。
　学校は、どこもかしこも、晴れ晴れとした表情の生徒でにぎわっていた。
　もちろん泣いている生徒もいれば、抱き合っている生徒もいたり、それぞれがそれぞれの方法でこの三年間の別れを惜しんでもいる。
　付属の大学に進学する生徒がほとんどで、終業式の延長線上だと今まで気にも留めなかった卒業式だったけれど、ちゃんと見ていると色んな生徒がいるのがわかる。
　そしてその生徒たちを見ても、成長しているのがよくわかった。
　目の前にあるのに気にも留めず、見ようともしていなかったものが、たしかにそこにある。
　三十を過ぎてそんなことに気付くなんて。
　だけど思う。
　気づいたり、勉強したりするのに、年齢は関係ない。
　だってそう気付かせてくれた赤平は、私より一回りも年下なのだ。
　その赤平とも、今日でお別れになる。
　あの日以来、赤平とはまともに顔を合わせてなかった。
　赤平は結局追試は受けたけれど、外部受験するという話は、話題になったので聞いていた。でも、知っていたのはそこまで。学校に反対されての外部受験ということで、赤平も報告をちゃんとしてないようだったし、私も積極的に調べようとしなかったから。
　ただ卒業式の今日は、少し赤平を見ることができた。
　久しぶりに見る赤平は、少し痩せたようだった。
　だけど、単なる教師と生徒の関係だから、私は遠くからそんな赤平を眺めるだけだった。
　最後のホームルームも担任教師が担当をして、副担任の私はやることもなく職員室にいた。すると、クラスの女の子が私を教室へと呼びに来てくれた。
　一緒に写真を撮ったり、抱き合ったり、頑張ってねと声をかけたり。
　流石にしんみりした気持ちになる。
　去年も同じようなことがあったはずなのに、どうしてか思い出せないのは、きっと私が変わってしまったからだろう。
　明るくバイバイと手を振って彼女たちを見送って、独り教室に取り残されると、更にその気持ちが強くなった。
　こんな気持ちで毎年春を迎えるのは、ちょっと辛いなあ、なんて思っているとドアががらりと開いて、見覚えのある顔が教室に入ってきた。
　手には大きなバラの花束を抱えている。
　きっと在校生から贈られたんだろう。
　悔しいほどに、赤いバラが似合っていた。
　頬にこぼれた涙をさりげなくぬぐいながら、私はずっと心の中で用意していた言葉を口にする。
「卒業おめでとう、赤平」
　赤平はにっこりと笑って答えた。
「無事受かったよ。Ｋ大の医学部」
　ああ良かった。
　崩れそうになる表情を抑えて、私は答える。
「おめでとう」
　赤平は、ありがとうと少し照れながら答えた。
「親父はまだ応援はしてくれてないけど、でもいつか許してくれると思う。
　弟ができて、ちょっと性格丸くなったみたいだから」
　言われて私は自分より年下の赤平の義理の母親のことを思い出した。
　結婚して、子供も産んで。
　世間的に見たら、きっと彼女は勝ち組で幸せで、私は負け組で不幸って見えるのかもしれない。
　たしかに彼女の人生を羨ましく思わないわけじゃない。
　でも、私的には、今の自分は好きだ。
　しかも、かなり。
「結構かわいいもんだな、赤ちゃんって。外科に行くつもりだったけど、産婦人科もいいかもしれない」
　崩れた笑顔を見せる赤平には、少し大人の風格が漂っていた。
　思わずその笑顔にどきりとして、私は慌てて教師の顔に戻る。
「そうね。これからもがんばって。それじゃあ」
　最後に話せただけでも十分。
　そう思って、赤平の脇を抜けて教室を出て行こうとすると、目の前にいきなりバラの花束が広がった。
　足を止めると、赤平がそれを改めて私に差し出した。
「…女の子たちからもらったんじゃないの？」
「これは違う」
　それでも私が素直に受け取れずに戸惑っていると、赤平がいきなり私の前に跪いた。
「ちょっと赤平―」
「亜香子」
　俺の話を聞いてとばかりに名前を呼ばれて、私も思わず言葉を飲み込む。
　赤平は、下から私を見上げると、じっと眼を見つめて真剣な表情で言った。
「俺、まだガキだから、きっとこの先も色んな壁にぶち当たると思う。
　将来のこともそうだし、親父のことも、それ以外でも。
　だから、やっぱり亜香子には味方でいてほしいんだ。俺の傍で」
　赤平はそう言うと、ポケットから小さな箱を出し、蓋をあけて私に見せた。
　箱の中には、日の光を浴びて輝きを放つ指輪があった。
　それが婚約指輪ということは、聞かなくてもわかる。
「プロポーズ。遅くなったけど」
　赤平はそう言うと、にやりと笑って続けた。
「１８歳にもなったし、高校は卒業したから、もう教師と生徒でもない。
　亜香子の出した条件は、全部クリアした。
　それに、年齢は関係ない。そういったのは、亜香子だろ。精神年齢じゃ、むしろ俺の方が上だし」
　自信満々にそう言う姿に、思わず私は笑みをこぼした。
「相変わらずね、生意気な態度」
「それ言うなら亜香子も、相変わらず脇が甘いっつーか、俺のことなめてるっつーか。
　あんなことで俺が諦めるわけないだろう？」
　くすっと笑うと、赤平も同じように笑う。
　ほんと、相変わらずだ。
　生意気な態度も、
　全てお見通しって、表情も。
　でもまあ、その通りだから、仕方ない。
　つい半年くらい前まで、私の夢は結婚することだった。
　しかも、三十歳になる前に。
　けれどその夢は叶うことはできずに、私は三十歳になった。
　でもよくよく考えてみると、本当に願っていたのは、そういうことじゃない。
　好きな人と、結ばれること、だ。
　心から、好きだと思える人。
　学歴とか、年齢とか、年収とか、外見とか、
　そういうのをとっぱらって、一緒に歩いて行けると思える人。
　その夢を一緒に叶えてくれる相手が、今私の目の前で婚約指輪を広げている。
「返事は？」
「言わなきゃダメ？」
「当たり前だろ？その為に、俺受験も親の説得もがんばったんだぜ」
　赤平はそう言うと、持っていた花束を私に押し付けて、改めて婚約指輪の入った箱を、私に差し出した。
「俺と、結婚してくれますか？」
　ほろりとこぼれる涙をぬぐい、私は何度も夢に見た笑顔で答える。
「はい」